ジェリー藤尾

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ジェリー藤尾
本名 藤尾 薫紀
生年月日 1940年6月26日(73歳)
民族 日本の旗日本人
ジャンル 歌手俳優タレント
活動期間 1958年 -

ジェリー藤尾(ジェリーふじお、1940年6月26日 - )は、日本の歌手俳優タレント。本名・藤尾薫紀(ふじお しげき)[1]

オフィスキコ所属。代表曲は『遠くへ行きたい』(作詞:永六輔、作曲:中村八大)。専修大学附属京王高等学校中退。娘は元女優の藤尾美紀、藤尾亜紀。元妻は歌手、タレントの渡辺友子

来歴・人物[編集]

1940年に高知県出身でNHKアナウンサーの父・藤尾薫宏とイギリス人の母・オリビア・ヒース・ゴンザレス[2]のもと、当時の中華民国上海の日本租界で生まれる。当地で第二次世界大戦の終戦を迎え1946年に家族で日本へ引き揚げるものの、上海では家族のみならず外国人居留地においても英会話のみで生活していたため、帰国後の薫紀と母は言葉の壁や外見から謂れなき差別を受ける。

特に母の心労は深刻で、知り合いのいない地での孤独を紛らわすためアルコール依存症に陥り、薫紀が中学1年生の時に、台所で吐血しウィスキー瓶を握り締めたまま28歳の若さで死亡。息絶えた母を発見したのは、学校から帰宅した薫紀だった。

その後、家庭を顧みる余裕をなくした父によって生活は崩壊。深く傷つき、新宿など夜の繁華街で荒んだ生活を送り、愚連隊三声会」の用心棒を務めるまでになっていた。ヤクザすら道を譲るほど喧嘩に明け暮れていたが、次第に音楽への道を志すようになり1957年バンドボーイとして出入りしていたジャズ喫茶エルヴィス・プレスリーの『ハウンド・ドッグ』を飛び入りで歌ったところ、これが所以でマナセプロダクションからスカウトされ、芸能界入り。

1958年、高校留年が決定したのを機に中退し本格的に芸能生活を開始。「水原弘とブルーソックス」のシンガーとして日劇のウエスタンカーニバルで初舞台を踏む。特にリトル・リチャードのナンバーを得意とした。俳優としては1959年の『檻の中の野郎たち』(監督:川崎徹広、東宝)[3]、歌手としては1961年に『悲しきインディアン』でレコードデビュー。翌1962年5月にNHKの人気番組『夢であいましょう』へ出演すると共に、同番組の「今月のうた」に採用された『遠くへ行きたい』が大ヒットして一躍人気者となり、「ダニー・ボーイ」、「土佐の一本釣り」、「指笛の丘」などのヒット曲を持つ。その後は黒澤明監督作品『用心棒』への出演など、映画・テレビを中心に幅広いエンターティナーとして活躍する。

1964年に歌手・タレントの渡辺トモコ(現・渡辺友子)と結婚し、二児をもうけた(後に長女・美紀は『極道ステーキ』、次女・亜紀は『セーラー服反逆同盟』などへ出演し、一時女優として活動した)。家族で『オールスター家族対抗歌合戦』などバラエティ番組へ出演、1974年からはトヨタ・カローラのCMへ出演して「円満な芸能人一家」として広く認知された。

しかし、1985年に入り夫婦の不仲が報じられ始め、同年末に渡辺が家を出るかたちで別居。1986年7月12日、正式に離婚した。その際、渡辺が女性週刊誌上で「酒浸りの生活でDVに及ぶ」、「妻の両親との不仲」、「経済的に困窮し、妻と収入が逆転した」など一方的にスキャンダルを吹聴し、ワイドショーがそれに同調して藤尾へのバッシングを始めたのを期にテレビへの露出が減り、表舞台から姿を消す事となった。このことに関して藤尾本人は多くを語らなかったが、離婚の際、2人の娘が父である藤尾の側に付いたことや、長女が母親の乱れた素行や男性関係を暴露、「あの人はクズ」と発言し、物議を醸したことで一方的なバッシング報道は収束する[4]。また、2010年のインタビューでは藤尾自身が妻の不貞が原因だったことを認めている[5]

その後はリサイタルディナーショー懐メロオールディーズコンサート等、芸能活動を継続している。並行して慰問などの福祉活動や自らの差別体験などを通した人権に関する講演などに尽力していることでも知られる。また、娘2人が嫁いだのを機に「面倒を見てもらうつもりはない」との意思から千葉市内の有料老人ホームに生活拠点を移している[4]

エピソード[編集]

  • 出自こそハーフだが、本人は日本国籍と日本人エンターテイナーであることに高いプライドを持っており、日本語を大切にしないJ-POPに対しては否定的である。
  • 大のメーキャップ嫌いで知られる。藤尾曰く「顔にものを塗られると息が詰まる」との事。この理由により今までどうしても必要な場合「たとえば酔っ払いの役で赤ら顔にする必要がある時など」を除いてメーキャップした事がないという。
  • 自らのバンド「パップ・コーンズ」のメンバーに高木智之(後の高木ブー)や仲本興喜(後の仲本工事)がいる。1963年1月2日に高木の娘が生まれた際には、その名付け親となった[6]
  • 愚連隊の用心棒から芸能界へ転身するものの、その後も武勇伝が残っている。1962年2月20日未明、港区麻布で仲間と飲酒中に面識のないヤクザ(後に自首し逮捕)に連れ出されてナイフで切りつけられ、目の上と首に全治2週間の傷を負う事件に遭遇している。この際、ジェリーも素手で反撃して相手に全治10日間の怪我を負わせたため書類送検されている。ジャズ喫茶の帰り道に3人のヤクザに絡まれた際、相手の肋骨3本と前歯4本をへし折って返り討ちにしたものの、直後に現場にパトカーが駆けつけ、過剰防衛の容疑で逮捕されてしまった、という逸話もある。結婚後は円満な家庭の父親としてテレビ番組やCMに多数出演するようになり、そうした過去の「武勇伝」を出す事は控え、温厚なイメージに変化している。

