スィゲトヴァール包囲戦

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スィゲトヴァール包囲戦
スィゲトの戦い
オスマン・ハプスブルク戦争
Johann Peter Krafft 005.jpg
要塞から撃って出るニコラ・シュビッチ・ズリンスキ( ヨハン・ペーター・クラフト画, 1825年)
1566年8月6日 – 1566年9月8日
場所スィゲトヴァール, ハンガリー王国, ハプスブルク帝国
北緯46度03分02秒 東経17度47分50秒 / 北緯46.050663度 東経17.797354度 / 46.050663; 17.797354座標: 北緯46度03分02秒 東経17度47分50秒 / 北緯46.050663度 東経17.797354度 / 46.050663; 17.797354
結果 オスマン帝国が城塞を攻略するも、戦略的敗北[1][2][注釈 1]
領土の
変化
オスマン帝国がスィゲトヴァール要塞を制圧、ブディン州に編入
衝突した勢力

Flag of the Habsburg Monarchy.svg ハプスブルク帝国

Osmanli-devleti-nisani-yeni.png オスマン帝国

指揮官
CoA of the Kingdom of Croatia.svg ニコラ・シュビッチ・ズリンスキ 

Osmanli-devleti-nisani-yeni.png スレイマン1世 #

Osmanli-devleti-nisani-yeni.png ソコルル・メフメト・パシャ
戦力

2,300人[3]–3,000人[4] クロアチア人ハンガリー人[5][注釈 2]

  • 最終日に戦闘可能だったのは600人。[6]

100,000人[7]–300,000人[8][注釈 3]

  • 80,000人 オスマン兵
  • 12,000人–15,000人 タタール騎兵
  • 7,000人 モルダヴィア人
被害者数

甚大;

  • ズリンスキは最終日の戦闘で死亡。
  • 城兵2,300人-3,000人はほぼ全滅。

甚大;

  • スレイマン1世が陣没。
  • 戦死・戦病死 20,000人[4]–30,000人[9][10]

スィゲトヴァール包囲戦 ( ハンガリー語: Szigetvár ostroma [ˈsiɡɛtvɑ̈ːr ˌoʃtromɒ] スィゲトヴァール・オシュトロマ, クロアチア語: Bitka kod Sigeta; Sigetska bitka, トルコ語: Zigetvar Kuşatması) は、1566年ウィーンへ向かうオスマン帝国軍がハプスブルク帝国支配下のハンガリー王国ショモジ城県[注釈 4]スィゲトヴァール郡スィゲトヴァール市[注釈 5]を包囲しハンガリー王国軍と戦った戦い(1566年8月5日 - 9月8日)である[11]。城の守備兵を指揮したのはハンガリー国王フェルディナーンド1世によってクロアチアスラヴォニアダルマチアの先代のバンに任ぜられていたニコラ・シュビッチ・ズリンスキ (ハンガリー語: Zrínyi Miklós [ˈzriːɲi ˌmikloːʃ] ズリーニ・ミクローシュ)[注釈 6] 伯爵で、オスマン帝国軍はスルタンスレイマン1世が自ら指揮をとったが陣中で病没し、これが彼の最後の戦いとなった

1566年8月から9月にかけてのこの包囲戦でオスマン帝国は勝利こそしたものの、双方が大勢の兵を失う結果に終わった。最終盤でスレイマン1世が陣没し、ニコラ・シュビッチ・ズリンスキも戦死した[注釈 7]。オスマン軍は2万人が戦死し、守備兵2300人はほぼ全滅、そのうち最後の日の総攻撃まで生存していたのは600人ほどだった[4]。膨大な被害とスルタンの死によりオスマン軍は同年中に撤退を余儀なくされ、その後1683年の第二次ウィーン包囲までウィーンがオスマン軍の脅威にさらされることはなかった。

