シャルル・フロケ

トマ・シャルル・フロケ(Thomas Charles Floquet、1828年10月2日 – 1896年1月18日)は、フランス第三共和政の政治家。1848年のフランス革命、1871年のパリ・コミューンに関与し、1888年に首相に就任して憲法改正を目指した[1]。1889年に内閣が倒れ、1892年のパナマ運河疑獄で政治生命を断たれた[1]。
生涯
[編集]1828年10月2日、バス=ピレネー県(現ピレネー=アトランティック県)サン=ジャン=ピエ=ド=ポルで生まれた[1]。パリで法律を学び、1851年に弁護士資格免許を取得した[1]。学生時代に1848年のフランス革命に参加しており、1851年12月2日のクーデターに強く反対した[1]。
第二帝政期に政治犯の裁判で政府を攻撃しつつ、『ル・タン』紙などに寄稿した[1]。1867年にロシア皇帝アレクサンドル2世がパレ・ド・ジュスティスを訪問したとき、アレクサンドル2世に対し「ポーランド万歳!」と叫んだという[1]。この出来事は後年になってフロケの官職就任を阻むようになり、フロケは1880年代にロシア大使に弁明して官職就任への障害を取り除いた[1]。
1870年にピエール=ナポレオン・ボナパルトがジャーナリストのヴィクトール・ノワールを殺害して裁判になると、フロケは裁判で帝政を痛烈に批判し、同年9月4日の国防政府成立とパリ包囲戦にも関わった[1]。1871年フランス国民議会選挙でセーヌ県から国民議会議員に選出され、パリ・コミューンではパリ共和主義連盟に参加して、ヴェルサイユ政府(第三共和政)との和解を試みたが失敗している[1]。その後はパリを脱出し、アドルフ・ティエールの命令で投獄されたもののすぐに釈放され、『ラ・レピュブリク・フランセーズ』紙の編集者を務めた[1]。
1876年フランス代議院選挙でパリ11区から代議院議員に選出された[1]。1882年にセーヌ県知事を、1885年から1888年まで代議院議長を務めた[1]。1888年にピエール・ティラール内閣が崩壊すると、首相および内務大臣に就任した[1]。フロケ内閣は急進派の内閣であり、憲法改正を目指したが、右翼のジョルジュ・ブーランジェ将軍の改正案をめぐり論争が起こり、1888年7月13日にフロケとブーランジェが決闘して、ブーランジェが負傷する事件が起こった[1]。結局憲法改正問題により1889年2月にフロケ内閣が倒れたが、フロケは同年11月に代議院議長に選出された[1]。
1892年のパナマ運河疑獄で関与を認めることを余儀なくされ、同年に代議院議長を退任、1893年に代議院議員からも退任したが、1894年に元老院議員に選出された[1]。1896年1月18日、パリで死去した[1]。
出典
[編集]外部リンク
[編集]- シャルル・フロケ - ナショナル・ポートレート・ギャラリー
- ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典『フロケ』 - コトバンク
| 公職 | ||
|---|---|---|
| 先代 アンリ・ブリッソン |
代議院議長 1885年 – 1888年 |
次代 ジュール・メリーヌ |
| 先代 ピエール・ティラール |
首相 1888年 – 1889年 |
次代 ピエール・ティラール |
| 先代 フェルディナン・サリアン |
内務大臣 1888年 – 1889年 |
次代 エルネスト・コンスタン |
| 先代 ジュール・メリーヌ |
代議院議長 1889年 – 1893年 |
次代 ジャン・カジミール=ペリエ |