ディスコグラフィ[編集]

  • 悲しきインディアン
  • 遠くへ行きたい
  • パパとワルツを踊ろう
  • グランパパ
  • ダニーボーイ
  • マイウェイ
  • 乾杯 ほか

主な出演作[編集]

映画[編集]

  • 檻の中の野郎たち(1959年、東宝)デビュー作
  • 独立愚連隊(1959年、東宝)
  • 足にさわった女(1960年、大映東京
  • 偽大学生(1960年、大映東京)
  • 竜巻小僧(1960年、日活
  • 都会の空の用心棒(1960年、日活)
  • みな殺しの歌より 拳銃よさらば!(1960年、東宝)
  • 縞の背広の親分衆(1961年、東京映画、配給:東宝)
  • 一石二鳥(1961年、日活)
  • 地平線がぎらぎらっ(1961年、新東宝
  • 俺はトップ屋だ 顔のない美女(1961年、日活)
  • 悲しき60才(1961年)
  • 用心棒(1961年、東宝=黒澤プロ)
  • 東京おにぎり娘(1961年、大映東京)
  • 若き日の次郎長 東海一の若親分(1961年、東映京都
  • アワモリ君売出す(1961年、東宝)
  • アワモリ君乾杯!(1961年、東宝)
  • アワモリ君西へ行く(1961年、宝塚映画
  • 若き日の次郎長 東海道のつむじ風(1962年、東映京都)
  • 銀座の恋の物語(1962年、日活)
  • 九ちゃん音頭(1962年、松竹大船
  • 次郎長と小天狗 殴り込み甲州路(1962年、東映京都)
  • 若い季節(1962年、東宝)
  • バラキンと九ちゃん 申し訳ない野郎たち(1962年、松竹大船)
  • 九ちゃんの大当りさかさま仁義(1963年、東映東京)
  • 一心太助 男一匹道中記(1963年、東映京都)
  • 嘘(1963年、大映東京)
  • 真田風雲録(1963年、東映京都)
  • ジェリーの森の石松(1963年、東映京都)
  • 牝(1964年、東映東京)
  • エレキの若大将(1965年、東宝)
  • そっくり大逆転(1966年、松竹大船)
  • 九ちゃんのでっかい夢(1967年、松竹大船)
  • 拳銃は俺のパスポート(1967年、日活)
  • 日本最大の顔役(1970年、日活)
  • どですかでん(1970年、東宝=四騎の会)
  • 悪の親衛隊(1971年、東映東京)
  • 日本フィルハーモニー物語 炎の第五楽章(1981年、エヌ・アール企画)
  • 「サクゴエ」(2007年、中目黒製作所)

テレビ[編集]

オリジナルビデオ[編集]

CM[編集]

ラジオ[編集]

  • はかま満緒の話しのネタ(2010年3月22日・29日ラジオ日本-ゲスト)

紅白歌合戦出場歴[編集]

  • 1961年 第12回「石松野郎の歌」
  • 1962年 第13回「遠くへ行きたい」
  • 1963年 第14回「誰かと誰かが」

参考文献[編集]

  • ともあれ、人生は美しい - 昭和を生き抜いたジェリー藤尾の真実 ISBN 978-4420310123(2005年、創美社刊、聞き書き・小田豊二と共著)

脚注[編集]

  1. ^ amazon.co.jp 著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
  2. ^ 母はイギリス人で間違いないが、戸籍の母の欄にはジェリー自身全く知らない日本人の女性の名前が記されているという。そのことから、ジェリーは自身を「腹の子なのでは」と推測しているが、引揚後も本妻であろう日本人女性にあったことが無く、その女性との離婚話も聞いたことが無かったなど、不自然な点も多いという。また、父が中国で母と結婚した際、母の名前を日本名にして、日本人として日本領事館に届け出たのでは、とも考えたが、母は外国人登録証明書を持っており、日本には帰化していなかったことから、その推測も成り立たない。よって、ジェリー自身は「やはり妾腹の子だった可能性が高い」と考えているとのこと。母の父はイギリス海軍軍人だったが、“ゴンザレス”という名はイギリスには存在しないため、藤尾は「母の母はポルトガル若しくはスペインにルーツがあるのでは」と推理しているという。
  3. ^ 山下敬二郎ミッキー・カーティス守屋浩かまやつひろしら、この当時のロカビリー・アイドルが数多く出演した青春コメディー映画だった。
  4. ^ a b 【プレイバック芸能スキャンダル史】おしどり夫婦といわれたジェリー藤尾の泥沼離婚”. ゲンダイネット(日刊ゲンダイ) (2013年2月4日). 2013年7月29日閲覧。
  5. ^ NEWSポストセブン「ジェリー藤尾 男遊びしすぎて別れた妻の名前さえ聞くのが嫌」”. 小学館 (2010年12月23日). 2013年7月28日閲覧。  多くを明かさない藤尾だが、このインタビューでは元妻に対して「名前を聞いただけで嫌になる。本当に嫌な別れ方したからね。だからぼくは名前も呼びたくない。それぐらい嫌なことされたからね…。いいたいこともあるけど、それをいうとまたメディアが喜んじゃうから(苦笑)。とにかくぼくは許してはいませんよ」と心情を述べている。
  6. ^ 高木ブー『第5の男』p.93

外部リンク[編集]