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ステーンベルヘンの戦い (1747年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ステーンベルヘンの戦い

ステーンベルヘン要塞の地図、1751年。
戦争オーストリア継承戦争
年月日1747年7月14日
場所ネーデルラント連邦共和国ステーンベルヘン英語版
結果:フランス軍の撤退
交戦勢力
ネーデルラント連邦共和国の旗 ネーデルラント連邦共和国 フランス王国の旗 フランス王国
指導者・指揮官
ネーデルラント連邦共和国の旗 リンデン・ファン・ブリッテルスヴァイク卿(Heer van Lynden van Blitterswijk フランス王国の旗 レーヴェンタール伯爵英語版

ステーンベルヘンの戦い(ステーンベルヘンのたたかい、オランダ語: Aanval op Steenbergen)は、オーストリア継承戦争中の1747年7月24日フランス王国軍によるネーデルラント連邦共和国ステーンベルヘン英語版要塞への攻撃。攻撃は1747年7月12日にフランスのレーヴェンタール伯爵英語版が始めたベルヘン・オプ・ゾーム攻囲戦の一環であった。その前には共和国領フランドルフランス語版がすでに占領されていた[1]。ベルヘン・オプ・ゾームが陥落したことでステーンベルヘンの包囲は解かれた。

背景

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ステーンベルヘンは西ブラバント洪水線オランダ語版の一部であり、当時は4から5本の道があって騎兵約150名が駐留していた。同市は水門(Waterpoort)と東門(Oostpoort、または「十字門」(Kruispoort))と2つのゲートがあった。ステーンベルヘンはまた堡塁が6つ建てられている城壁に囲まれており、その外周には深く広い水道がステーンベルセ・フリート川オランダ語版から流れていた。ほかにはラヴリン2箇所、角堡英語版冠塞英語版1か所ずつがあった。ステーンベルヘン自体の駐留軍は400人であったが、西ブラバント洪水線全体では約1千人が駐留していた。

そして、ベルヘン・オプ・ゾームが包囲されたことで、近隣のステーンベルヘンも包囲を受けることとなった。

経過

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レーヴェンタール伯爵はベルヘン・オプ・ゾームで夥しい損害を出していたが、7月24日に突如突如ステーンベルヘンへの攻撃を命じられた。彼は命令に従って1個大隊と騎兵をステーンベルヘンへ派遣した。攻撃の目的はオランダ軍の連絡線を断つことにあった。ステーンベルヘン駐留軍の指揮官リンデン・ファン・ブリッテルスヴァイク卿(Heer van Lynden van Blitterswijk)は激しい砲撃戦を戦ってステーンベルヘンを守った。

その後

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フランス軍は続いてベルヘン・オプ・ゾーム近くにあるカーク・イン・デ・ポートオランダ語版の防御線を攻撃しようとしたが失敗した。フランス軍は台車13台で戦傷者をブレダへ運んだが、いずれも満員であり、そのおびただしい損害を示していた。レーヴェンタールは死者を埋蔵するために停戦を提案したが、彼はステーンベルヘンを包囲したわけではなく襲撃したため断られた。

ベルヘン・オプ・ゾームはその後、9月16日に強襲されて陥落したが、フランス軍は2万人以上の死者を出し、一方守備軍も6千人が戦死した。ベルヘン・オプ・ゾームの陥落直後、フランス軍は規律を失い、町を略奪した。略奪は結果的にはフランス軍が戦意を失うきっかけとなった。というのも、要塞の包囲に成功しても、略奪ができなかったためである。そのため、ステーンベルヘンとブレダの包囲は放棄され、フランス軍はベルヘン・オプ・ゾームに沿って南側に防御線を設け、冬営に入った。

脚注

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参考文献

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  • Andries van Damme, Europische mercurius, Volume 58 1747 P. 129-148 Uitgave 1747
  • English officer of distinction An Authentick and Accurate Journal of the Siege of Bergen-op-Zoom: With a Plan of the Town, from the Day the French Sat Down Before It, to the Hour of It's Being Taken; ... Taken on the Spot, by an English Officer of Distinction, ... Uitgave: W. Owen, 1747
  • Arend Fokke Simonsz., Jan Wagenaar, Beschryving der stad bergen op de Zoom: Verrijkt met een omstandig bericht van het beleg dier vesting door de Fransschen in ... 1747 ; Benevens een platte grond des Belegs ... P.27 Uitgave: Arend Fokke, 1780