サイイド・アブドゥッラー・ヌーリー
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サイイド・アブドゥッラー・ヌーリー(アラビア語 سید عبدالله نوری、英語 Sayid Abdulloh Nuri、タジク語 Сайид Абдуллоҳи Нурӣ、1947年3月15日 - 2006年8月9日)は、タジキスタン共和国の政治家。タジキスタン・イスラム復興党の党首であり、タジキスタン内戦中は、タジク野党連合(UTO)を率いた。
ロシア式の名でアブドゥッロ・サイドフ(ロシア語: Абдулло Саидов)とも呼ばれている。
経歴
[編集]ヌーリーはラシュト渓谷にあるサングヴォルスキー地区(現タヴィルダラ地区)オシュチエン村で、8人兄弟の4男として生まれた。
父のヌルディン・サイイドフ(1900年 - 1982年)は、アルガンクリ村会議の議長であり、息子達をシャリーアに従い教育した。母方は、ヴァフエ峡谷のホキム(知事)も出したことがあるブハラの名門である。
当初、父から教育を受け、ドゥシャンベの地下宗教学校で学んだ。並行して、1964年に普通教育学校を卒業した。
反ソ・イスラム活動
[編集]- 1973年 - イスラム教の違法宣伝により最初の逮捕
- 1974年 - 違法のイスラム青年組織「ナフザチ・イスロミ」(Nahzat-i Islomi、タジク語で「イスラム復興」の意)の組織者(精神的指導者は、コリ・ムハマジョン・ルスタモフ)の1人となる。
- 1975年 - 大衆集会を開き始める。
- 1983年 - ソ連国家保安委員会(KGB)により呼び出され、イスラム再編の試み、国外のラジオの聴取、イランとの無線連絡の嫌疑で起訴。警告を受け、当局の監視下に置かれた。以後、地区間機材棚卸局で技師として働く。
- 1986年7月 - 40人の組織構成員と共に逮捕。信奉者の大規模デモが発生し、釈放された。
- 1986年8月 - 麻薬不法所持により再逮捕[注釈 1]。
- 1987年 - 矯正労働1年半を言い渡され、コムソモリスク・ナ・アムーレの第11矯正労働所に服役。
- 1987年12月 - 収容所外での監視下に置かれる。
- 1988年2月 - 釈放
- 1988年~1992年 - タジキスタン・カジアト(Тоҷикистон Казиато,アラビア文字転写:طاجيكستان كازياتو)の中央機関紙「ミンバリ・イスロム」(イスラム演壇)の編集長
イスラム復興党
[編集]1993年1月(または3月)、タジキスタン・イスラム復興党党首に選出。アフガニスタンのタルカン市に移住し、タジク野党連合(UTO)を結成する。
1997年6月27日、タジキスタン共和国大統領エモマリ・ラフモンと和平協定に調印し、タジキスタン内戦を終結させた。同年7月、国家和平委員会議長。2000年3月、仕事を終えたとして、同委員会解散。
2006年8月9日、癌により、ドゥシャンベで病没。
人物
[編集]妻帯、8児を有する。