17世紀前半のフランスの宰相リシュリューは、スィゲトヴァール包囲戦を「文明が救われた戦い」と位置付けている。現在でもハンガリーやクロアチアでは、自国の詩やオペラでこの戦いを語り継いでいる[12]

背景[編集]

1526年モハーチの戦いの後、ハプスブルク家フェルディナーンド1世が西ハンガリーとクロアチアの貴族によりハンガリー王に選出された。これをきっかけにして、ハンガリーの争奪を中心とした長いオスマン・ハプスブルク戦争が勃発する。16世紀前半のフェルディナーンド1世とスレイマン1世の戦争は双方に甚大な被害を与え、1540年代以降は両国間に大きな衝突が起こらなかった。1564年にフェルディナーンド1世が没した後のスィゲトヴァール包囲戦は、オスマン帝国本軍の久々のヨーロッパ遠征だった。

1566年のオスマン帝国の遠征[編集]

スィゲトヴァール要塞を前に陣取るオスマン軍
現在のスィゲトヴァール要塞

1566年1月、スレイマン1世は46年に及んだ長い治世のなかの最後の遠征を始動した[13]。72歳で痛風に苦しみ、ほとんど輿に乗ったままの行軍だったが、名目上はこれがスレイマン1世の指揮する30回目の戦役だった。5月1日、スレイマン1世はイスタンブールを発った。その軍は彼が生涯で率いた中でも最も規模の大きいものの一つだった。

彼に対抗するニコラ・シュビッチ・ズリンスキはクロアチア王国内の最大の領主で歴戦のベテランであり、また1542年から1556年まではクロアチアのバンの位にあった[14]。彼は第一次ウィーン包囲で頭角を現した後、軍人として輝かしい経歴を歩んだ.。

スレイマン1世は49日の行軍の末、6月27日にベオグラードに着き、東ハンガリー王ヤーノシュ2世と面会した。ズリンスキがシクローシュのオスマン軍野営地襲撃に成功したとの報が入ると、スレイマン1世はエゲルを攻撃しているズリンスキをおいて、彼の持つ城塞であるスィゲトヴァールを攻撃し、ズリンスキの脅威を早期に排除する方針を取った[15]

包囲戦[編集]

包囲戦の鳥観図

オスマン軍の先遣隊がスィゲトヴァールに到着し、包囲を開始したのは1566年8月2日である。防衛軍はたびたび出撃して、オスマン軍にそこそこの被害を与えた。スレイマン1世の本軍は8月5日に着陣し[10]、彼の巨大なテントが戦場を一望できるシミレホフの丘に建てられた。しかし病のため彼の仕事は各部署から報告を受けることだけであり、実質的な指揮は大宰相ソコルル・メフメト・パシャがとった[16]

スィゲトヴァールに戻っていたズリンスキは、少なくとも15万人の兵と強力な大砲群に包囲されたことを見て取った。。彼のもとにいた守備兵は僅か2300人のクロアチア人とハンガリー人だった。彼らはズリンスキ自身の兵や、彼の友人・同盟者の兵だったと考えられている [17]。多数派だったのはクロアチア人で、どちらも主力は重装歩兵だった。

スィゲトヴァールは川によって旧市街、新市街、城塞という3つの地域に分かれており、それぞれが橋や土手道で接続されていた。また城塞部の中でも、中心部(現在城郭が残っている範囲とかさなる)は2つの谷で隔てられており、強襲が極めて困難な要塞となっていた。

スレイマン1世が城下に現れた時、城壁には赤い布がかけられ、あたかも祭りの最中であるように見えた。オスマン帝国の大軍を歓迎するかのように、城から大砲が一発だけ放たれた[18]。8月6日、スレイマン1世の指示により最初の強襲がかけられたが、失敗に終わった。とはいえ防衛軍の人員が絶望的に不足しているのは明らかだったが、ウィーンからハプスブルク帝国の援軍がスィゲトヴァールに送られることはなかった。

