シクロヘキサンの立体配座

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いす形のシクロヘキサン。アキシアル水素は赤、エクアトリアル水素は青く色を付けている。

シクロヘキサンの立体配座(シクロヘキサンのりったいはいざ、: cyclohexane conformation)は、シクロヘキサン分子がその化学結合の完全性を保ちながら取ることができる複数の三次元形状のいずれかである。

平らな正六角形内角は120º であるが、炭素鎖における連続する結合間の望ましい角度は約109.5º (正四面体の中心と頂点を結ぶ直線のなす角)である。したがって、シクロヘキサン環は、全ての角度が109.5º に近づき、平らな六角形形状よりも低いひずみエネルギーを持つ特定の非平面立体配座を取る傾向にある。最も重要な形状はいす形半いす形舟形ねじれ舟形である[1]。シクロヘキサン分子はこれらの立体配座間を容易に移ることができ、「いす形」と「ねじれ舟形」のみが純粋な形で単離することができる。

シクロヘキサンの立体配座は配座異性の古典的な例であるため有機化学において広く研究されてきており、シクロヘキサンの物理的および化学的性質に顕著な影響を与えている。

概説[編集]

シクロヘキサン環に沿った炭素-炭素結合はsp3混成軌道正四面体型の対称性を持つ)からなるσ結合である。したがって、4価英語版の炭素原子の結合間の角度は最適な値 θ ≈ 109.5° を持つ。この結合はまた、かなり固定された結合長λも持つ。一方で、隣合う炭素原子は結合の軸を中心に自由に回転できる。したがって、結合長と結合角が理想的な値に近くなるようにねじれた環は、結合角が120º (正六角形)の平らな環よりもひずみエネルギーが小さい。炭素環の個々の立体配座について、12本の炭素-水素結合の方向(したがって水素結合の位置)は固定される。

全ての内角がθに等しく、全ての辺がλに等しく、6つの区別される角を持つねじれた多角形は厳密に8種類存在する。それらは、2つの理想的ないす形配座と6つの理想的な舟形配座である。いす形は平均環平面の上下に炭素が交互に位置しており、舟形は平均環平面の上に2つの向かい合った炭素が、その他4つが下に位置している。理論では、これらの環配座のいずれかを持つ分子は環ひずみがない。しかしながら、水素原子間の相互作用によって、実際の「いす」形の角度と結合長は名目の値とわずかに異なっている。同じ理由で、実際の「舟」形はいす形よりもわずかに高いエネルギーを持つ。実際、「舟」形は不安定であり、全エネルギーの極小点であるねじれ舟形へと自発的に変形する。それぞれの安定な環配座は環を壊すことなく他の配座へと移ることができる。しかしながら、そういった変形は環がひずんだ状態を経由しなければならない。具体的には、4つの連続した炭素原子が同一平面上に位置する不安定な状態を経由する必要がある。これらの形状は半いす形配座と呼ばれる。

歴史的背景[編集]

1890年、ベルリンで助手をしていた28歳のHermann Sachseが、彼が「対称」および「非対称」と呼んだシクロヘキサンの2つの形(現在は「いす」および「舟」と呼ばれる)を表わすための紙の折り畳み方を記した手引きを発表した。Sachseは、これらの形が水素原子について2つの位置を持っていること(現代の用語では「アキシアル」と「エクアトリアル」)、2つのいす形がおそらく相互変換すること、そして特定の置換基がいす形の一方を好むであろうことさえもはっきりと理解していた。当時、アドルフ・フォン・バイヤーといった化学者らは、シクロヘキサンがベンゼンと同様に平面であると考えており、Sachseの考えを信じなかった。Sachseはこれら全てを数学的言語で表現したため、当時の化学者のほとんどはSachseの主張を理解しなかった。Sachseはこれらの着想を発表しようと何度か試みたが、化学者の興味をかき立てることには成功しなかった。1893年にSachseが31歳で死去すると、彼の着想は世間から忘れ去られた。その後の1918年、当時の最先端技術であるX線結晶構造解析を用いて解かれたダイヤモンドの分子構造に基づき[2][3]、Ernst MohrはSachseの「いす」が極めて重要なモチーフであると主張することに成功した[4][5][6]デレック・バートンオッド・ハッセルはシクロヘキサンおよびその他様々な分子の立体配座に関する研究で1969年のノーベル化学賞を受賞した。

いす形[編集]

いす形は、舟形とともにすべての原子が三次元的に歪みのない立体配置を取ったときの配座である。いす形配座はD3d対称性を有する。

安定性[編集]

シクロヘキサン環のポテンシャルエネルギー。(1)いす形、(2) 半いす形、(3),(5) ねじれ舟形、(4) 舟形

いす形配座は、炭素原子間の結合角が109.5º という理想的な角度を成している。舟形も結合角は109.5º であるが、舟形時の水素や置換基同士の反発のためいす形は舟形と比べてエネルギー的に安定な配座であり、単結合の六員環化合物のほとんどのものがこのいす形配座の状態で存在する。ただし、これは置換基同士の反発がすべて同程度の場合であり、極端にかさ高くまたいす形配座の時に立体障害を起こしやすい位置に置換基が結合している場合はこの限りではない。

アキシアルとエクアトリアル[編集]

