ジャチント・シェルシ

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ジャチント・シェルシGiacinto Scelsi, 1905年1月8日 - 1988年8月9日)は、イタリアラ・スペツィア生まれの現代音楽作曲家である。1940年代以降、他の作曲家との「共同作曲」という作業形態をとり、シェルシ名義で作品を発表していたことが、死後明らかになった。

共同作曲[編集]

シェルシの死後、イタリアの作曲家ヴィエーリ・トサッティ(Vieri Tosatti)は、音楽雑誌に掲載された「ジャチント・シェルシ、それは私だ」というインタビュー記事において、少なくとも1940年代以降の、シェルシ名義で発表された作品には、トサッティをはじめとする複数の作曲家が関与している、ということを明らかにした[1]。トサッティがシェルシの「共同作曲者」となったのは1947年からで[2]、それ以前に一人、同様の役割を担っていた人物がいた。

なお、長木誠司は、シェルシの作風の変化について、トサッティの証言と合致する部分が多いとし、特に、1950年代にピアノ曲を立て続けに書いた後、『四つの小品』を境目に、ピアノ曲がほとんど書かれなくなったことは、その典型であるとしている[3]

トサッティの証言によると、共同作曲の形態は、次のような4段階で変化していったという。

最初の段階は、十二音技法を用いた作品において、シェルシが十二音の音列を素材として与え、トサッティがそれに基づいて作曲をするという形態であった[4]。この方法でまず完成された作品は『弦楽四重奏曲第1番』であり、その後、前任の「共同作曲者」の仕事を引き継いでトサッティが『ことばの誕生』を完成させた[5]。第二の段階は、シェルシによるピアノの即興演奏を採譜するというものであり[6]、ほとんどのピアノ曲は、シェルシと、トサッティの紹介により採譜を担当したセルジョ・カファーロの共同作業により書かれたという[7]。第三の段階は、単音しか出せない代わりに、足車を回転させることで微分音を出すことが出来る電気鍵盤楽器「オンディオリーナ」を、シェルシが2台購入した頃から始まり、シェルシが一つの鍵盤を押して、即興的に音を変化させながら録音した音を元にトサッティが作曲をする、という作業形態を取るようになった[8]。この手法による最初の作品、オーケストラのための『四つの小品』は、いわゆる「ひとつの音」(一つの音を聴き込む、という手法)による最初の作品である[9]

1966年に、トサッティとシェルシの関係は解消し、「共同作曲者」の後任に、トサッティは自らの弟子であるリッカルド・フィリッピニを選んだ[10]。その後、トサッティの元に再びシェルシから共同作業の打診があった際に、シェルシからは単純な図形の素描が送り届けられ、トサッティはそれを元に音符を書いたという[11]。しかし、この「第四段階」の作業形態をとった作品は多くない。

エピソード[編集]

トサッティの証言はシェルシの死後なされたものであったにも関わらず、シェルシの生前から、イタリアにおいては、一部の作曲家の間でシェルシとトサッティの関係は「公然の秘密」であった[12]。しかし、国外ではシェルシの「共同作曲」の事実は知られておらず、『ことばの誕生』が国際現代音楽協会(ISCM)の大会で初演されることになった際に、ゴッフレド・ペトラッシに対して、ISCMフランス代表の指揮者ロジェ・デゾルミエールが「イタリアにはジャチント・シェルシという偉大な作曲家がいる」と語ったが、「共同作曲」の事情を知っているペトラッシは、笑いを堪えきれなかったという[13]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 長木、250ページ。
  2. ^ 同上。
  3. ^ 長木、253ページ。
  4. ^ 長木、251ページ。
  5. ^ 同上。
  6. ^ 同上。
  7. ^ 長木、252ページ。
  8. ^ 同上。
  9. ^ 同上
  10. ^ 同上。
  11. ^ 同上。
  12. ^ 同上。
  13. ^ 長木、251ページ。

参考文献[編集]

外部リンク[編集]