1か月以上にわたる壮絶な戦闘の末、ズリンスキら防衛軍の生き残りは旧市街へ撤退し、最後の抵抗の準備をした。スレイマン1世はズリンスキにクロアチアの(オスマン帝国の影響下での)支配権をちらつかせ降伏を促したが[19]、ズリンスキは返答を送らず抵抗を続けた。

スィゲトヴァールの陥落はもはや必然的だったが、オスマン軍の首脳部は総攻撃を渋った。そうしているうちに、9月6日にスレイマン1世が陣没した。彼の死はあらゆる手段によって隠し通され、スルタンの最側近のみがそれを知っていた。兵士が戦闘放棄するのを恐れた側近たちにより、スレイマン1世の死は伏せられ、跡継ぎのセリム(2世)に急使が送られた。おそらくこの使者は手紙の内容を知らなかったはずだが、彼はアナトリアのセリムのもとへわずか8日間で到達した。

最後の戦闘[編集]

最後の戦いに備えるニコラ・シュビッチ・ズリンスキ(Oton Iveković作)

スレイマン1世が死去した翌日の9月7日が包囲戦の最後の一日となった。この時すでに、要塞の城壁は砲撃や坑道からの爆破などによりほとんど体を成していなかった。朝に総攻撃が始まり、膨大な数のギリシアの火や砲弾が撃ち込まれた。[注釈 8] 城郭の残存部は焼け落ち、ズリンスキの宿舎も崩壊した。

オスマン軍が軍楽や雄叫びとともに街に迫る中、ズリンスキは最後の演説をした。

...この燃え上がる地から出て、敵に立ち向かおう。ここで死んだ者は神の御許へ行くだろう。死ななかったものは、その名を讃えられるだろう。まず私が先に行くから、お前たちも同じようにせよ。神に誓って、私はお前たちを置いていきはしないぞ、我が兄弟、騎士たちよ!...

ズリンスキらは最後の攻撃に至っても城内への敵の侵入を許さなかった。オスマン兵が城門の前の細い橋に殺到したとき、防衛側は突然門を開いて大砲から鉄の塊を水平射撃し、たちまち600人の敵を殺害した。そしてズリンスキは600人の残存兵に突撃を命じた。先頭に立っていた彼は胸に2発のマスケット銃弾を受け、頭部に矢を受けて戦死した。多くの残存兵がここで死に、一部は城内に撤退した。

まもなくオスマン兵が城内に乱入し、生存者のほとんどを殺害した。ごく一部には、彼らの勇敢さを讃えたイェニチェリによって命を助けられた者もいた。このオスマン軍の総攻撃から生きて逃れられた騎士はわずか7人だった。ズリンスキの遺骸は首をはねられ、その首は新スルタン・セリム2世の元へ送られた[20] 一方で、胴体はかつてズリンスキの元で捕らえられていたトルコ人の手で丁重に葬られた。

火薬庫の爆発[編集]

上述の最後の戦闘の前に、ズリンスキは城内の火薬に導火線を渡させていた[注釈 9]。最後の城兵が倒されオスマン軍がなだれ込んだ時、誰かがこのブービートラップに触れた、城の火薬庫が爆発し数千人のオスマン兵が吹き飛ばされた[21]

オスマン軍の一部隊を率いて財宝を探していたヴェジール・イブラーヒームという人物がズリンスキの雇人に問うたところ、財宝はずっと以前に使い果たされており、代わりに自分たちの足元に3000ポンドもの火薬があると返答された。ヴェジールらの部隊は脱出できたものの、残っていた3000人のオスマン兵が爆発に巻き込まれ死亡した[22]

スィゲトヴァール公園のトルコ・ハンガリー友好記念碑
ニコラ・シュビッチ・ズリンスキの剣と兜。2016年9月にスィゲトヴァール包囲戦450周年を記念するメジムリェ博物館の展覧会で展示された。

戦後[編集]