いす形配座の環を構成する各炭素原子から伸びる電子軌道には大きく分けて2つの方向(垂直方向と横方向)が考えられる。垂直方向に伸びた電子軌道の先にある原子をアキシアル原子またはアキシアル位にある原子、横方向に伸びた電子軌道の先にある原子をエクアトリアル(エカトリアル)原子また'エクアトリアル位にある原子と呼ぶ。また、環を構成する炭素原子とアキシアル原子・エクアトリアル原子との間の原子間結合をそれぞれアキシアル結合、エクアトリアル結合とよぶ。シクロヘキサンの場合には各構成炭素原子にエクアトリアル水素とアキシアル水素がそれぞれ1つずつついている。垂直方向と横方向だけでなく、環を固定して考えたとき上側か下側かについても同様の向きとなるように電子軌道を持つ炭素原子は1個おきにあり、これらの電子軌道は互いに反発しあっている。

アキシアル・エクアトリアルはそれぞれ英語でaxialequatorialと表記され、「軸 (axis)」「赤道 (equator)」から派生した単語である。地球になぞらえるならば、地軸方向・赤道面上と理解するとわかりやすい。

1,3-ジアキシアル相互作用[編集]

シクロヘキサンは室温で容易に環反転が起こる。アキシアル位に大きな置換基がある場合、隣のアキシアル原子との反発力が大きくなる(1,3-ジアキシアル相互作用)ため環反転の平衡はエクアトリアル(エカトリアル)側に傾く。
メチルシクロヘキサンの環反転.PNG

アキシアル原子の電子半径が大きいと隣のアキシアル原子との反発力が大きくなるので、巨大な原子あるいは官能基は環反転によりエクアトリアル位に存在する場合が多い。たとえば、上図左側のメチルシクロヘキサンでは、3位のアキシアルにあるメチル基が1,5位のアキシアル水素と反発し、立体障害となるため、メチルシクロヘキサンの環反転の平衡は上図右側(巨大な官能基がエクアトリアルである状態)に傾く。この立体的な相互作用を1,3-ジアキシアル相互作用 (1,3-diaxial interaction) という。

舟形[編集]

赤は擬エクアトリアル位、青は擬アキシアル位、緑はフラッグポール位、赤紫はバウスプリット位。

舟形(ふながた)またはボート形 (boat form) は、シクロヘキサン環のように原子同士の結合がすべて単結合の六員環の化合物がとる立体配座のひとつである。舟形配座はC2v対称性を有する。

構造[編集]

いす形配座と同じように結合角のひずみが無い配座である。いす形配座が6本すべての炭素-炭素結合についてねじれ型の配座となっているのに対し、舟形配座ではボートの舳先に当たる炭素を含む4本の炭素-炭素結合についてはねじれ型、ボートの胴体部分を構成する残りの2本の炭素-炭素結合については重なり型の配座となっている。

置換基[編集]

舟形の立体配座においては、ボートの胴体部分を構成する4つの炭素に結合している置換基のうち、環のおおよその平面に垂直の方向に出ている置換基を擬アキシアル位(ぎ-い、pseudo-axial)にあるといい、平面内の方向へ出ている置換基を擬エクアトリアル位(pseudo-equatrial)にあるという。また、ボートの舳先にあたる炭素に結合している置換基のうち環の内側に出ている置換基をフラッグポール位(旗ざお位、flagpole)にあるといい、環の外側に出ている置換基をバウスプリット位(船首斜檣、bowsprit)にあるという。

安定性[編集]

フラッグポール位の置換基同士が接近することによる立体反発があり、また重なり型の配座はねじれ型の配座よりもエネルギーが高いため、舟形配座はいす形配座に比較してエネルギーが高い相対的に不安定な配座である。シクロヘキサンにおいて舟形配座はいす形配座よりも29 kJ/mol不安定である。この値はシクロヘキサン中において、ある瞬間に舟形配座をとっている分子数はいす形配座をとっている分子数の14万分の1に過ぎないことを示している。

配座エネルギーの解析によれば、舟形配座はポテンシャルエネルギー面の極小点ではなく鞍点にあたる。すなわち配座同士の変換の遷移状態に相当する。実際に極小点となっているのはボートの舳先をそれぞれ環の円周方向に逆向きにひねった形のねじれ舟形 (skewed-boat form) と呼ばれる配座である。これはシクロヘキサンにおいては舟形配座よりも6 kJ/mol安定である。ねじれ舟形配座はD2対称性を有する。

普通、シクロヘキサン環においてはねじれ舟形配座よりもいす形配座の方が安定な配座であるが、cis-1,4-ジ-tert-ブチルシクロヘキサンのようにかさ高い置換基がある場合、これらの置換基がバウスプリット位にあるねじれ舟形配座の方が安定になる場合がある。

脚注[編集]

  1. ^ Nelson, Donna J.; Brammer, Christopher N. (2011). “Toward Consistent Terminology for Cyclohexane Conformers in Introductory Organic Chemistry”. J. Chem. Educ. 88 (3): 292–294. Bibcode 2011JChEd..88..292N. doi:10.1021/ed100172k. 
  2. ^ Bragg, W. H.; Bragg, W. L. (1913). “The structure of the diamond”. Nature 91 (2283): 557. Bibcode 1913Natur..91..557B. doi:10.1038/091557a0. 
  3. ^ Bragg, W. H.; Bragg, W. L. (1913). “The structure of the diamond”. Proc. R. Soc. A 89 (610): 277–291. Bibcode 1913RSPSA..89..277B. doi:10.1098/rspa.1913.0084. 
  4. ^ H. Sachse, Chem. Ber., 1890, 23, 1363; Z. Phys. Chem., 1892, 10, 203; Z. Phys. Chem., 1893, 11, 185–219.
  5. ^ E. Mohr, J. Prakt. Chem., 1918, 98, 315 and Chem. Ber., 1922, 55, 230.
  6. ^ This history is nicely summarized here:[1].

参考文献[編集]

  • ソロモンの新有機化学[上][第9版]日本語版(ISBN978-4-567-23503-7)

関連項目[編集]