サン=シェリ=ドブラック

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Saint-Chély-d'Aubrac


地図
行政
フランスの旗 フランス
地域圏 (Région) オクシタニー地域圏
(département) アヴェロン県
(arrondissement) ロデーズ郡
小郡 (canton) オブラック・エ・カルラデズ小郡
INSEEコード 12214
郵便番号 12470
市長任期 クリスティアーヌ・マルファン
2014年-2020年
自治体間連合 (fr) fr:Communauté de communes Aubrac, Carladez et Viadène
人口動態
人口 538人
(2016年)
人口密度 6.8人/km2
住民の呼称 Saint-Chélois
地理
座標 北緯44度35分29秒 東経3度03分57秒 / 北緯44.5913888889度 東経3.0658度 / 44.5913888889; 3.0658座標: 北緯44度35分29秒 東経3度03分57秒 / 北緯44.5913888889度 東経3.0658度 / 44.5913888889; 3.0658
標高 平均:m
最低:560 m
最高:1405m
面積 78.65km2
Saint-Chély-d'Aubracの位置(フランス内)
Saint-Chély-d'Aubrac
Saint-Chély-d'Aubrac
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サン=シェリ=ドブラックSaint-Chély-d'Aubrac)は、フランスオクシタニー地域圏アヴェロン県コミューン

地理[編集]

サン=シェリ=ドブラックは、オブラック高原のアヴェロン県側斜面に位置する。そこはロット川谷を南進したボラルド川渓谷(ロット川支流)の中である。Touzesという地名は、オック語で水源を意味するlas Doutzに由来する。

サン=シェリ=ドブラックは、第2地震帯(低震度)に位置している[1]

村には多くのハイキングコースがある。村は、サンティアゴ巡礼に向かう神秘的な旅路、GR65ハイキングコースが通る。

サン=シェリ=ドブラックと、小さな村落のオブラック(fr、現在はサン=シェリ=ドブラックの一部)は、ロット川谷につながるオブラック地方のアヴェロン県側にある、2つのかつての宿場である。我々は標高1300mのところにあるオブラック村落を出発し、7km行ったところで、標高800mのサン=シェリ=ドブラックに到着する。次にオブラック村落を発って、15km離れた標高400mのサン・コーム・ドルトへ向かう。

由来[編集]

地名は以下の形式をつうじて、資料で裏付けられている。S. Electi (1082年)、S. Elegii (1248年)、S. Eligii(1270年)、ラテン語のEligius (Éloi)である。ロゼール県のサン=シェリのように、サンティレール(Saint Hilaire)の名前の解釈であるS. Yleri (1266年)を見つけることもできる[2]

オック語でのコミューン名はSanch Èli d'Aubracで、聖エロワから引用されている(教会の中に聖エロワ像がある)[3]。しかしながら、筆記者による名前の誤読の結果、最初の単語にあったchは2番目の単語に変換され、今日の正式なフランス語の形式、Saint-Chély-d'Aubracとなっている。

フランス革命の間、コミューンはヴァレ=リーブル(Vallée-Libre)と名乗っていた[4]

歴史[編集]

昔、オブラック地方の象徴とされていたエラニュス山の表記と、ル・ピュイの道が描かれている地図

サン=シェリ=ドブラックへの人の定住は、先史時代にさかのぼる。カステルヴィエル岩の近くで、紀元前3500年頃の磨かれた燧石石斧、地面に埋まったが見つかった。GR65ハイキングコースは、この時代に古いローマ街道であるル・ピュイの道が通じており、ロット川渓谷に行くのに最も簡単な方法だった。

中世には村を取り巻く城壁が築かれたが、現在壁の痕跡は残っていない。オブラック近くで罠に落ちたアダラールが誓いをたてた物語が知られて以来、そこにオブラックのドムリー(fr、修道士たちが運営した修道会の共同体)とオブラック救護院ができた。サン=シェリ=ドブラックは巡礼のため、巡礼によって生かされてきたのである。

