ジョゼフ・メリック

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

ジョゼフ・ケアリー・メリックJoseph Carey Merrick, 1862年8月5日 - 1890年4月11日)は、ヴィクトリア朝時代のイギリスで身体の極度な奇形から「エレファント・マン」(The Elephant Man)として知られた人物。なお名前についてジョン・メリック(John Merrick)とする記述は医師フレデリック・トレヴェスの表記が定着したもので、本来は誤記である。トレヴェスがまとめた回想録を基に作家のバーナード・ポメランス戯曲にした事から世に広まり映画化にまで至った。

生涯[編集]

出自と家庭環境

1862年8月5日イングランドレスターで、倉庫作業員であったジョゼフ・ロックリー・メリックを 父、レスター近郊のエヴィントン村出身のメアリー・ジェイン(旧姓ポタートン)を母として生まれる。父の名と、高名な宣教師のそれとに因み、「ジョゼフ・ケアリー」と命名される。1866年には弟ウィリアム・アーサーが、1867年には妹マリアン・イライザが生まれているが、弟は1870年猩紅熱で夭折し、母もジョゼフが11歳であった1873年に過労に起因する気管支肺炎で倒れ、同年5月に36歳で死去した。父はこの翌年にエマ・ウッド・アンティルなる女性と再婚している。

少年時代

出生時のジョゼフの身体には何の異常も認められなかったが、生後21ヵ月頃から身体に最初の病変が出現、これはやがて左腕などを除く皮膚、骨格の大部分に及ぶ大きな膨張と変形へと進行することとなる。それでも12歳で公立学校を卒業し、葉巻を製造する会社に就職。しかし2年後には右腕の変形が進んで離職せざるを得なくなり、父の支援の元に行商人の免許を取得するも、容姿が災いして営業は困難を極めた。程なく家出し、簡易宿泊所を泊まり歩く生活に入ったのち、叔父チャールズ・バーナバス・メリックの家に同居人として迎えられたが、このころにはすでに症状の進行によって行商の仕事が立ち行かなくなっており、やがて自らの意思で叔父の家を出、レスター市救貧委員会に出頭、就労不能を理由に救済を申し立てて受理され、1879年12月、17歳でレスター・ユニオン救貧院に入った。

ジョゼフ・メリック
救貧院での日々

しかし救貧院の劣悪な生活環境はジョゼフにとって耐え難いものであったようで、翌年の3月には同所を出奔、職を求めて2日間街頭をさまよい歩いたもの果たせず、再び救貧院に戻っている。1882年・20歳の時には上あごにあった象の鼻のような形の20センチほどの肉塊の切除手術を受けた。

「エレファント・マン」誕生

救貧院での生活に甘んじていたジョゼフであったが、1884年・22歳の時に奇形者を出演させる興行師兼コメディアンのサム・トーの存在を知り、自らの身の上を手紙に認めて送ったところ、トーはジョゼフと面会して彼を見世物興行の世界に入れることを決め、これによりジョゼフはこの年の8月にレスター救貧院を退所。トーは興行師仲間のトム・ノーマンら数人からなるマネジメント団を組織、彼らによって「エレファント・マン」なるキャッチフレーズが考案された。

医師トレヴィスとの出会い

この年11月、ノーマンはジョゼフを伴ってロンドンに出向き、ホワイトチャペル・ロードの見世物小屋で興行をうった。ロンドン病院の外科医であったフレデリック・トレヴィスはこのことをきっかけとしてジョゼフの存在を知り、自ら診察。トレヴィスは12月にはロンドン病理学会でジョゼフの症例を報告し、このときにはジョゼフ自身も標本として回覧に供されている。翌年3月には同学会で再びジョゼフの症例をテーマとした、写真を用いての研究発表が行われ、これをもとにロンドンのユニバーシティ・カレッジの内科医ヘンリー・ラドクリフ・クロッカーはジョゼフを「皮膚弛緩症および神経腫性象皮病」と診断した。

流転の日々

しかし、このころより見世物小屋を公序良俗に反するものとして排斥する風潮が強まり、ジョゼフの出演する小屋にも警察から閉鎖命令が下された。ノーマンは都市部での興行継続を断念し、イギリス国内の地方小都市、寒村を転々と巡演するも、社会情勢もあってか不振が続き、やがてノーマンはジョゼフの興行権をオーストリア人興行師に売却した。ジョゼフもこれに伴ってロンドンを離れ、ヨーロッパを巡演する生活に入ったが依然として振るわず、1886年・ジョゼフ26歳の時、オーストリア人興行師はジョゼフの商品価値を見限り、彼の貯えと引き換えにロンドン行きの切符を手渡してベルギーブリュッセルで彼を放棄。ジョゼフは筆舌に尽くし難い辛酸を舐めつつ列車、汽船を乗り継いでロンドンに帰還、トレヴィスに保護を要請、特例としてロンドン病院に収容された。

