ジョン・ボイド (軍人)
| ジョン・ボイド John (Richard) Boyd | |
|---|---|
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| 渾名 |
40秒ボイド ゲットー大佐 ジンギス・ボイド |
| 生誕 |
1927年1月23日 ペンシルベニア州エリー |
| 死没 | 1997年3月9日 |
| 所属組織 |
|
| 軍歴 |
1945年〜1947年 (陸軍航空軍) 1951年〜1975年 (空軍) |
| 最終階級 | 空軍大佐 |
| 戦闘 |
朝鮮戦争 ベトナム戦争 |
入隊以前
[編集]1927年1月23日、ペンシルベニア州エリーにて、ジョン・ボイドはハンマーミル製紙会社のセールスマンであるヒューバート・ボイドとその妻エルシーの間に、第4子として生まれた[1]。家庭は円満だったが、1930年1月19日に父であるヒューバートが肺炎で死去し、1933年に妹であるアンがポリオウイルスに罹患して後遺症が残ったため、一家は困難に直面した[2]。ジョンは1933年にハーディング小学校に入学、最初の1学年は落第したものの、まもなく知性と集中力の片鱗を見せ始めた[2]。また在学中には水泳を覚えたほか飛行機への関心も芽生えており、5年生のときには、母エルシーの知り合いの実業家であるジャック・エッカードの自家用機に搭乗するという経験をしている[2]。
ジョン・ボイドは1939年にストロング・ヴィンセント高校中等部、1942年には同高校に入学した[3]。高校では水泳部に所属し、同地の水難救護員にも選ばれた[3]。通常、水難救護員は大学生から選ばれていたが、当時は既に大学生はもちろん高校3年生も多くが徴兵されていたため、まだ若いボイドも選ばれたものであった[3]。水難救護員は同地の若者の間では名誉ある職と見なされており、ボイドは軍に入隊する際の書類に、民間での仕事として「水難救護員」と記入した[3]。
初期の軍歴
[編集]1945年、ボイドは19歳でアメリカ陸軍に入隊し、航空軍に配属された。1946年1月3日に連合国軍占領下の日本に到着、第49戦闘群第8飛行中隊に配属された[4]。ボイドは水泳教官となり、空軍極東水泳チームのメンバーとなった[4]。ボイドは約20か月の兵役を経て1947年に除隊し、復員兵援護法を活用してアイオワ大学に入学した[4]。これは、当時同大学に伝説的な水泳コーチであるデビッド・アームブルースターが在籍していたためであったが、1948年ロンドンオリンピックでの金メダリストであるウォリー・リスと在籍期間が重複していたこともあって、ボイドはアームブルースターの指導を受けることはできず、ボイドにとっては不本意な結果となった[4]。同大では予備役将校訓練課程(ROTC)に所属していたほか、妻となるメアリ・ブルースとも出会っている[5]。
経済学の学士号を取得したのち、1951年には、ROTCにしたがってアメリカ空軍に再入隊した[4]。当時、アメリカ軍は朝鮮戦争を戦っており、入隊間も無いボイドも朝鮮に派遣された。彼は第51戦闘要撃群第25戦闘要撃飛行隊のF-86の操縦士となり、1953年6月30日にはMiG-15戦闘機1機に損害を与えた[6]。操縦技術が優れていたことから10月20日には作戦補佐官になり、また既に航空戦術への傾倒の片鱗が見えており、11月25日には飛行指揮官、そして飛行中隊の戦術教官となった[6]。この経験は、ボイドが後に創案した各種の理論の土台となった[7]。
1955年4月、ボイドはネリス空軍基地のアメリカ空軍戦闘機兵器学校(FWS)に入校し、卒業と同時に教官として迎えられた[8]。これは当時の空軍パイロットにとって最大級の名誉であり[8]、ボイドの業績評価書には、はるか上位の上官である少将がわざわざ筆を入れ、「この若きパイロットは、私の知る他のどの中尉よりエネルギーがある…同期に先んじて昇進できるように取り計らうことを勧める」と記載した[9]。ボイドは1957年に大尉に昇進した[9]。
FWSにおいてボイドはF-100の教官を務め、まもなくもっとも影響力のある空中戦戦術家と目されるようになった[10]。学生機との模擬空戦において、「不利な位置から開始して、40秒以内に位置を逆転させる(後方の攻撃位置を占位する)」との賭けをたびたび行ない、6年間/3000時間におよぶ戦闘訓練で無敗を誇った。このことから、戦闘機教官としてのボイドには、40秒ボイドという渾名が進呈された。
