サッポー

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サッポー
(ロマン主義的なイメージで描かれたもの)(1883年の作品)
サッポーの胸像だと推定されているもので、手前に「エレソスのサッポー」と書かれている。古代ギリシャの像を古代ローマ時代に模刻したもの。(紀元前5世紀初期)

サッポー古代ギリシア語アッティカ方言 (en: Σαπφώ / Sapphō紀元前7世紀末 – 紀元前6世紀初)は、古代ギリシアの女性詩人である。

出身地レスボス島で用いられたアイオリス方言 (enではプサッポーΨάπφω / Psappho)と呼ばれる。名は「サッフォー」(: Sappho)とも表記される。

生涯[編集]

サッポーは生前から詩人として著名であり、シケリア島シュラクサイに亡命の時期に彫像が立てられたという。またプラトンはサッポーの詩を高く評価し、彼女を「十番目のムーサ」とも呼んでいる。ムーサとはアポロンに仕える9柱の芸術の女神である。

歴史学(パピルス)上ではっきりしているのは、サッポーはレスボス島で生まれ、紀元前596年にシケリア島に亡命し、その後、レスボス島に戻ったということのみである。 サッポーに関する文献は少なく、その生涯ははっきりしない。紀元前630年から紀元前612年の間のいずれかの年に生まれ、紀元前570年頃に亡くなったと考えられている。

「サッポーは、富裕な商人である"Kerkylas of Andros"(アンドロス島のケルキューラース)と結婚した」という伝承があった。しかし、ケルキューラースという名前は(現存する)サッポーの詩に全く登場しない上、19世紀半ばに歴史学者のWilliam Mure英語版が、"Kerkylas of Andros" は "Penis of Man" を意味する古代ギリシャ語とよく似た音になることを発見し指摘したため、この伝承は歴史的事実でなく、サッポーが同性愛と結びつけられることを踏まえた上での創作による民間伝説であると考えられている。

サッポーは、彼女によって選ばれた若い娘しか入れないある種の学校をレスボス島に作った。また、様々な女性に対する愛の詩を多く残した。そのため、サッポーと同性愛を結びつける指摘は紀元前7世紀ごろから存在した。サッポーの学校では、文芸・音楽・舞踊を始めとする教育が行われたといわれるが、具体的な内容についてはよくわかっていない。サッポーの詩のうちの一部は、それら生徒のために書かれたものである。

同じレスボス島出身の詩人アルカイオスとは詩の交換などで交遊があった。サッポー自身はアルカイオスと異なり、詩作において政治と関わることはせず、主観の方向は内的情熱に傾倒し、亡命の際以外、政治への関与は避けた。[1]

作風[編集]

サッポーの作品には5脚の3行と2脚の1行からなる四行詩が多く、この形式はサッポー詩体として知られる。またその詩の内容は好んで恋愛を主題とする。古来サッポーの作として著名なものに「アプロディテへの讃歌」がある。

評価[編集]

恋愛詩人としてのサッポーは古代ローマ時代にもよく知られ、オウィディウスは抒情詩「愛について」の中で「いまやサッポーの名はあらゆる国々に知られている」(Ars Amatoria, 第28行)と述べている。

その一方で後世にはサッポーの作品は頽廃的であるとみなされ、さまざまな非難を浴びた。古代ローマ時代にもサッポーは非難の的となっていたが、その後、キリスト教が興隆し、キリスト教学が独善的な性格を強めてゆくに従い、サッポーの詩は「反聖書的である」とされた。そして、キリスト教の力がエジプトにまで及ぶに至って、サッポーの作品の多くが失われた。

当時、サッポーの詩はエジプトのアレクサンドリア図書館に所蔵されていた。これは、アレクサンドリアが学問の都市であっただけでなく、キリスト教信徒や東ローマ帝国皇帝が、無神論を含むギリシャ哲学や観察に基づく科学を「聖書を冒涜するもの」として非常に迫害するようになると、ギリシャの学者たちはキリスト教の力の及びにくいエジプト属州へ逃げて学問を続けていたためである。(390年には、東ローマ帝国皇帝テオドシウス1世によって、”同性愛の罪を犯した”とするゴート人のギリシャ学者を捕らえるという名目の下、テッサロニカの虐殺 (enが起こる。) しかし、そのエジプトにもキリスト教の力が及ぶようになり、415年には、アレクサンドリアで、ギリシャ学問の学校の女性校長であり著名な数学者・哲学者・無神論者でもあったヒュパティアがキリスト教徒によって裸にされて吊され全身の肉を牡蠣の貝殻でそぎ落とされて惨殺されるという大虐殺事件が起こった。さらに、エジプトを統括する司祭の指揮のもと、キリスト教徒はアレクサンドリア図書館をも破壊し蔵書を焼き払った。所蔵されていた大量の貴重なギリシャ学問やヘレニズム学術の成果がすべて消失し、サッポーの詩もまた失われた。サッポーの一部の詩は、キリスト教徒の迫害を逃れてサーサーン朝ペルシアへ亡命した学者たちにより現在まで残っている。

前述のようにサッポーは非常に女性同性愛と結びつけられやすかったため、現代では、Sapphic (サッポー風の)は女性同性愛者を、Sapphismは女性同性愛を示すのに用いられる。また、女性同性愛者を呼ぶ一般的な呼称である「レスビアン」もサッポーがレスボス島出身であることに由来する。ちなみに、英語で「レスボス人」は"lesbian"と表記されるが、これは「レズビアン」の"lesbian"と同じつづりである。そのことから、同島の現代の一般名称はミティリーニ島の名称に好んで替えられて呼ばれている。

日本語文献[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 注 - サッポーの最後については、遡ればメナンドロス(紀元前342-292)あたりから、渡し守に恋をしてルーカディアの崖から飛び降りたのだろう、などと語られてきたが、これは現代の学者からは、歴史的な事実ではないと見なされており、おそらく喜劇詩人がつくりだしたお話か、あるいはサッポーの非自伝的な詩を彼女自身の話として誤読してしまったことが原因で作り出されたお話だろうと推測されている(Joel Lidov, "Sappho, Herodotus and the Hetaira", in Classical Philology, July 2002, pp.203–237. pp.205-206)。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]