シクスト・エンリケ・デ・ボルボン=パルマ

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シクスト・エンリケ・デ・ボルボン=パルマ・イ・ボルボン=ブセ西:Sixto Enrique de Borbón-Parma y Bourbon-Busset, 1940年7月22日 ポー - )は、イタリアの旧諸侯パルマ公爵家の子孫。スペインカルリスタの一部により、カルリスタ王家の摂政(1977年 - )と見なされている。出生時の全名はシクスト・アンリ・ユーグ・フランソワ・グザヴィエ:Sixte Henri Hugues François Xavier)で、カルリスタ王家の成員としてアランフエス公Duque de Aranjuez)の儀礼称号を名乗る。

経歴[編集]

最後のパルマ公ロベルト1世の七男であるサヴェリオ(グザヴィエ/ハビエル)と、その妻のマドレーヌ・ド・ブルボン=ビュッセ伯爵令嬢(Madeleine de Bourbon-Busset, 1898年 - 1984年)の間の第6子、次男として生まれた。父は1936年にカルリスタ正統系の最後の当主サン・ハイメ公アルフォンソ・カルロスによって後継者に指名され、シクストの誕生時はカルリスタの摂政を務めていた。父は1952年、正式にカルリスタ王位請求者への就任を宣言した。シクストはベネディクト会、マリア会(Pères maristes)、キリスト兄弟会(Irish Christian Brothers)などの宗教学校で厳格なカトリック教育を受け、またスペイン人家庭教師にも教育された。成長すると法学、経済学、古典語および現代語を学んだ。

1964年に父によってアランフエス公に叙爵され、翌1965年に「エンリケ・アランフエスEnrique Aranjuez)」の登録名でスペイン外人部隊に所属した。同年5月2日の入隊式に際してはスペイン国旗に便宜的に忠誠を誓うことのみを求められ、自らの(カルリスタとしての)政治信条を問われることは無かった[1]

父サヴェリオの後継者は兄カルロス・ウゴだったが、カルロス・ウゴはチトー主義を信奉する社会主義的な思想の持ち主であり、伝統派・守旧派の価値観を代表するカルリスタの政治運動を、自主管理社会主義連邦主義を基盤とした君主制を目指すシンクレティックな性格に変えようとした。シクスト・エンリケは兄の政治姿勢に反発し、1977年に父が死ぬとカルリスタ伝統派の支持を受けてカルリスタの摂政に就任することを宣言し、母マドレーヌもシクストの側についた[2]。父サヴェリオは2人の息子のどちらにカルリスタの指導者の座を譲るか態度をはっきり示さないまま死去しており、カルロス・ウゴとシクストの双方の側に後継者指名の文書が存在していた[3][4]

カルロス・ウゴは1979年、フアン・カルロス1世治世下のスペインに帰化する際に王位請求を取り下げ、自らの支持母体カルリスタ党Partido carlista)からの脱退を宣言したが、2003年に王位請求者への復帰を宣言した[5]。2010年に彼が死ぬと、その長男カルロス・ハビエルがその後継者となった[6][7]。これに対し、伝統主義派(Comunión Tradicionalista)とカルリスタ伝統主義派(Comunión Tradicionalista Carlista)の2つの政治勢力は、シクスト・エンリケをカルリスタが支持する正統な摂政だと見なしている。シクストの支持者の中には彼を国王「シクスト・エンリケ1世Sixto Enrique I)」と呼ぶ者もいる。しかしシクスト本人は兄や甥からカルリスタの王位を奪う権利は無いと考えており、甥のカルロス・ハビエルがカルリスタ伝統派の価値観を受け容れてその指導者となるまでの暫定的な地位として、自分が摂政を名乗るという認識を持っていると説明する。ただし、シクストは支持者から「国王万歳(¡Viva el Rey!)」の歓呼を受けても、これを拒絶することは無い[8]

シクストはその政治信条から、伝統的カトリック信徒や極右政治家とのかかわりが深い。1988年6月30日に、聖ピオ十世会マルセル・ルフェーブル大司教がエコンスイスヴァレー州マルティニー郡)で4人の司教を叙階した際、この叙階式に同席していた。フランス大統領選挙では国民戦線党首だったジャン=マリー・ル・ペンを支持してきた。2001年1月に旅行先のアルゼンチンで遭遇した交通事故で重傷を負い、それ以来歩行が困難になったこともあって積極的に表舞台に出ることは少なくなった。現在は母の実家から相続したリニエール城Château de Lignières)で暮らしている。

2010年、日本の現代美術家村上隆ヴェルサイユ宮殿で開いた作品展の中止命令を出すよう裁判所に申請した[9][10]。シクストは村上の強烈な色彩の作品展示は、宮殿のかつての主人である自分の先祖の記憶を汚すものであり、フランス文化を冒涜していると抗議した[11]

脚注[編集]

  1. ^ その後、外人部隊においても1978年制定のスペイン憲法に忠誠を誓うことを求めるようになった。
  2. ^ "Declaración de Doña Magdalena de Borbón"
  3. ^ "Declaración de S.M.C. Don Javier de Borbón"
  4. ^ "Última Declaración Política de Don Javier", in Don Javier: una vida al servicio de la libertad, 417.
  5. ^ Palabras de S.A.R. el Príncipe Don Carlos Hugo de Borbón Parma en al acto de imposición de cruces de la Orden de la Legitimad Proscrita, celebrado el domingo día 28 de septiembre de 2003 en Arbonne (Francia)
  6. ^ Mensaje al Pueblo Carlista de S.M.C. Don Carlos Javier II de Borbón, Rey de Las Españasblogspot El Carlismo contra Globalizatión (Spanish)
  7. ^ El primogénito de Carlos Hugo de Borbón – Nuevo pretendiente carlista a la corona de España – website news agency Europa Press (Spanish)
  8. ^ Don Sixto en Haro”. Hispanismo.org (2005年7月29日). 2012年5月26日閲覧。
  9. ^ “村上氏作品展は「祖先冒とく」 ルイ王末裔ら法的措置へ”. 47NEWS (共同通信社). (2010年10月23日). http://www.47news.jp/CN/201010/CN2010102201001011.html 2011年2月16日閲覧。 
  10. ^ “ベルサイユ宮での村上隆展中止を=ルイ14世の子孫が仮処分申請へ―仏”. 時事通信社. (2010年10月23日). http://www.jiji.com/jc/zc?k=201010/2010102300083 2011年2月16日閲覧。 
  11. ^ “Aristocrat's anger at Versailles Murakami 'manga' show”. BBC. (2010年10月24日). http://www.bbc.co.uk/news/world-europe-11615040 2010年10月24日閲覧。 

外部リンク[編集]