1959年、異動を控えたボイドは、その戦技をマニュアルとしてまとめることを決意した[11]。このマニュアル作成は本来業務として認められなかったため、時間外に主として口述筆記として行われ、1960年に『航空攻撃研究』(Aerial Attack Study)として上梓された[12]。同書は空中戦における機動と対抗機動の連続を初めて理論化したものであり、のちのE-M理論の原型が既に含まれていた[10]。
E-M理論の創案
[編集]ボイドは1953年2月14日に第一子(長男)となるスティーブンを授かったが[13]、1歳のときにポリオウイルスに罹患し、ボイド自身の妹と同様の後遺症に悩まされた[14]。ジョージア州のウォームスプリングスは、ルーズベルト大統領がポリオ後遺症への理学療法を受けたことで有名な地であり、ボイドはスティーブンが同地で理学療法を受けられるよう、勤務地を極力その近くで選ぶようになっていた[14]。
FWSでの勤務を通じて、ボイドは航空戦術の理論化を志向するようになっており、これに理論的な裏付けを与えるため、技術系の学位を取得することを希望するようになった[11]。当時ボイド家には4人の子供がおり、またスティーブンの湯治を継続する必要からも、ボイドは、学費を空軍が負担してくれる空軍工科大学 (AFIT) を通じてジョージア工科大学に入学することとした[11]。1960年9月14日から通学を開始し、産業工学の学士号を取得した[15]。在学中、熱力学の授業で偶然同席した航空工学の学生と話している際に、のちにエネルギー機動性理論(E-M理論)として知られることになる画期的な理論の着想を得た[15]。また物理学と熱力学の2名の教授とも出会い、多くの示唆を受けた[7]。
AFITを通じて学位を取得する場合、修了後は空軍システム司令部所属の基地のどこかで勤務する必要があり、ボイドはやはりスティーブンの湯治の便を考慮して、フロリダ州エグリン空軍基地を選択した[16]。ボイドは同地で様々な雑務に駆り出されたのち機体整備に配置されたが、本来業務の傍ら、FWS時代の上司であったヴェルノン・スプラッドリングおよび教え子であったロナルド・カットンと連絡を取りつつ、航空戦術の理論化を推進していた[16]。
同基地に勤務する文官であったトーマス・クリスティとの邂逅により、この理論化は飛躍的に進展した[17]。クリスティは、陸軍航空軍時代から用いられてきた爆撃要領を刷新するという業務を任されており、弾道学を通じて飛翔体の移動・挙動の計算処理に熟達していた上に、コンピュータの計算資源も潤沢に与えられている立場であった[17]。クリスティとの議論の過程で、ボイドの新理論はE-M理論と命名された[17]。これは、いわば熱力学の考え方を空戦理論に導入したものであり、要すれば、戦闘機の戦闘能力は機体が有するエネルギー量によって決定されるというものであった[17]。
クリスティはボイドより遥かに数学に熟達していたこともあり、この理論を定量的に評価するための試算を進めていった[17]。当初はクリスティのオフィスに備えられていたワング製のミニコンピュータを使っていたが、すぐに性能不足となった[17]。当時、同地で最も大きなコンピュータはIBM 704であった[17]。ボイドが正規のルートでIBM 704の使用を申請した際には門前払いされてしまったが、クリスティは自らの本来業務に紛れ込ませる形で計算を行い、研究を大きく進展させた[17]。またライト・パターソン空軍基地の飛行力学研究所から入手した外国機のデータも、解析対象とされた[17]。
1964年、ボイドとクリスティは、E-M理論を完成させ、エグリン、ネリスなど様々な空軍基地や航空機メーカーでブリーフィングを行い、1964年末には戦術航空軍団(TAC)司令官のスウィーニー大将や空軍長官にもブリーフィングを行った[18]。後の戦闘機設計への関与の際に、ボイドはE-M理論を実際の機体設計に反映し、この功績により、1975年6月には空軍で最高の科学賞であるハロルド・ブラウン賞を受賞した[19]。
