サムツヘ=ジャヴァヘティ州

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Samtskhe-Javakheti
სამცხე-ჯავახეთი
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ジョージア (国)の旗 ジョージア
庁舎 アハルツィヘ
地区 6
行政
 - 州知事 Lasha Chkadua
面積
 - 計 6,413km2 (2,476.1mi2)
人口 (2014年)
 - 計 160,262人
ISO 3166コード GE-SJ

サムツヘ=ジャヴァヘティ州 (グルジア語: სამცხე-ჯავახეთი)はジョージア(საქართველო)南部の州。歴史的地域ではメシュケティジャヴァケティトリの範囲である。州都はアハルツィヘ

以下の6地区に分かれる。

5つの町、6つの都市型集落、67の村、268の地方村が所属する。

西にアジャリア自治共和国、北西にグリア州、北にイメレティ州、北東にシダ・カルトリ州、東にクヴェモ・カルトリ州、南東にアルメニア、南西にトルコに接する。

BTCパイプライン南コーカサスパイプラインKTBパイプラインが州内を通る。

歴史[編集]

1990年代中盤にアブハジア南オセチアの分離運動を受けて、シェワルナゼ大統領がサムツヘ州(メシュケティ)とジャヴァヘティ州を合併してサムツヘ=ジャヴァヘティ州を設置した。

メシュケティ[編集]

メスキ族とモシニクス族が知られている中で最古の住民である。モシニクス族が金属工学を発明したと主張する学者も居る。

紀元前2000年紀元前4世紀、メシュケティはディアオキ王国の一部だった。

紀元前4世紀6世紀、イベリア王国の一部だった。両王国はペルシア帝国の従属国である。

10世紀15世紀、統一ジョージア王国の一部だった。

16世紀サファヴィー朝に併合された。後にオスマン帝国に併合された。

1828年ロシア・ペルシャ戦争 (1826年-1828年)の結果、ロシア帝国のトビリシ州の一部になった。

1918年1921年グルジア民主共和国の一部になった。

1921年1990年グルジア・ソビエト社会主義共和国の一部になった。

1991年ジョージアのメシュケティ州になった。

ジャヴァヘティ[編集]

紀元前785年ウラルトゥアルギシュティ1世の時代、この地域はザバカと記録された。

1世紀、カルトリ王国のパルスマン1世がジャヴァヘティを奪った。

5世紀、イベリア王国のヴァクタン5世が亡くなると、彼の2人目の妻はジャヴァヘティのツンダに住んだ。

11世紀アハルカラキが上ジャヴァヘティの、ツモグヴィが下ジャヴァヘティの中心になった。

11世紀~13世紀カルトヴェリ人の王朝であるグルジア王国の下で、橋や教会、僧院、王宮が建設された。

13世紀以降、ジャヴァヘティはトルコのパラカツィオとメシュケティの一部を領有するようになった。

15世紀サムツヘ・サータバゴがジャヴァヘティを統治した。

16世紀サファヴィー朝に併合された。後にオスマン帝国ペルシア帝国に併合された。

ジャヴァヘティに居住していたカルトヴェリ人の多くは内陸のイメレティ州やカルトリに移住し、この地に残った人々はムスリムになった。

1828年ロシア帝国はオスマン帝国から戦争でこの地域を奪い、キリスト教徒アルメニア人ギリシャ人を入植させた[1]

20世紀初頭、アルメニア人虐殺が起きた。ロシアのドゥホボール派も大量にこの地域に入植した。

メスヘティア・トルコ人の追放[編集]

メスヘティア・トルコ人はトルコに接するジョージアのメシュケティ地方にかつて住んでいたムスリム系住民である。1944年9月15日~11月25日、彼らはスターリンの指示によってカザフスタンキルギスウズベキスタンに家畜のように追放された。これらの国には現在も彼らの子孫が多く住んでいる。10万人が追放され、道中で1万人が亡くなったと言われている[2]

民族[編集]

ジャヴァヘティの主要民族はアルメニア人である。ニノツミンダ市とアハルカラキ市ではアルメニア人が多数派である[3]。彼らはグルジア語アルメニア語ロシア語を話す[4]

2002年の統計ではこの地域に20万7598人が住んでおり、11万3347人(54.6%)がアルメニア人、8万9995人(43.4%)がジョージア人, 2230人(1.1%)がロシア人、1826人(0.9%)がその他の民族だった[5]

政治[編集]

2002年の統計では、アルメニア人が54%を占めた[6]。NGOは彼らが生活のあらゆる面で過小評価されていると報告した[7][8]

ジョージア政府とアルメニア人の対話不足によって、差別や疎外が起きている[9][10]

観光地[編集]

3つともアスピンザ近郊にある。

脚注[編集]

  1. ^ Boeschoten, Hendrik; Rentzsch, Julian (2010). Turcology in Mainz. p. 142. ISBN 978-3-447-06113-1. http://books.google.com/books?id=XtW6cox7CIUC&printsec=frontcover&dq=Turcology+in+Mainz&hl=en&ei=SQ4YTsqyIIqr8AP10YUv&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=1&ved=0CCoQ6AEwAA#v=onepage&q&f=false 2011年7月9日閲覧。. 
  2. ^ http://www.guardian.co.uk/news/2003/apr/05/guardianobituaries.usa as retrieved on 29 Apr 2008 20:59:44 GMT
  3. ^ http://www.eurasianet.org/georgia/samtskhe/story.html
  4. ^ http://www.ssoar.info/ssoar/files/2009/1838/working_paper_25.pdf
  5. ^ Ethnic groups by major administrative-territorial units”. National Statistics Office of Georgia. 2015年5月3日閲覧。
  6. ^ Statistics Georgia
  7. ^ Jones, Stephen. War and Revolution in the Caucasus: Georgia Ablaze. p. 39. 
  8. ^ Georgia’s Armenian and Azeri Minorities, 22 November 2006 (free registration needed to view the full report) --- LINK DOES NOT WORK
  9. ^ Reuters AlertNet - Georgia’s Armenian and Azeri Minorities --- LINK DOES NOT WORK
  10. ^ Reuters Foundation; Alertnet, 22 Nov 2006, [Georgia’s Armenian and Azeri Minorities http://www.alertnet.org/thenews/newsdesk/ICG/a839b86ed70730cc9b32cbd9a898fc90.htm]

外部リンク[編集]


座標: 北緯41度35分 東経43度16分 / 北緯41.583度 東経43.267度 / 41.583; 43.267