シャラマー

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シャラマー(Shalamar)は、1970年代から1980年代に活動したアメリカのソウル、ディスコ・グループ。元々はアメリカのソウル音楽番組「ソウル・トレイン」のブッキング・エージェントであった、ディック・グリフィーによって生み出されたグループである。

概要[編集]

彼らの最初のヒットは1977年モータウンに影響されてできた「アップタウン・フェスティバル」だった。翌1978年には「テイク・ザット・トゥ・ザ・バンク」がソウル・チャートでヒットしたが、その後ジェラルド・ブラウンが脱退することとなった[1]。グループは、ボーカリスト兼ダンサーのジョディ・ワトリージェフリー・ダニエル、ハワード・ヒューイット(短い期間加入していたジェラルド・ブラウンの後を受けて加入)の3人組にかわった。

シャラマーは1979年に音楽プロデューサーのレオン・シルバーズの目にとまり、グリフィーが管理するソーラー・レコードと契約した。グループにとって最初の大きなヒットとなったのは、1980年の「セカンド・タイム・アラウンド」(R&Bチャート1位、ポップチャート8位)で、ミリオンセラーを達成した。さらに1981年には、ソウル・チャートで「ディス・イズ・フォー・ザ・ラバー・イン・ユー」をヒットさせた。

彼らは、イギリスにおいても数曲のヒットを記録した。「 テイク・ザット・トゥ・ザ・バンク」(1978年)「アイ・オウ・ユー・ワン」(1980年)と1982年の「アイ・キャン・メイク・ユー・フィール・グッド」「ナイト・トゥ・リメンバー」「ゼア・イット・イズ」「フレンズ」がある。曲と同じ題であるアルバム『フレンズ』はポップディスコソウルというジャンルを越えて1982年にイギリスでヒットした。グループのレコードの売り上げは好調で、ダニエルはBBCの音楽番組トップ・オブ・ザ・ポップスにおいて、マイケル・ジャクソンよりも早くムーンウォークを披露した。

グループは、ワトリーとジェフリー・ダニエルの2人がソーラー・レコードに音楽的な不満を持ったために脱退したことで壁に突き当たる。それでも、1983年に発表したアルバム『ルック』では、「デッド・ギブ・アウェイ・Dead Giveaway」という佳曲を生み出した。同曲は、ソウル・チャートでヒットしている。アルバムがシャラマーをエレクトロ・ファンクへ変化させていた。シャラマーはアメリカで合計3枚のゴールド・アルバムを達成している。「Big Fun」、「Three For Love」(プラチナム達成)と「フレンズ」の3枚である。

1980年代中盤のラインナップは、デリサ・デイヴィス、ミッキー・フリーらに変わった。シャラマーは映画「フットルース」のサウンドトラックからのシングル「Dancing In The Sheets」によってアメリカのポップ・チャートトップ20に入ることになる。1985年には、「ビバリーヒルズ・コップ」で使われた曲によってグラミー賞を受賞した。しかし、デリサがソロ活動を始めるためグループを離れ、Sydney Justinが加入してからはグループは音楽シーンの一線から退いてしまう。

最も成功していた時期に加入していた3人のうちの1人、ジョディ・ワトリーはプリンスと仲間であったアンドレ・シモーンとソロアルバムを作り、その中に含まれていたシングル「ルッキング・フォー・ア・ニュー・ラヴ」(1987年)、「フレンズ」(1989年)、「エブリシング」などをヒットさせた。またハワード・ヒューイットは86年に秀作「アイム・フォー・リアル」をソウル・チャートでヒットさせている。

1996年にジョディ・ワトリーは、ヒューイット、ダニエルと合流しLL・クール・Jを加えてベイビーフェイスのシングル「ディス・イズ・フォー・ザ・ラヴァー・イン・ユー」に参加した。この曲はシャラマーが1980年発表したアルバム「スリー・フォー・ラヴ」からのシングルのカバーである。また、ワトリーは85年のバンド・エイドに参加したアフロアメリカンの歌手の1人となった。

シャラマーは2005年に再結成した。それはイギリスのテレビ番組「Hit Me Baby」のためであった。オリジナルメンバーであるジェフリー・ダニエル、ハワード・ヒューイットと新しい歌手のキャロリン・グリフィー(シャラマーを見いだしたディック・グリフィーの娘)によるものである。

脚注[編集]

関連項目[編集]

洋書[編集]

外部リンク[編集]