サイイド・アフマド・ハーン

サイイド・アフマド・ハーン(Sayyid Ahmad Khan, 1817年10月7日 - 1898年3月27日)は、近代インドのムスリムの思想家[1]、教育改革者[2]。クルアーンのみをイスラム教における宗教的権威とみなす、クルアーン主義者である。
呼び名
[編集]「アフマド」(Aḥmad)が個人の名前であり、「ハーン」(khān)は貴族であることを表す称号である。「アフマド・ハーン」よりもむしろ、彼に与えられた敬称2つを組み合わせた「サル・サイイド又はサー・サイイド」(Sir Syed)と呼ばれることの方が多い[2]。
生涯
[編集]サル・サイイドの父方の祖先はペルシアからアフガニスタンを経てインドに移住したサイイド(聖裔家)の家系である[2]。インドにはシャー・ジャハーン帝(在位1628年-1666年)の時代に定住し、ムガル朝宮廷に深く結びついた名家である[2]。サル・サイイドは1817年10月17日にデリーで生まれた[2]。母親は分別のある女性で、息子に良い教育を受けさせようとしたが、実際に受けることのできた教育はマクタブ(初等教育)の域を出なかった[2]。
1838年に父親のミール・ムッタキーが亡くなった[2]。父は実際の仕事のない官職に就いて、ムガル朝宮廷から俸給をもらっていた[2]。父の死に伴い俸給を受給できなくなったため、サル・サイイドは生活のために仕事を探す必要ができた[2]。そこでイギリス東インド会社に入り、デリーの裁判所で下働きを始めた[2]。しかし勤勉で責任感の強いサル・サイイドは副判事にまで昇進した[2]。
1857年にインド大反乱が勃発すると、イギリス東インド会社の官吏らを助けた。反乱鎮圧後は乱の原因に関して考察している。
1875年、アリーガルにムハンマダン・アングロ・オリエンタル・カレッジ(Mohammedan Anglo Oriental College、のちのアリーガル・ムスリム大学)を設立した。
出典
[編集]- ↑ 「サイイド・アフマド・ハーン」『岩波イスラーム辞典』岩波書店、2002年、386b-387a頁。
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 Baljon Jr., J. M. S. (1960). “Aḥmad Khān”. In Gibb, H. A. R.; Kramers, J. H. [英語版]; Lévi-Provençal, E. [英語版]; Schacht, J. [英語版]; Lewis, B.; Pellat, Ch. [英語版] (eds.). The Encyclopaedia of Islam, New Edition, Volume I: A–B. Leiden: E. J. Brill. pp. 287b–288b.
参考文献
[編集]- フランシス・ロビンソン 著、月森左知 訳『ムガル皇帝歴代誌 インド、イラン、中央アジアのイスラーム諸王国の興亡(1206年 - 1925年)』創元社、2009年。
- バーバラ・D・メトカーフ、トーマス・D・メトカーフ 著、河野肇 訳『ケンブリッジ版世界各国史 インドの歴史』創士社、2009年。