これはアダラールの冒険談の最も古い版(15世紀)である。

  • 30人の騎士たちとともにコンポステーラからの帰途についていたアダラールは、夕暮れ時にオブラック地方を通り、森の奥深くの洞窟を見つけた時、彼は間違いなく一晩を安全に過ごせる場所を探していた。しかし、なんて恐ろしいこと!巡礼者たちは、そこに20人から30人の旅行者たちの切り落とされた頭を見つけたのだ。犠牲者はコンポステーラの巡礼者だけだった。キリストがその時姿を現し、アダラールに対し、この危険な場所に救護院をつくるよう頼んだ。アダラールは自らの巡礼を終えると、神の命令に従うべく一人でオブラックへ戻った。

人口統計[編集]

2016年時点のコミューン人口は538人で[5]、2011年時点の人口より1.82%減少した。

1962年 1968年 1975年 1982年 1990年 1999年 2006年 2016年
820 726 606 556 547 532 546 538

参照元:1962年から1999年までは複数コミューンに住所登録をする者の重複分を除いたもの。それ以降は当該コミューンの人口統計によるもの。1999年までEHESS/Cassini[4]、2006年以降INSEE[6][7]

史跡[編集]

  • ノートル・ダム・デ・ポヴル教会 - 11世紀から12世紀のロマネスク建築。歴史的記念物[8]。1082年にポンス・エティエンヌがマルセイユのサン・ヴィクトール修道院に寄進したものの中で、ベルヴェゼの下のサンテロワ(Saint-Éloi)の名で言及された。百年戦争中の1385年頃に火事にあい、鐘楼の役割を果たしている古い防衛用の塔の周りに、15世紀に再建された。
  • ペルラン橋 - 中世、ボラルド川を渡るため架けられた。サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路である、ル・ピュイの道の途上にある。歴史的記念物[9]
  • ボヌフォン塔 - 15世紀。ドムリーの修道士たちの穀物倉を守るために建設された。歴史的記念物[10]

美食[編集]

  • アリゴは、とても弾力の強い触感の、裏ごししたジャガイモとトム・フレッシュとを混ぜ合わせた料理である。20世紀最後の25年間に、中央高地の他の場所にも伝播した、オブラック地方(アヴェロン、カンタル、ロゼール)の特別な田舎料理である。特に、ブーニャ(fr)と呼ばれるオーヴェルニュ地方の農村部から都会に出稼ぎに出た人々により、さらにフランスじゅうに広まった。
  • レトルティヤ(fr)は、ジャガイモ、トム・フレッシュ・ド・ラギオール(チーズ)で作られニンニクと塩で味付けした一品である。
  • ラギオール(fr)は、オブラック高原のウシの生乳から作られた、非加熱のパテ・チーズである。

脚注[編集]

  1. ^ Plan séisme
  2. ^ Ernest Nègre, Toponymie générale de la France : étymologie de 35 000 noms de lieux, vol. 3 : Formations dialectales (suite) ; formations françaises, Genève, Librairie Droz, coll. « Publications romanes et françaises » (no 195), 1991, 1852 p
  3. ^ http://toponimiaoc.webs.com/12avairon.htm
  4. ^ a b http://cassini.ehess.fr/cassini/fr/html/fiche.php?select_resultat=30861
  5. ^ Population municipale légale en vigueur au 1er janvier 2019, millésimée 2016, définie dans les limites territoriales en vigueur au 1er janvier 2018, date de référence statistique : 1er janvier 2016.
  6. ^ https://www.insee.fr/fr/statistiques/3293086?geo=COM-12214
  7. ^ http://www.insee.fr
  8. ^ http://www2.culture.gouv.fr/public/mistral/merimee_fr?ACTION=CHERCHER&FIELD_1=REF&VALUE_1=PA00094140
  9. ^ http://www2.culture.gouv.fr/public/mistral/merimee_fr?ACTION=CHERCHER&FIELD_1=REF&VALUE_1=PA12000036
  10. ^ http://www2.culture.gouv.fr/public/mistral/merimee_fr?ACTION=CHERCHER&FIELD_1=REF&VALUE_1=PA00094141