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ジャールカンド州

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジャールカンド州
Jharkhand
झारखंड
インド国内の位置
(インド国内の位置)
基礎情報
 インド
行政区 ジャールカンド州
州都 ラーンチー(Ranchi)
面積 79,700 km²
人口 2011年
 - 合計 32,988,134人
 - 人口密度 413.9人/km2
時間帯 インド標準時(IST)UTC+5:30
公用語 ヒンディー語
創立 2000年11月15日
州知事 サントシュ・ガンワール英語版 (Santosh Gangwar)
州首相 チャンパイ・ソレン英語版 (Champai Soren)
立法機関(議席数) 一院制(81)
略称ISO IN-JH
州公式ウェブサイト http://www.jharkhand.gov.in

ジャールカンド州(ジャールカンドしゅう、Jharkhand、ヒンディー語झारखंडIPA[dʒʰaːrkʰəɳɖ])は、インドの中部にある州。州都はラーンチー2011年の人口は3298万8134人で、面積は7万9700km²。2000年ビハール州から分離された。ジャルカンドと表記されることもある[1]

人口

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隣接州

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地理

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ラージマハルトラップ英語版は、広大な火成活動の痕跡として出来た階段状の丘で、東ゴンドワナ大陸から分離したインド亜大陸ユーラシア大陸に衝突した際にデカントラップと共に出来た。チョーター・ナーグプル高原ラージマハル丘陵英語版がある。

歴史

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ジャールカンド地方には、中石器銅器時代からヒトが居住しており、古代の洞窟壁画によってそのことが示されている [3] [4] [5]

古代

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石器はチョーター・ナーグプル高原から発見されており、中石器時代から新石器時代のものと見られている[3]。 また、古代の洞窟壁画がハザーリーバーグ県のイスコー(इस्को)にあり、銅器時代中期(紀元前9000~5000年)のものと考えられている[4]パラームー県内のソーナ川北コーヤリー川の合流点にあるカブラ・カラー墳墓では、新石器時代から中世にかけてのさまざまな遺物や美術品が発見されており、赤色土器赤黒色土器黒色土器黒色擦文土器および北方黒色磨き土器の陶片は、銅器時代から中世後期のものが発見されている[6]シンハブーム県では鉄鋼スラグ細石器および陶片が発見されており、放射性炭素年代測定によって紀元前1400年頃のものと判定されている[5]

デーヴガルのバイドヤナート・ジュヨーティルリンガ寺院。
聖地シカルジーにあるジャイナ教のパラスナート寺院。20人のティールタンカラの涅槃の地と伝えられる。

古代のジャールカンド地方は、マウリヤ朝グプタ朝ガウル朝パーラ朝ナーガヴァンシー朝などの帝国や諸王朝によって支配されていた。紀元前500年頃の十六大国の時代には、ジャールカンド地方はマガダ国アンガ国の一部であった。マウリヤ朝時代には、アタヴィカ(अटविक)と呼ばれる諸国に支配され、アショーカ王代の紀元前232年にマウリヤ朝の統治下に入った。グプタ朝のサムドラグプタ王は、現在のチョーター・ナーグプル地方を行軍する途次、マハーナディー渓谷南コーサラ国に対する先鋒を命じている[7]7世紀には、中国僧の玄奘がジャールカンド地方を旅したが、カルナスヴァルナ王国シャシャーンカ王国が統治しており、カルナスヴァルナ王国の北はマガダ国に、東はチャンパー王国に、西はマヘーンドラ国に、南はオリッサ国に接している、と記している[8]

中世

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ドゥムカー県にあるマルーティー寺院

中世のジャールカンド地方は、ナーガヴァンシー朝、カヤラヴァーラ朝、ラームガル政権およびチェーロー王国によって支配された[9][10] [11]1574年には、パーラムー県まで勢力を伸ばしていたアクバル帝ムガル帝国マーン・シンハ1世によって侵攻されており、その後もムガル帝国治下では他勢力の侵攻が記録されている[12]