ただしボイドは、実地経験よりもE-M理論を優先する傾向があり、海軍戦闘機兵器学校の教官たちにE-M理論を説明する際、その教官たちのなかには北ベトナム上空で実際にMiG-17を撃墜した経験がある操縦士が含まれていたにも関わらず「F-4ではMiG-17とのドッグファイトには勝てない」と述べて、海軍側からは「ジェット機で戦うよりも、計算尺で相手を叩きのめすことを好むような人間を、決して信用してはならない」と不信感を抱かれた[20]。また後のLWF計画の際には、E-M理論に基づけばYF-16とYF-17との差は少ないはずだったが、実際に操縦したパイロットは全員一致でYF-16を支持しており、ボイドを混乱させた[21]。
戦闘機設計への関与
[編集]FX計画(後のF-15)
[編集]1966年春、ボイド少佐はF-4パイロットとしてタイへの派遣命令を受けた[22]。ベトナム戦争における空中戦は激化しており、ボイドはこれに参加することを熱望していた[22]。しかしまもなく派遣命令は取り消され、かわりに国防総省に異動することとされた[22]。
当時、アメリカ空軍は新戦闘機(FX)の開発に向けた準備作業に入っており、1965年4月にはコンセプト研究が開始された。しかし、ベトナム戦争と第三次中東戦争の戦訓、そして後に1967年にドモジェドヴォ空港で開かれた航空ショーでソ連空軍・防空軍の新鋭機としてMiG-23・MiG-25が公開されたことを受けて議論は紛糾していた[7]。空軍参謀総長 マコーネル大将はボイドのE-M理論と独立独歩の精神に着目し[23]、1966年、ボイドはF-X運用要求策定チームに発令された[7]。
国防総省において、ボイドは、システム分析担当国防次官補室に勤める文官であるピエール・スプレイと邂逅した[7][24]。ボイドは自分の概要説明をスプレイに見せて意見を求めるようになった[24]。スプレイは、ボイドの研究が論敵からの攻撃に耐えられるように極めて鋭い批評を加え、ボイドは「ピエール・スプレイの電動のこぎり」と評した[24]。
ボイドは、クリスティとスプレイの協力のもと、自らのE-M理論を土台としたトレードオフ分析により、コンセプト研究を思い切って見直すこととした。このトレードオフ分析は、当時は理想的翼型と見なされていた可変翼(V-G翼)の棄却やエンジンのバイパス比からの再検討など、非常に思い切ったものであり、この結果、機体重量は27トンから18トンに大幅に軽減された[10]。これによって、FXコンセプト研究の混沌状態は打破され、1968年9月、提案依頼書(RFP)が発出された。このFX計画は、最終的にはF-15として結実することになった[7]。
LWF計画(YF-16・YF-17)
[編集]しかしボイドは、このように見直されたFXに対しても、なお不満を持っていた。その不満は、主に下記の2点であった[7]。
- 視程外射程(BVR)での交戦を重視した結果としてアビオニクスが高度化し、機体価格の高騰から取得性が低下している点。
- さまざまな性能要求によりFXの機体が当初の見積もりよりも大きくなってしまったことなどE-M理論の適用が不徹底であるため、当時推定されていた仮想敵機に対して性能的に劣る危険がある点。
ボイドとスプレイは、余分な装備を一切省き、重量約15トンまで軽量化した理想的航空機の計画を策定し、「赤い鳥」と称した[25]。1968年7月18日、スプレイは空軍システム軍団司令官ファーガソン大将に宛ててFX計画の問題点を指摘した書簡を作成し、ボイドとスプレイによって行われた概要説明において、ファーガソン大将はFXよりも「赤い鳥」のほうが優れていることを認めつつも、配下の中将全員がFXを支持しているため、自分としては反対できないと述べた[25]。
まもなく、3人目の同志として、空軍省勤務の戦闘機操縦士兼航空工学技術者であるE・リッチオニ大佐が加わり、これら3名は戦闘機マフィア (Fighter Mafia) として知られる一派のオピニオン・リーダーとなった[7]。リッチオニ大佐はボイドとスプレイが熱望していたような軽量で比推力が高い戦闘機を信奉していた[26]。当時、海軍の艦上戦闘機としてF-14の配備が進められていたが、ボイドは、これもあまりに重く高価すぎることから、必ずこれを代替ないし補完する機体が必要になると予測したうえで、その種の機体に関する研究で海軍に先んじなければ、空軍は、海軍の研究に基づく機体を押し付けられることになりかねないという論理を構築した[26]。この論理はリッチオニ大佐によって正式に提案され、1969年、空軍上層部は研究予算14万9,000ドルを承認した[26]。この予算はジェネラル・ダイナミクスとノースロップに配分された[27]。ただしリッチオニ大佐の活動はあまりに人目を引き、クリスマスパーティーでジョン・マイヤー空軍参謀次長に対して軽量戦闘機の有用性を説いたために、数日後には在韓米軍に左遷される憂き目にあっている[28]。
