ゴルカル

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 インドネシアの政党
ゴルカル

Partai Golongan Karya
議長 Airlangga Hartarto
創立 1964年
本部所在地 ジャカルタ
政治的思想 パンチャシラ
社会自由主義
Democratic liberalism
自由民主主義
Conservative liberalism
政治的立場 中道
国際連携 Progressive Alliance
国民議会議席
107 / 560
公式サイト
http://www.golkar.or.id/
インドネシアの政治
インドネシアの政党一覧
インドネシアの選挙

ゴルカルGolkar)は、インドネシア政治団体政党である。立党原則を、パンチャシラ(建国5原則)と1945年憲法に置いている。なお「ゴルカル」は「ゴロンガン・カリヤ Golongan Karya」(職能集団)の略称である。

スハルト政権下で実施された総選挙では圧倒的な得票率をあげて勝利し、同政権を支える「与党」として機能してきた。ただし、「政党とゴルカルについての法律(1975年)」及び「同改正法(1978年)」(以後、一括して「政党・ゴルカル法」と略)は、ゴルカルを政党ではなく「職能団体」であると規定していた。

スハルトの失脚時まで政権「与党」としての機能を継続したが、ハビビ政権下で新たに制定された政党法では、ゴルカルの特権的地位が改められ、組織は「政党」として再編されることになった。

スハルト時代以前[編集]

スハルト政権の支持基盤として存続してきたゴルカルであるが、その組織的起源はスカルノ政権末期にある。

9月30日事件に至るまでのスカルノ「指導される民主主義」末期、インドネシア共産党PKI)の組織拡大を警戒した国軍は、PKI傘下の大衆組織に対抗しうる組織を形成する必要に迫られた。そこでPKIに反発する職業別集団を組織化し、それらを調整する機関として、1964年10月20日にゴルカル共同事務局(Sekber Golkar)を発足させた(大形、1995年、144頁以下を参照)。

その後、9月30日事件によってPKIが壊滅し、スカルノの失脚、スハルトの大統領就任、そしてスハルトによる新体制が始まるとともに、ゴルカルもまた新たな政治的役割を担うことになった。1971年7月5日に予定された総選挙に、スハルト政権を支持する政治団体として、ゴルカルも参加することになったのである。

スハルト時代[編集]

1971年以降、インドネシアでは5年に一度、総選挙が実施されてきたが、スハルト時代の総選挙でゴルカルが圧倒的な強さを誇ったのは、それが法制度面での恩恵を十分に受けていたからに他ならない。

スハルト時代に制定された政党・ゴルカル法は、各政党の支部組織の設置基準を、首都、一級自治体(州)、二級自治体(県)レベルの3段階に限定していた。そのため、ゴルカル以外の政党(インドネシア民主党開発統一党)は、郡・村レベルでの組織浸透をはかることができず、選挙では苦戦を強いられた。

一方、ゴルカルは、政党の支部設置基準に拘束されることなく、郡・村レベルでもその出先機関を配置することができた。公務員はゴルカルへの加入を半ば強制的に推奨されていたため、ゴルカル地方支部は地方官僚組織と一体化しており、ゴルカルの影響力は草の根レベルまで浸透した。

また、この法律は、党費・寄付・合法的な事業・国家の補助など、党の運営資金面について規定していたが、党費を除いた項目は無制限であったため、ゴルカルへの寄付が後を絶たなかった。運営資金面でスハルトの開発独裁政権を強固なものにしたが、不透明さから汚職、癒着、縁故主義などによる組織腐敗の温床になっていたとも指摘されている。

同法では、選挙制度もゴルカル有利に定められていた。具体的には、全県が少なくとも1議席を有し、各州ごとに人口比例の議席配分を実施する変則型比例代表制であった。「選挙法」の定めに従い、選挙監視委員会委員長・委員会は、知事クラスの公務員が兼任していたため(知事は大統領による任命制であった)、選挙の実施機関と官僚組織が一体化していた。また、ゴルカルの選挙運動には公務員や軍人が大々的に動員された。

さらに選挙当日の投票は村の役場などで行なわれたため、有権者は棄権を許されず、投票会場では無言の圧力を感じながら、ゴルカルへの投票を促された。

こうして完全な政府統制のもとで実施された総選挙は、毎回異様に高い投票率と、ゴルカルの圧倒的な得票率を誇って、スハルト政権の正統性を内外に喧伝する「民主主義の祭典」として機能していたのである。

ハビビ時代以降[編集]

スハルトの失脚後、スハルト時代の清算を厳しく要求する諸勢力の機先を制する形で、新大統領ハビビは矢継ぎ早に制度改革を実行した。その政治改革の一環として改正された新政党法にもとづいて、ゴルカルはあらためて政党として再出発することになった。

しかし、1999年の総選挙では、ハビビが率いるゴルカルはスハルト色を払拭することができずに苦戦することになった。結社の自由を大幅に認める新政党法によって新党が族生し、国民の人気はそれらの新党に向かった。

なかでもメガワティ率いる闘争民主党は、世俗的な国民層を中心に支持を集め、この選挙では第1党(支持率33.8%)の地位を獲得した。また、イスラム系の社会団体であるナフダトゥル・ウラマーを支持基盤として発足した民族覚醒党や、その他のイスラム系諸政党も、ムスリムが国民の多数を占める同国で一定の得票率をあげた。

ゴルカル党は、それらの新党に票を奪われて得票率は22.5%に留まり、第2党に転落した。その結果、ハビビは大統領を辞任し、大統領指名選挙では民族覚醒党のアブドゥルラフマン・ワヒドが選出され、ゴルカルは初めて野党に転ずることになった。

なお、この1999年選挙では、ゴルカルはジャワでの支持基盤が脆弱であることが明らかとなるものの、外島、特にハビビのお膝元であるスラウェシ島では圧勝を収めている。

参考文献[編集]

  • 村島・萩原・岩崎編 『ASEAN諸国の政党政治』、アジア経済研究所、1992年(ISBN 978-4258044269
  • 大形利之 「ゴルカル - スハルトと国軍のはざまで -」、安中章夫・三平則夫編『現代インドネシアの政治と経済 - スハルト政権の30年 -』、アジア経済研究所、1995年(ISBN 4-258-04454-7
  • 加納啓良 「インドネシアの官僚制 - 公務員制度を中心に -」、岩崎育夫・萩原宣之編『ASEAN諸国の官僚制』、アジア経済研究所、1996年(ISBN 978-4258044603
  • 尾村敬二編 『スハルト体制の終焉とインドネシアの新時代』、アジア経済研究所、1998年
  • 加納啓良 『インドネシア繚乱』、文春新書、2001年(ISBN 978-4166601639
  • Nishihara, Masashi, Golkar and the Indonesian Elections of 1971, Cornell Modern Indonesia Project, 1972(ISBN 978-0877630043
  • Schwarz, Adam & Jonathan Paris eds., The Politics of Post-Suharto Indonesia, Council on Foreign Relations Press, 1999(ISBN 978-0876092477
  • Schwarz, Adam, Nation in Waiting : Indonesia's Search for Stability,2nd edition, Allen&Unwin, 1999(ISBN 978-1865081793

関連項目[編集]