アーニ・ナータ・シャーハデーヴ王によって建立された、ラーンチーのジャガンナート寺院。

またナーガヴァンシー朝のマドゥ・シンハ王の勢力圏でも、アクバル帝配下の将軍がナーガヴァンシー朝の首都ククラガルに侵攻しており、同朝のドゥルジャン・サール王の治世にも侵攻している[13]1658年から1674年にパーラムーを支配したメーディニー・ラーイ王[14]ガヤー南部およびハザーリーバーグまで版図を拡大し、ナヴラタンガルを攻撃して、チョーター・ナーグプル高原のナーガヴァンシー朝を打ち破った[15]

パーラムー城
ナーヴラタン城

パーラムー地方におけるチェーロー王国の統治は19世紀まで続いたが、内紛により弱体化して、イギリス東インド会社に敗北した。パーラムー地方は後に、イギリス政府によって売却されている[16]

イギリス統治時代

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チェーロー王国、ナーガヴァンシー朝、ラームガル王国およびカラーグディハーはイギリス東インド会社の支配地となり、ラームガル藩王国やその他の領主の土地は恒久的にザミーンダーリー制が敷かれるようになった。カラーグディハーでは、1809年からラージダーンワル王が任じられ、またコーダルマーパールガンジレードーなど一部の土地ではザミーンダーリー制も敷かれてカラーグディハー・ガーディーが置かれた[17]

チョーター・ナーグプル高原の諸藩王国はマラーター帝国勢力圏になっていたが、19世紀初頭のマラーター戦争の結果イギリス東インド会社の属国となり、チョーター・ナーグプル小藩王国と呼ばれるようになった[18]

イギリス東インド会社によるジャールカンド地方の植民地化は住民の抵抗を引き起こし、1769年ラグナート・マハトーが主導した反乱を皮切りに[19]1771年にはラージマハール丘陵で先住民パハーリヤーの指導者ティルカー・マーンジーが領主およびイギリス政府に対し反乱、1779年にはマーンブームブーミジ族がイギリスによる支配に対して武装蜂起した。

イギリス東インド会社ザミーンダーリー制に反対した1855年サンタールの反乱

19世紀にはさらに激しさを増し、1807年にはバルウェーウラーンウ族シュリーナガルから赴任した領主を殺害、1811年1813年にはムンダ族が反乱を起こし、1812年には在地領主であったバクタル・サーイムンダル・シンハの二人がイギリス東インド会社を相手に戦った[20]1820年にはシンハブームホー族が反乱、1832年には西ベンガルコール族が蜂起、そして1855年には兄弟のシドゥーとカーヌーに率いられたサンタールの反乱が起こった。

1857年、父祖伝来のジャーギールを受け継いでいたボーグター系カルワール族の族長兄弟であるニーラーンバラとピーターンバラが、イギリス東インド会社に対して反乱を起こした[12]。この年の5月10日にはインド大反乱が始まり、タークル・ヴィシュワナート・シャーデーウパーンデー・ガンパト・ラーイらがイギリス東インド会社に対して蜂起して、チャトラーの戦いにおいて反乱軍と東インド会社の間に戦闘が発生した[21] [22]。 この他インド大反乱では、ティカイト・ウムラーンウ・シンハシェーク・ビカーリー、ナディール・アリ、ジャイ・マンガル・シンハらも、中心的な役割を果たした[23]

インド大反乱の後、イギリス東インド会社によるインド支配はビクトリア女王と王室に移管され[24]、女王は1876年インド女帝を名乗った。

1882年にチェーロー王国やカルワール族が再び反乱を起こすが、撃退された[25]。また1895年にはビルサー・ムンダーの反乱が起き、1900年まで続いた[26]。この時期の反乱は、主にクーンティータマールサルワダーバンドガオーンなどのムンダ族居住地域に集中していた。

ラームガルにおける第53次インド国民会議の模様。

1905年10月、ベンガル管区政庁から、ヒンディー語話者人口の多いチャングバーカル州ジャシュプル州コーリヤー州サルグジャー州およびウダイプル州中部地方州政府に所轄が移され、オリヤー語話者人口の多いガンガープラ州バネーイ州の2州はオリッサ属州に移管されて、カラスアーン州サラーイケーラー州のみがベンガル管区に残留となった[27]。しかし1936年には、これら9州はすべて東部諸州政庁に移管され、各州の指令下に置かれていた官僚たちはインド総督の直接支配下に入った。