ズリンスキ以下、防衛にあたった3000人のほぼ全員が戦死した。一方オスマン軍の被害も甚大であり、3人のパシャ、7000人のイェニチェリ、その他2万8000人の兵士を失った。なお、オスマン軍の総損失は、資料によって2万人から3万5000人の間で諸説がある。

大宰相ソコルル・メフメト・パシャは、スレイマン1世の名で戦勝を告示した。この中では、スルタンは自らの健康上の問題で遠征が不完全に終わったことを悔いている、としている。スレイマン1世の遺体はコンスタンティノープルに戻った後もまだ生きているように扱われ、側近たちは宮廷のおくでスルタンと話をしているふりをした。オスマン帝国の資料によれば、この偽装は3週間続けられ、秘密を守るためにスルタン付きの医師も絞殺された。

遠征の長旅と長期化した包囲戦がスルタンの健康を著しく害し死に至らしめたのは明らかである。最高司令官となった大宰相ソコルル・メフメト・パシャはセリム2世の帝位継承のためにコンスタンティノープルに帰らねばならず、このウィーンを目指した遠征は全体として失敗に終わることとなった。例えスレイマン1世の死が無くとも、包囲戦の長期化のため冬が近づいており、オスマン軍は目的を果たさないまま撤退を余儀なくされただろう[23]。要塞を守り切れなかったとはいえ、ズリンスキらの壮絶な抵抗がオスマン軍のウィーン侵攻を阻んだのは確かといえる。

神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世は、クロアチア貴族アントゥン・ヴランチッチシュタイアー貴族クリストフ・トイフェンバッハをオスマン帝国に派遣し、彼らは1567年8月26日にイスタンブールに入り、セリム2世に歓待された[24]。大宰相ソコルル・メフメト・パシャ(彼自身の出身はボスニアだった)との5か月にわたる交渉の結果、1568年2月17日に両者は講和の妥結点を見出し、同21日にアドリアノープル条約が締結された。セリム2世が認めたのは8年間の停戦だったが、結果として1593年の長トルコ戦争勃発まで25年もの間平和が保たれた。これに加えて、マクシミリアン2世は3万ドゥカートの賠償金を支払った。

文化的影響[編集]

Cover of the first edition of Vazetje Sigeta grada, 1584

クロアチア・ザダル出身のルネサンス詩人・作家Brne Karnarutićは、1573年以前にスィゲト市の征服 (クロアチア語: Vazetje Sigeta grada)を著した[25]。これは彼の死後の1584年にヴェネツィアで出版された。これはスィゲトヴァール包囲戦について、またクロアチアの歴史についてうたった最初の叙事詩であった。この作品はマルコ・マルリッチユディタの影響を受けている。[26]

ニコラ・シュビッチ・ズリンスキの曽孫でクロアチアのバンとなったズリーニ・ミクローシュ(ニコラ・ズリンスキ、ニコラ7世ズリン)は(スィゲトの危難 (ハンガリー語:Szigeti Veszedelem)を1647年に著し、1651年に出版した。これはハンガリー語で書かれた最初の叙事詩の一つで、Brne Karnarutićと同様にマルコ・マルリッチの影響がある。

ズリンスキは2度にわたりオスマン帝国を撃退し、最後には自らを犠牲とした16世紀の国民的英雄として、彼の家族やスィゲトヴァール包囲戦における戦友とともに記憶されている。また彼の物語は愛国歌「ウ・ボイ、ウ・ボイ」にも歌われている。

注釈[編集]

