ジョニー・ポール・コロマ

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ジョニー・ポール・コロマ(Johnny Paul Koroma, 1960年5月9日 - 2003年6月1日)とは西アフリカシエラレオネ共和国軍人及び軍事革命評議会(AFRC)の元議長。

経歴[編集]

コロマは1960年5月9日シエラレオネ北東のコノ地区リンバ族として生まれた。コロマは首都フリータウンで育ち、カトリック系の学校に通っていた。1985年に軍に入隊し、1988年イギリスサンドハースト王立陸軍士官学校に留学し士官としての訓練を受けた。

1989年シエラレオネに帰国、小隊長、中隊長と昇進を重ねて行った。1994年軍の命令及び参謀本部に入るため、ガーナテシにある軍の大学に行った他、ナイジェリアとイギリスで軍事訓練を受けた。

しかし、1996年大統領に就任したアフマド・テジャン・カバーは軍冷遇政策を移行しようとしていたため、コロマ少佐を始めとする軍人は、カバーのその政策に不満を持つようになり、9月軍事クーデターを起こした。このクーデターでコロマ少佐らは逮捕されパデマ・ストリート刑務所に送られた。しかし反カバー派の軍人達(主に革命統一戦線(RUF))が刑務所を襲撃し、コロマ少佐らクーデター容疑の軍人の囚人700人を脱獄させた。1997年5月27日コロマは再び軍事クーデターを起こし、打倒カバー政権をはかった。このクーデターでコロマ少佐はカバー大統領を追放し、国家元首となった。

同盟を結んでいた革命統一戦線(RUF)のアハメド・フォディ・サンコーとは連携関係にあり、コロマがAFRCの議長になった時、副議長にはRUFのサンコーが就いていて、政権はAFRCとRUFが合同で担当していた。そのためシエラレオネはさらに泥沼化した。コロマ議長は数年後の民政移管を宣言したが、カバ大統領の方が合法的で民主的な手段で政権を勝ち取っていたので、国際社会はコロマ議長の軍事クーデター行動を厳しく批判していた。

1998年2月12日西アフリカ諸国経済共同体(ECOMOG)がフリータウンを奪還し、翌年は軍事政権関係者を拘束したため、コロマ政権は崩壊。3月10日カバ大統領が帰国し、コロマから政権を取り戻した。その後、コロマはサンコーと同様に残酷な虐殺をしたと、戦争犯罪の罪で起訴された。起訴されたコロマは同胞リベリア国民愛国戦線チャールズ・テーラーが支配する隣国リベリアに逃亡した。しかし、2003年6月1日逃亡先のリベリアで口封じのために殺された。