シャルル・ド・ベルジック

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シャルル・ド・ベルジック
Charles de Belgique
ベルジック家
Karel van België Charles de Belgique Karl von Belgien.jpg
フランドル伯シャルル
称号 フランドル伯
全名
出生 (1903-10-10) 1903年10月10日
 ベルギーブリュッセル
死去 (1983-06-01) 1983年6月1日(満79歳没)
 ベルギーオーステンデ、ラフェルスアイデ
埋葬 1983年6月7日
 ベルギーブリュッセルラーケンノートルダム・ド・ラーケン教会
父親 アルベール1世
母親 エリザベート・ド・バヴィエール
役職 摂政
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シャルル・ド・ベルジックフランス語: Charles de Belgique, 1903年10月10日 - 1983年6月1日)は、ベルギーの王族。フランドル伯

生涯[編集]

アルベール王子(後のアルベール1世)と妃エリザベートの次男としてブリュッセルで生まれた。兄はレオポルド3世、妹は最後のイタリア王妃マリー=ジョゼナチス・ドイツに囚われの身となった兄レオポルド3世の代わりに、1944年から1950年まで摂政として統治した。

シャルルは、1944年に兄王がドイツから解放された時に摂政に任命された。レオポルド3世の第二次世界大戦中の統治は、平民のリリアン・バエルとの再婚同様に疑問視され、彼が王位に留まることは激しい議論を巻き起こした。

シャルルの摂政政治は、ドイツによる占領で生じた出来事とレオポルド3世を巡る議論に終始した。この時期は後の10年間に重要な影響を及ぼす出来事があった。彼の摂政政の間、重要な政治経済の決定がなされたのである。

ベルギーは、マーシャル・プランによるアメリカ合衆国の支援を受けて国内経済の急なスタートを切った。建設部門は、政府が戦争で傷んだ建物の修繕を許可し、社会全体に新規の住宅建築が進められたため刺激を受けた。財政部門は、カミーユ・ギュット法を通じて衛生化され、戦争を目的とした間に非合法に利益をあげることが禁じられた。社会福祉制度が導入され、労使交渉制度が整備された。

もっと重要なことは、1948年の議会選挙で初めて女性参政権が導入されたことである。

さらに、摂政制下でベネルクスが成立し、ベルギーは国際連合の一員となり、北大西洋条約機構に加入した。

1950年、国民投票によってレオポルド3世が復位すると、シャルルは摂政の座から降りた。彼は公的生活から引退し、オーステンデラフェルスアイデ英語版に住居を構えて芸術に没頭する日々を送った。彼の描いた絵には、"Karel van Vlaanderen"(フランデレンのカレル、シャルル・ド・ベルジックのオランダ語読み)と署名してあった。1983年6月、ラフェルスアイデで死去。棺はラーケンノートルダム・ド・ラーケン教会にある王室霊廟に葬られた。

幼少期のシャルル王子 


シャルル・ド・ベルジック

1903年10月10日 - 1983年6月1日

爵位
先代:
エラスム=ルイ・シュルレ・ド・ショキエ
 ベルギー王国摂政
レオポルド3世亡命)
1944年 - 1950年
次代:
レオポルド3世復帰)
ベルギー王室
先代:
フィリップ・ド・ベルジック
フランドル伯
1905年 - 1983年
次代:
(2001年廃止)