  1. ^ オスマン帝国は要塞こそ落としたものの、多くの兵とスレイマン1世を失った。彼の死が無くとも、包囲戦の長期化によりウィーン遠征の成功は絶望的になっていた。
  2. ^ 大多数が地元のクロアチア人であったというのが大多数の説である。これはズリンスキの侍従で包囲戦から生還したFranjo (Ferenc) Črnkoの報告"Podsjedanje i osvojenje Sigeta"という一次史料で裏付けられている。また後に書かれた"Vazetje Sigeta grada" (1573年、Brne Karnarutić)、"Szigeti veszedelem" (1647、ニコラ7世ズリンスキ)、"Opsida Sigecka" (1647年、Peter Zrinski)もこのことを認めている。
  3. ^ いくつかの年代記が記す3万人という数字は、おそらくスィゲトヴァール守備兵の英雄性を強調するために誇張された数字だろう。スレイマン1世の率いた軍として最大級だったとはいえ、その数は「10万人以上」とした方が近いだろう。
  4. ^ 現在はバラニャ県に編入
  5. ^ 当時のハンガリー王国ハプスブルク家が統治する西部の王領ハンガリーとハンガリー人貴族たちに支持されたサポヤイ家が統治する東部の東ハンガリー王国の東西2つのハンガリー王国に分裂していた。東ハンガリー王国は後にトランシルヴァニア公国となった。スィゲトヴァールはクロアチア王国の北、国境を越えた王領ハンガリーに位置していた。
  6. ^ 彼の曾孫で17世紀のハンガリー文学を代表する同姓同名の詩人にてクロアチアのバン、ハンガリー王国ザラ城県およびショモジ城県の終身県令ズリーニ・ミクローシュ伯爵はこのスィゲトヴァール包囲戦を題材にした叙事詩『スィゲトの危機』を著した。
  7. ^ スレイマン1世は要塞陥落の直前に後方の天幕で死去したとするのが一般的である。George F. Nafzigerは、スレイマン1世が要塞陥落の報をうけると同時に心臓発作を起こしなくなったとする説をとっている。Stephen Turnbullは、同時代のいくつかの資料が、ズリンスキが自らスレイマン1世を討ち取ったと記していることを指摘している。
  8. ^ Robert William Fraserによれば、包囲戦で要塞に打ち込まれた砲弾は1万発を越えた。
  9. ^ Francis Lieberは、火薬庫の爆発自体に疑義を挟む余地があるとしている。

脚注[編集]

  1. ^ Kohn (2006), p. 47.
  2. ^ Lázár and Tezla (1999), p. 70.
  3. ^ Timothy Hughes Rare & Early Newspapers, Item 548456. Retrieved 1 December 2009.
  4. ^ a b c Lieber (1845), p. 345.
  5. ^ Wheatcroft (2009), pp. 59–60.
  6. ^ Turnbull (2003), p. 57.
  7. ^ Shelton (1867), pp. 82–83.
  8. ^ Elliott (2000), p. 117.
  9. ^ Tait (1853), p. 679.
  10. ^ a b Coppée (1864), pp. 562–565.
  11. ^ Turnbull (2003), p. 56.
  12. ^ Cornis-Pope and Neubauer (2004), pp. 518–522.
  13. ^ Turnbull (2003), p. 55.
  14. ^ Krokar Slide Set #27, image 42
  15. ^ Setton (1991), pp. 845–846.
  16. ^ Sakaoğlu (1999), pp. 140–141.
  17. ^ Perok (1861), pp. 46–48.
  18. ^ Roworth (1840), p. 53.
  19. ^ Pardoe (1842), p. 84.
  20. ^ Sakaoğlu (1999), p. 141.
  21. ^ Dupuy (1970), p. 501.
  22. ^ Nafziger & Walton (2003), p. 105
  23. ^ Elliott (2000), p. 118.
  24. ^ Setton (1984), pp. 921–922.
  25. ^ Karnarutić (1866), pp. 1–83.
  26. ^ Lökös, István (1997年4月). “Prilozi madžarskoj recepciji Marulićevih djela” (Croatian) (PDF). Colloquia Maruliana 6. http://hrcak.srce.hr/index.php?show=clanak&id_clanak_jezik=14696 2009年12月3日閲覧。. 

参考文献[編集]

関連文献[編集]

  • Fraser, Robert William (1854). Turkey, ancient and modern: a history of the Ottoman Empire from the period of its establishment to the present time. A. & C. Black. 

外部リンク[編集]