ボイドの予想通りF-14とF-15のコスト上昇は問題になり、1971年5月には、アメリカ議会は両者を辛辣に批判する報告書を公表、5000万ドルを用いて、代替となる軽量型戦闘機の開発を始めるよう提言した[28]。国防予算の無駄遣いを追及することで名を馳せたプロキシマイヤー上院議員は、国防予算をLWFに支出すべきとの考えを繰り返し述べた[29]。レアード国防長官の指示を受けたパッカード副長官は軍の調達システムの改善に着手し、1971年夏にはその一環として、全軍種の試作品に対して計2億ドルの予算を支出することが発表された[29]。各軍はこの予算を極力多く獲得すべく努力したが、空軍でその人を任されたライル・キャメロン大佐はスプレイの親友であり、短距離離着陸輸送機とともにLWFをリストに乗せた[29]。1971年12月にパッカード副長官は両プロジェクトを承認したことを受け、空軍はLWF試作機計画を発足させ[29]、1972年1月6日にはRFPが発出された[30]。1972年4月13日、レアード国防長官はLWFの試作機製造を承認した[31]。
この時点では、LWF計画はあくまで実験的な計画であり、本当に装備化されるかどうか不透明であった[30]。ただし1973年に国防長官に就任したジェームズ・R・シュレシンジャーは、スプレイの親友であるリチャード・ハロックに助言を求めていたこともあり[32]、内密にボイドと会合を持ち、LWF計画を推進することを決意した[33]。空軍上層部の中将達はこのことを知らず、LWF計画立ち上げの最終ブリーフィングの席上で、戦闘機マフィアに対して決定的なノックアウトを与えることを目論んでいた[30]。そしてブリーフィングが行なわれるはずであった当日、ボイドは将軍たちに対して、LWFを装備化する決定は既に下された旨、国防長官からの伝言として伝達した[33]。会場は大騒ぎとなり、戦闘機マフィアは完勝を収めた[33]。1974年3月7日、シュレシンジャー国防長官は、LWF計画を空戦戦闘機(ACF)計画に発展させ、全面開発に移ることを発表した[30]。その後、LWFはNATOの同盟国向けとしても注目されるようになり、計画はさらに加速したが、その分、ボイドをはじめとする戦闘機マフィアに対する圧力は、幾何級数的に増大していくこととなった[7]。
勝敗論
[編集]ボイドは、軍事著作家としては珍しく、破壊と創造(Destruction and Creation)以外は、正規の書物ではなく主にスライド・シートの形式をとって発表を行なってきた。その集大成とされるのが勝敗論(A Discourse on Winning and Losing)で、これは327ページ、所要時間15時間の一大ブリーフィングに相当する[7]。
その中核となるのが、OODAループとして有名な意思決定理論である。これは、ボイド自身も経験した朝鮮戦争の航空戦についての洞察を基盤にして、指揮官のあるべき意思決定プロセスを分かりやすく理論化したものである。すなわち、監視(Observe)- 情勢判断(Orient)- 意思決定(Decide)- 行動(Act)のサイクルを繰り返すことによって、健全な意思決定を実現するというものであり、理論の名称は、これらの頭文字から命名されている[34]。コリン・グレイは、OODAループについて、「あらゆる領域で適用できる一般理論」 (Grand theory) と評している[35]。
1975年、ボイドは退役し、以後、13年間に渡って、国防総省等へのコンサルタント業務に就くこととなった。彼は、非常に質素な住居に住んでいたことからゲットー大佐と渾名されていたにも拘らず、ほぼ無償に等しい給与しか受け取らなかった[7]。
国防改革運動