安住の地を得る

だがこの措置も同年末には限界に達し、同年12月4日には事態打開を図るための寄付金を募る趣旨の、ロンドン病院理事長F.C.カー・ゴムの投稿が「タイムズ」紙に掲載された。これに対しては膨大な量の手紙、寄付金が寄せられ、理事会はジョゼフの収容延長を決定、同病院の中庭に面した地下室がジョゼフの居室として改装された。 1887年5月には当時のイギリス皇太子・エドワード(のちのエドワード7世)と、その妃・アレグザンドラがロンドン病院の新病棟落成式に出席した際、ジョゼフの部屋を訪問したが、これが呼び水となってか、以降上流階級の人々から訪問を受けたり、彼らと文通したり、贈り物を受け取るなどの交友を持つようになった。この年のクリスマスにはドルーリー・レーン劇場でパントマイム劇「長靴を履いた猫」を観劇したともいわれる。また1889年夏にはナイトレー夫人の厚意によりノーザンプトン近郊のフォースリー・パークに6週間滞在、田舎暮らしを経験した。

最期

1890年4月11日、すでにかなりの衰弱をみせていたメリックは、正午まで起き出さないのが通例になっていたが、研修医が午後の回診に来たときには仰向けに寝たまま亡くなっていた。27歳だった。死因は頸椎の脱臼あるいは窒息死とされ、一説には仰向けに寝ることを試みた故の事故、また自殺説も取り沙汰された。ディスカバリーチャンネル2011年に製作した『蘇るエレファントマン』では、彼の骨格標本を詳細に検査したところ、頚椎の損傷具合から彼独特の就寝方法[1]を取ろうとした際に、頚椎が脱臼し、絶命。そして結果として巨大な頭部の重みで仰向けになった状態で発見された事故と結論付け、自殺説を否定している。

死後、亡骸各部の石膏型および骨格標本が保存されて研究の対象となっているほか、彼の使用した帽子や本人が組み上げた建物の模型等、いくつかの遺品は博物館で見ることができる。皮膚などの組織標本も保存されていたが、第二次世界大戦下で失われた。

ゆかりの人々のその後

1897年1月30日にはジョゼフの生地レスターで父ジョゼフ・ロックリー・メリックが死去。なお公的記録の不備により、叔父チャールズ・バーナバス・メリックに関してはレスターで1925年までは生存していた、としか分からず、妹のマリアン・イライザについてはその生涯に関しての一切が不詳。1923年にはフレデリック・トレヴィスが「エレファント・マンとその他の思い出」を出版し、12月7日に死去し、同年にはサム・トーも死去した。

医学的な所見[編集]

メリックの疾患は、骨格の変形と皮膚の異常な増殖からなっていた。皮膚は各所で乳頭状の腫瘍を示し、とくに頭部や胴部では皮下組織の増大によって弛んで垂れ下がっていた。右腕・両脚がひどく変形肥大して棍棒のようになっていたのに対し、左腕や性器は全く健全だった。

上唇から突出した象の鼻状の皮膚組織が一時は20センチ近くに達し、このため会話や食事は終生不自由で、救貧院時代にいったん切除している。会話は困難で発音が聞き取りにくかったとされているが知能は正常で、12歳までは学校にも通っていて読み書きは堪能だった。また少年時代にひどく転んで腰を痛め、脊柱も湾曲しており、歩くときは杖が必要だった。

原因については当時から、レックリングハウゼン病などとして知られる神経線維腫症1型、また俗には象皮病と結びつけて考えられてきたが、近年では特定の遺伝的疾患群をさすプロテウス症候群とする見方が有力である。

大衆文化[編集]

1979年から1980年にかけて、舞台と映画の両方で彼の生涯が取り上げられ、再びメリックは脚光を浴びることになった。両作品はいずれも大成功を収め、1979年の演劇作品『エレファント・マン』はトニー賞を受賞、また翌年の映画『エレファント・マン』はアカデミー賞に推された。両作品の切り口は互いに異なり、内容的には関係がない。詳しくはそれぞれの項を参照。

ジョゼフ・メリックを扱った作品[編集]

映画
演劇
オペラ
ドキュメンタリー
  • 蘇るエレファントマン - 2011年のディスカバリーチャンネル製作のドキュメンタリー番組。ジョゼフの骨格標本を元に、最新の3D技術で歩行方法、肉声、死因等を追求している。
小説

脚注[編集]

  1. ^ その頭部の巨大さから普段はベッドの上に座り抱えた両膝に頭を乗せるようにして寝ていた。

参考文献[編集]

  • マイカル・ハウエル、ピーター・フォード 『エレファント・マン - その真実の記録』 本戸淳子訳、角川書店、1981年、281頁。
  • ウィリアム・メイプルズ 『法人類学者の捜査記録 骨と語る』 上野正彦訳、徳間書店、1995年、398頁。(ISBN 4-19-860358-8)

外部リンク[編集]