1940年3月、第53次インド国民会議[28][29]ラームガルで開催され、アブル・カラーム・アーザードを議長としてマハートマ・ガーンディー[30]ジャワーハルラール・ネールーら、インド独立運動の有力者たち[31]が 出席し[32]、産業博覧会なども開催された[33]スバーシュ・チャンドル・ボースも、同時期に会議を主催している。

住民

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先住民Upajati) 28%、指定カースト民英語版(Scheduled Castes、従来の不可触民も参照)12%、その他 60%。

産業

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ウラン - ジャドゥゴダジャドゥゴダ鉱山英語版, Narwapahar鉱山英語版、Bhatin mines)。

石炭 - ダンバード県[34]やゴッダー県には、炭鉱が存在[35]するなど各地で主要産業となっている。

地方行政区分

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ジャールカンド州の行政区画
  1. パラミュ郡英語版 (Palamu division)
    1. ガルワー県英語版 (Garhwa District)
    2. パラームー県英語版 (Palamu District)
    3. ラーテーハール県英語版 (Latehar District)
  2. 北チョーター・ナーグプル郡英語版 (North Chotanagpur division)
    1. チャトラー県英語版 (Chatra District)
    2. ハザーリーバーグ県英語版 (Hazaribagh District)
    3. コーダルマー県英語版 (Koderma District)
    4. ギリーディー県英語版 (Giridih District)
    5. ランガル県英語版 (Ramgarh District)
    6. ボーカーロー県英語版 (Bokaro District)
    7. ダンバード県英語版 (Dhanbad District)
  3. 南チョーター・ナーグプル郡英語版 (South Chotanagpur division)
    1. ローハルダッガー県英語版 (Lohardaga District)
    2. グムラー県英語版 (Gumla District)
    3. スィムデーガー県英語版 (Simdega District)
    4. ラーンチー県英語版 (Ranchi District)
    5. クーンティ県英語版 (Khunti District)
  4. コルハン郡 (Kolhan division)
    1. 西シングブーム県英語版 (West Singhbhum District)
    2. サラーイケーラー・カルサーワーン県英語版 (Seraikela Kharsawan District)
    3. 東シングブーム県 (East Singhbhum District)
  5. サンタール・パルガナ郡英語版 (Santhal Pargana division)
    1. ジャームターラー県英語版 (Jamtara District)
    2. デーオガル県英語版 (Deoghar District)
    3. ドゥムカー県英語版 (Dumka District)
    4. パークル県英語版 (Pakur District)
    5. ゴッダ県英語版 (Godda District)
    6. サーヒブガンジ県英語版 (Sahebganj District)

