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ジャラールッディーン (ジョチ家)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジャラールッディーン
ジョチ・ウルスのハン
在位 1411年 - 1412年

死去 1412年
家名 トカ・テムル家
王朝 ボルジギン氏(ジョチ家)
父親 トクタミシュ
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ジャラールッディーンペルシア語: جلال الدین خان ابن تقتمش、生没年:? - 1412年)は、1411年から1412年にかけてのジョチ・ウルスハン14世紀末にジョチ・ウルスの再統一に成功したトクタミシュ・ハンの子。

生涯

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ジャラールッディーンの父のトクタミシュ・ハンはかつてジョチ・ウルスの再統一に成功しながら、中央アジアのティムールと対立して没落した人物であった。トクタミシュは没落後もリトアニアの支援を受けてジョチ・ウルス君主の座を再度狙っており、傀儡ハンを擁立してジョチ・ウルスの実権を握ったマングト部エディゲとの間で20年近くに渡って抗争が繰り広げていた[1]

しかし、1399年ヴォルスクラ川の戦いで敗れたトクタミシュは劣勢となり、ハン位を取り戻せないままに1405年〜1407年頃死去した[2]。トクタミシュの後を継いだのがジャラールッディーンで、ジャラールッディーンはエディゲとの抗争を続ける一方で、1410年にはリトアニア大公の指揮下でタンネンベルクの戦いにも参加するなど、各所で活躍していた[3]

ニコン年代記の挿絵よりエディゲを追ってハン位に就いたジャラールッディーン

一方、この頃エディゲの傀儡ハンであったテムルは現状に不満を募らせ、ヒジュラ暦814年初め(1411年)にエディゲを攻撃し、エディゲはホラズム地方に逃れざるをえなくなった[3]。これを好機と見たジャラールッディーンはリトアニアの支援を受けたジョチ・ウルスに帰還し、テムル・ハンを打倒してトクタミシュ家にハン位を取り戻した[3]

しかし、ロシアの『ニコン年代記』によると、ジャラールッディーンは在位1年にして弟のカリーム・ベルディに殺害されてしまったという[4]

トカ・テムル王家

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  • ジョチ(Jöči >朮赤/zhúchì,جوچى خان/jūchī khān)
    • トカ・テムル(Toqa temür >توقا تیمور/tūqā tīmūr)
      • ウルン・テムル(Urung temür >اورنك تيمور/ūrunk tīmūr)
        • サルチャ(Sarča >اجيقی/sārīja)
          • コンチェク(Gönčeg >کونجه/kūnjīk)
            • トゥグルク・ホージャ(Tuγluq khwaja >تيمور خواجه/tughluq khwāja)
              • トイ・ホージャ(Toy khwaja >بادق/tūy khwāja)
                • トクタミシュ・ハン(Toqtamiš qan >توقتاميش خان/tūqtāmīsh khān)
                  • ジャラールッディーン(Jalal al-Din qan >جلال الدین خان/jalāl al-dīn khān)
            • トゥリク・テムル(Tuliq temür >تيمور خواجه/tūlik tīmūr)

系図

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ジョチから大オルダまでの系図

ジョチから大オルダまでの系図。
ジョチから大オルダまでの系図

脚注

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注釈

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出典

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  1. 長峰 2009, p. 5.
  2. 坂井 2007, pp. 39–40.
  3. 1 2 3 赤坂 2005, p. 300.
  4. 川口 2002, p. 86.

参考文献

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書籍

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  • 赤坂恒明『ジュチ裔諸政権史の研究』風間書房、2005年2月28日。ISBN 978-4759914979 
  • 小澤 実 (著, 編集), 長縄 宣博 (著, 編集)『北西ユーラシアの歴史空間』北海道大学出版会〈スラブ・ユーラシア叢書12〉、2016年4月20日。ISBN 978-4832968219 

論文

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先代
テムル・ハン
ジョチ・ウルスのハン
1411年 - 1412年
次代
カリーム・ベルディ