シバン (ウイグル人)

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シバン(Šiban、生没年不詳)は、モンゴル帝国に仕えたウイグル人の一人。『元史』などの漢文史料では昔班(xībān)と記される。

概要[編集]

シバンの父のキュル=ベグ・オトチ(闕里別斡赤/Kül Beg Odči)は八尺を越える長身で、チンギス・カンの中央アジア遠征に従軍して数々の武功を残し、本国(天山ウイグル王国)坤閭城ダルガチに任命された人物だった[1]

キュル=ベグ・オトチの息子のシバンは即位前のクビライに仕えてビチクチに任命されており、1260年(中統元年)にクビライがカアン(皇帝)と称すると真定路ダルガチ、ついで戸部尚書・宗正府ジャルグチに任じられた。この頃、クビライの弟のアリクブケもまた独自にカアンと称しており、武力によってカアン位を決める趨勢となっていた(帝位継承戦争)。シバンは河西方面に派遣されて糧食の運搬を命じられ、西京(大同)の北に至った。そこでトゥメン(万戸)のアシク・テムルがアリクブケ側につこうとしているのを知ると、シバンはアシク・テムルの下を訪れて弟(アリクブケ)は兄(クビライ)に仕えるのが道理であると述べてクビライ側につくよう説得した。アシク・テムルは配下の兵にシバンを包囲するよう指示したものの、翌日にはシバンの説得に従ってクビライ側につくことを結審した。アシク・テムルの帰順によって西京からの兵站は安定したため、後にクビライはシバンの功績を評して「2万の軍勢を率いてくるに勝る」と評したという[2]

クビライは帝位継承戦争を制して唯一のカアンとなったものの、これに不満を抱くオゴデイ家のカイドゥはクビライに従わず中央アジアで自立した。クビライは武力で以てカイドゥを討伐する前にシバンを派遣し、撤兵してジャムチ(駅)を用いて自らの下に来るよう伝えさせた。カイドゥはシバンの伝えたクビライの言葉を聞いたものの、既に丞相のアントンが軍事行動を起こしていることを挙げ、自らに罪はないとして従わなかった。その後シバンは中書右丞という高官の地位を授けられて宗王の娘も娶ったが、70歳の高齢にして再びカイドゥの下を訪れて投降を勧めている。最後には翰林承旨となったが、89歳にして亡くなっている[3]

シバンにはオロス・ベグ(斡羅思密)という息子がおり、更にその息子のヨウジュ(咬住)も高官に至っている[4]

脚注[編集]

  1. ^ 『元史』巻134列伝21昔班伝,「昔班、畏吾人也。父闕里別斡赤、身長八尺、智勇過人、聞太祖北征、領兵来帰。従征回回国、数立功、将重賞之、自請為本国坤閭城達魯花赤、従之、仍賜種田戸二百、卒」
  2. ^ 『元史』巻134列伝21昔班伝,「昔班事世祖潜邸、命長必闍赤。中統元年、以為真定路達魯花赤、改戸部尚書・宗正府札魯花赤。阿里不哥之叛、帝命昔班詣河西、督糧運給軍。還至西京北、聞万戸阿失鉄木児等方選士卒、将従阿里不哥。昔班矯制召其軍赴行在、阿失鉄木児狐疑未決、昔班委曲諭之、且曰『皇帝兄也、阿里不哥弟也。従兄順事也、又何疑焉』。阿失鉄木児等請夜議之、期以翌日復命、且以兵囲昔班以待。明日皆至、曰『従爾之言矣』。即便宜以西京銭糧給其軍、遂率之以行。入見、帝歎曰『戦陣之間、得一夫之助、猶為有済。昔班以二万軍至、其功豈少哉』」
  3. ^ 『元史』巻134列伝21昔班伝,「海都叛、世祖大閲兵、将討之。先命昔班使海都、使之罷兵、置駅来朝。昔班至海都、伝旨諭之、海都聴命、既退軍置駅、而丞相安童軍先已克火和大王部曲、尽獲其輜重。海都懼、将逃、謂昔班曰『我不難於殺汝、念我父嘗受書於汝、姑遣汝帰、以安童之事聞、非我罪也』。昔班以聞、帝曰『汝言是也。先是来者、亦嘗有此言』。尋命為中書右丞、商議政事、妻以宗王之女不魯真公主。明年、復使海都、諭之来帰、且曰『苟不従我、爾能敵諸王蕃衛之兵乎』。海都辞以畏死不敢。昔班奉使、奔走三年、風沙翳目、時年已七十矣。命為翰林承旨、給全俸養老、年八十九而卒」
  4. ^ 『元史』巻134列伝21昔班伝,「子斡羅思密、至元二十三年、授浙東宣慰使。浙東盗起、偽鑄印璽、僭称天降大王、斡羅思密討平之。移鎮広西、峒蛮羅天佑作乱、招諭降之。年六十九卒。子咬住、至大三年、授典用監卿。有盗窃世祖御帯者、懸賞五千錠以購賊、咬住擒獲之、盗伏誅、咬住辞賞、武宗嘉其不伐、予之千錠。官至栄禄大夫・宗正府札魯火赤」

参考文献[編集]

  • 元史』巻134列伝21昔班伝