脚注

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出典

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  1. ^ 100年燃え続ける「地獄」の炭鉱 行き場なく残る住民 印”. www.afpbb.com (2023年9月17日). 2023年9月17日閲覧。
  2. ^ City Population”. 2016年10月18日閲覧。
  3. ^ a b (英語) India – Pre-historic and Proto-historic periods. Publications Division, Ministry of Information & Broadcasting. (2016). p. 14. ISBN 9788123023458. https://archive.org/details/indiaprehistoric00indi 
  4. ^ a b “Cave paintings lie in neglect”. The Telegraph(英語). (13 March 2008). オリジナルの6 September 2018時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20180906124608/https://www.telegraphindia.com/1080313/jsp/jharkhand/story_9013558.jsp 30 April 2019閲覧。 
  5. ^ a b Singh, Upinder (2008) (英語). A History of Ancient and Early Medieval India: From the Stone Age to the 12th Century. Pearson Education India. p. 220. ISBN 9788131711200. https://books.google.com/books?id=H3lUIIYxWkEC&pg=PA220 
  6. ^ KABRA – KALA”. www.asiranchi.org. 8 October 2013時点のオリジナルよりアーカイブ30 April 2019閲覧。
  7. ^ Sharma, Tej Ram (1978). Personal and Geographical Names in the Gupta Inscriptions. Concept Publishing Company. p. 258. https://archive.org/details/personalgeograph00sharuoft 
  8. ^ Kiro, Santosh. The Life and Times of Jaipal Singh Munda. ISBN 9789352669431. https://books.google.com/books?id=TxdkDwAAQBAJ&pg=PT43&lpg=PT43&dq=Sutiambe#v=onepage 
  9. ^ Roma Niyogi 1959, p. 119.
  10. ^ Sinha, Anuj Kumar (January 0101). Unsung Heroes of Jharkhand Movement. ISBN 9789352660001. https://books.google.com/books?id=fikvDwAAQBAJ&printsec=frontcover&dq 29 July 2019閲覧。 
  11. ^ Gautam Kumar Bera (2008). The unrest axle: ethno-social movements in Eastern India. Mittal Publications. pp. 32–35. ISBN 978-81-8324-145-8. https://books.google.com/books?id=9qrmTdshzKQC&pg=PA31&dq= 
  12. ^ a b History | Latehar, Government of Jharkhand”. 28 March 2019時点のオリジナルよりアーカイブ30 April 2019閲覧。
  13. ^ The Nagbanshis and the Cheros”. archive.org. 4 October 2020閲覧。
  14. ^ Lahiry 2014, p. 24.
  15. ^ Archived copy”. 18 November 2015時点のオリジナルよりアーカイブ。20 December 2018閲覧。
  16. ^ history”. latehar.nic.in. 28 March 2019時点のオリジナルよりアーカイブ30 April 2019閲覧。
  17. ^ Hazaribagh District Gazetteer. https://archive.org/details/dli.bengal.10689.13551/page/n5 
  18. ^ Archived copy”. 7 September 2018時点のオリジナルよりアーカイブ30 April 2019閲覧。
  19. ^ चुआड़ विद्रोह के महानायक, क्रांतिवीर शहीद रघुनाथ महतो की 277 वीं जयंती”. prabhatkhabar.com. 3 July 2018時点のオリジナルよりアーカイブ30 April 2019閲覧。
  20. ^ Archived copy”. 30 December 2018時点のオリジナルよりアーカイブ30 April 2019閲覧。
  21. ^ Mathur Das Ustad (1997). “The Role of Bishwanath Sahi of Lohardaga district, During the Revolt of 1857 in Bihar”. Proceedings of the Indian History Congress 58: 493–500. JSTOR 44143953. 
  22. ^ Archived copy”. 7 November 2018時点のオリジナルよりアーカイブ30 April 2019閲覧。
  23. ^ JPCC remembers freedom fighters Tikait Umrao Singh, Sheikh Bhikari”. news.webindia123.com. 20 October 2020閲覧。
  24. ^ Kaul, Chandrika. “From Empire to Independence: The British Raj in India 1858–1947”. 17 June 2016時点のオリジナルよりアーカイブ22 November 2018閲覧。
  25. ^ Archived copy”. 13 October 2015時点のオリジナルよりアーカイブ。3 December 2018閲覧。
  26. ^ Birsa Munda and His Movement 1874–1901: A Study of a Millenarian Movement in Chotanagpur, by Kumar Suresh Singh. Oxford University Press, 1983
  27. ^ Hunter, William Wilson, Sir, et al. (1908). Imperial Gazetteer of India, Volume 12. 1908–1931; Clarendon Press, Oxford
  28. ^ Archived copy”. 1 June 2013時点のオリジナルよりアーカイブ。3 December 2018閲覧。
  29. ^ Danik jagran Ranchi Page No.14, 2 October 2011
  30. ^ Error”. 5 March 2016時点のオリジナルよりアーカイブ30 April 2019閲覧。
  31. ^ Photo Gallery of Mahatma Gandhi (1933-1948)”. 4 March 2016時点のオリジナルよりアーカイブ30 April 2019閲覧。
  32. ^ RAMGARH SESSION-1940”. 11 December 2017時点のオリジナルよりアーカイブ30 April 2019閲覧。
  33. ^ Chronology 1940”. 22 November 2018時点のオリジナルよりアーカイブ。30 April 2019閲覧。
  34. ^ 100年燃え続ける「地獄」の炭鉱 行き場なく残る住民”. AFP (2023年9月17日). 2023年11月13日閲覧。
  35. ^ インド炭鉱で落盤、少なくとも8人死亡 不明者多数AFP通信(2016年12月30日)2016年12月31日閲覧

関連項目

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外部リンク

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