[編集]退役後、コンサルタントとなったボイドは、軍事理論の洞察を深めるとともに、国防改革運動(Defense Reform Movement)の主導者となった[36]。この運動は、軍関係者と産業界との間の腐敗した関係のためにアメリカ軍が高価なハイテク兵器に依存しすぎていると主張し、その結果として極めて複雑なプラットフォームが少数しか配備されず、システム障害の発生確率が高いため即応性が不安定となり、最終的には、より単純なシステムを多数配備するよりも効果が低くなると指摘した[36]。
1979年、ジェームズ・ファローズがボイドへのインタビューを基に『アトランティック』に掲載した記事が、運動の最初期の表出となった[37][38]。リッチオニは、大型で高度な電子機器を備えたF-15戦闘機250機を購入・運用する費用で、小型で簡素な電子機器しかもたないF-5戦闘機なら1,000機を運用可能であり、しかも1日あたりのソーティ数で比較すると、F-15なら250ソーティなのに対してF-5なら2,500ソーティの作戦が可能であると主張し、ファローズの著書で引用された[39]。また国防改革運動の主な標的は戦術航空機だったが、戦車や艦船にも矛先を向けており、従来の航空母艦よりは軽空母や「高適応性水上戦闘艦」、新型のM1エイブラムス戦車よりはM60パットンのほうが有効であると主張した[39]。
これらの主張は、特に空軍から強く反駁された。真冬の中央ヨーロッパでは、パイロットは1日に3時間以上飛行することができず、その間、日照・気象条件によって3.5マイル以上の視界が確保されることはまずないという状況であり、国防改革運動が後押しするような昼間戦闘機での作戦行動にはかなりの困難が予想された[39]。そして湾岸戦争において、国防改革運動が否定していたようなハイテク兵器が大きな成果を挙げたことで、運動は実質的に終焉を迎えた[40][39]。ただし運動の成果としてM1エイブラムスやM2ブラッドレー歩兵戦闘車の生存性の向上がもたらされ、湾岸戦争においてアメリカ兵の生命を守ったものと見なされている[36]。
機略戦理論
[編集]ボイドは退役後、孫武や宮本武蔵、カール・フォン・クラウゼヴィッツ、アントワーヌ=アンリ・ジョミニ、カール・マルクス、ウラジーミル・レーニン、毛沢東など著名な軍事著作家の著作や、古代から現代までの戦史について研鑽を重ねた[7][注 1]。この成果として創出されたのが機略戦(機動戦闘, Maneuver warfare)理論である。これは、#勝敗論において提唱されたOODAループ理論を中核として、『孫子』のコンセプトを導入した作戦術・戦術レベルの軍事理論であった[7]。
ボイドの機略戦理論の影響を受けたのは、空軍よりは、むしろアメリカ陸軍とアメリカ海兵隊であった。ボイドは自ら、バージニア州のクアンティコ海兵隊基地に赴き、基礎課程で年に数回の講義を行なった。1988年、アルフレッド・グレイ海兵隊総司令官は、ポール・ヴァン・ライパー少将に対して、機略戦理論を最重視するよう指示した上で海兵隊指揮幕僚大学教育部長を発令した。そして1990年には、この方針を踏襲して、海兵隊大学内に海兵隊戦略大学(MCWAR)が創設された。1991年の湾岸戦争においては、ボイドの薫陶を受けた多くの将兵が、機略戦理論を実戦に応用した[7]。ただし砂漠の嵐作戦は機略戦理論に完全に忠実だったわけではなく、適宜に政治的配慮を導入した結果として成功を収めたものであったが、この側面が軽視されて機略戦理論が神格化された結果、対テロ戦争・イラク戦争での戦争指導に悪影響を与えた[41]。
晩年
[編集]ボイドは晩年前立腺癌におかされ[42]、闘病の末の1997年、娘に看取られつつ善きサマリア人病院で死去した[43]。ボイドは軍葬の礼をもってアーリントン国立墓地に葬られた。彼は#戦闘機マフィアとF-16において見られたようにジンギス・ボイドと渾名される強情さをもって空軍の官僚機構と闘ったこともあり、空軍から出席したのは、軍楽隊と儀仗兵、そして上層部から指示された名代役の中将1名のみであった。しかし海兵隊からは、総司令官が弔電を送ったほか、多くの将兵が参列した。また、軍事著作家としてのボイドを尊敬した陸海軍将校も多くが参列した。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ↑ Coram 2026, pp. 22–28.
