ジンゲ

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真哥肖像

ジンゲ(? - 1327年)は、コンギラト部出身の女性で、モンゴル帝国第7代皇帝クルク・カーン(武宗カイシャン)の妃の一人。『元史』などの漢文史料では真哥 (zhēngē) 皇后と記される。

概要[編集]

『元史』巻114列伝1后妃伝によると、コンギラト部の出身でブルブラ(迸不剌)の娘として生まれたという[1]

コンギラト部はチンギス・カンの正妃ボルテを輩出して以来、チンギス・カン家の姻族として繁栄してきた一族であり、ジンゲもカイシャンの妃の中では『元史』「后妃表」の中で筆頭に挙げられるなど最も高い地位にあった[2]。至大3年(1310年)にはカイシャンの皇后に立てられている[3]

しかし、ジンゲとカイシャンの間には息子が生まれず、カイシャンの息子はイキレス氏が生んだコシラ(後の明宗クトクト・カーン)とタングート氏が生んだトク・テムル(後の文宗ジャヤート・カーン)がいるのみであった。

カイシャンがカーンに即位した時、弟のアユルバルワダとの間に「アユルバルワダを皇太子(次期カーン)とする代わりに、アユルバルワダの後はカイシャンの息子(コシラ、トク・テムル)を皇太子(次期カーン)にする」という約束がなされていたが、この約束はカイシャン、アユルバルワダの母で絶大な権勢を得ていたダギの意向によって無視された。これはダギがコンギラト出身であり、非コンギラト出身の女性(イキレス氏、タングート氏)を母とする人物をカーンに戴くことを認め難かったためと考えられている。そのため、アユルバルワダの皇太子とされたのは、アユルバルワダとコンギラト出身の妃ラトナシリの間に生まれたシデバラ(後の英宗ゲゲーン・カーン)であった[4]

英宗を経て泰定帝イェスン・テムル・カーンの治世に入り、泰定4年(1327年)11月にジンゲは亡くなった。イェスン・テムルはジンゲを尊んで宣慈恵聖皇后と諡した[5]

脚注[編集]

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  1. ^ 『元史』巻118列伝5特薛禅伝「武宗宣慈恵聖皇后諱真哥、脱憐子迸不剌之女」
  2. ^ 『元史』巻106表1后妃表真哥皇后弘吉剌氏、至大三年冊為皇后。泰定四年上尊諡曰宣慈恵聖皇后」
  3. ^ 『元史』巻114列伝1后妃伝「武宗宣慈恵聖皇后、名真哥、弘吉剌氏、脱憐子迸不剌之女。至大三年四月、冊為皇后、其文曰……」
  4. ^ 杉山1995,120ー132頁
  5. ^ 『元史』巻114列伝1后妃伝「皇慶二年、立長秋寺、掌皇后宮政、秩三品。泰定四年十一月崩、上尊諡曰宣慈恵聖皇后、升祔武宗廟」

参考文献[編集]

  • 杉山正明「大元ウルスの三大王国:カイシャンの奪権とその前後(上)」『京都大学文学部研究紀要』34号、1995年