- 1 2 3 Coram 2026, pp. 28–36.
- 1 2 3 4 Coram 2026, pp. 36–43.
- 1 2 3 4 5 Coram 2026, pp. 44–55.
- ↑ Kyle Dute (2006年). “Boyd, John R.” (英語). 2011年11月21日閲覧。
- 1 2 Coram 2026, pp. 73–79.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 大熊 2011, pp. 213–229.
- 1 2 Coram 2026, pp. 98–102.
- 1 2 Coram 2026, pp. 103–107.
- 1 2 3 Ethell 1985, pp. 15–47.
- 1 2 3 Coram 2026, pp. 137–139.
- ↑ Coram 2026, pp. 151–156.
- ↑ Coram 2026, p. 67.
- 1 2 Coram 2026, pp. 88–92.
- 1 2 Coram 2026, pp. 168–175.
- 1 2 Coram 2026, pp. 176–180.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 Coram 2026, pp. 182–198.
- ↑ Coram 2026, pp. 217–227.
- ↑ Coram 2026, pp. 377–380.
- ↑ Robinson 2023, pp. 26–27.
- ↑ Coram 2026, pp. 371–373.
- 1 2 3 Coram 2026, pp. 235–236.
- ↑ Coram 2026, pp. 243–245.
- 1 2 3 Coram 2026, pp. 248–254.
- 1 2 Coram 2026, pp. 284–289.
- 1 2 3 Coram 2026, pp. 296–301.
- ↑ Coram 2026, pp. 302–305.
- 1 2 Coram 2026, pp. 308–314.
- 1 2 3 4 Coram 2026, pp. 317–323.
- 1 2 3 4 Gunston 1984, pp. 1–22.
- ↑ Coram 2026, pp. 323–326.
- ↑ Coram 2026, pp. 340–342.
- 1 2 3 Coram 2026, pp. 353–360.
- ↑ 大熊 2006, pp. 148–152.
- ↑ Hammond 2018, pp. 1–12.
- 1 2 3 Robinson 2023, pp. 18–20.
- ↑ Coram 2026, pp. 425–428.
- ↑ Fallows 1979.
- 1 2 3 4 Correll 2008.
- 1 2 Robinson 2023, pp. 27–30.
- ↑ Robinson 2023, pp. 329–334.
- ↑ Coram 2026, pp. 520–521.
- ↑ Coram 2026, pp. 529–531.
参考文献
[編集]- Coram, Robert『ジョン・ボイド: アメリカ軍と戦争を変えた伝説の戦闘機パイロット』池田忍 (翻訳), 冨田直治 (翻訳)、作品社、2026年(原著2002年)。ISBN 978-4867931387。
- Correll, John T. (2008-02-01), “The Reformers”, Air Force Magazine (Air Force Association)
- Ethell, Jeffrey『F-15イーグル 世界最強の制空戦闘機』原書房、1985年。ISBN 4-562-01667-1。
- Fallows, James (1979-10), “Muscle-Bound Superpower: The State of America's Defense”, The Atlantic
- Gunston, Bill『F-16 ファイティングファルコン 最先端テクノロジー機のすべて』原書房、1984年。ISBN 4-562-02764-9。
- Hammond, Grant (2018), “Introduction”, A Discourse on Winning and Losing, Air University Press
- Robinson, Stephen (2023), The Blind Strategist: John Boyd and the American Art of War, Exisle Publishing, ISBN 978-1922539861
- 大熊康之『軍事システム エンジニアリング』かや書房、2006年。ISBN 4-906124-63-1。
- 大熊康之『戦略・ドクトリン統合防衛革命』かや書房、2011年。ISBN 978-4-906124-70-1。
外部リンク
[編集]- 破壊と創造
- http://www.ausairpower.net/APA-Boyd-Papers.html ジョンボイドのブリーフィング用資料およびマニュアル類
