ゴメル (ヤペテの子)
ゴメル(ヘブライ語: גֹּמֶר、ヘブライ語ラテン翻字: Gōmer、ギリシア語: Γαμὲρ、ギリシア語ラテン翻字: Gamér)は、ヘブライ語聖書の「ノアの息子たちの系図」(創世記10章)に記された人物。ヤペテの長男であり、アシュケナズ、リファト、トガルマの父とされる。
『ユダヤ百科事典』の編纂者たちは、ゴメルを一族全体を代表する人物(エポニム)と表現している[1]。ゴメルの名は、その子孫たちの集団を象徴する名前としても扱われており、例えばエゼキエル書38章6節では、マゴグの地の首長ゴグの同盟者としてその名が登場する。
歴史学的には、ヘブライ語名の「ゴメル」はコーカサス北側のポントス・カスピ海草原に居住していたキンメリア人を指すと同定されている[2]。キンメリア人は紀元前7世紀後半にアッシリアを攻撃した集団であり、アッシリアの記録では「ギミッラーヤ」(𒆳𒄀𒂆𒀀𒀀、Gimirrāya)と呼ばれていた。キンメリア人の王テウシュパは、紀元前681年から668年の間のいずれかの時期に、アッシリア王エサルハドンによって殺害された[3][4]。
伝統的な同定
[編集]帝政ローマ期の著述家フラウィウス・ヨセフスは、ゴメルを祖とする「ゴメル人」を、アナトリアのガラティアに定住した民族と同定した[5]。ヨセフスの説によれば、かつて「ゴメル人」と呼ばれた人々こそが、後世にギリシア語で「ガラティア人」と呼ばれるようになった民族の先祖であるという。なお、ガラティアという地名は、実際にその地に定住した古代のガリア人(ケルト人)の名称に由来する。一方で、後世のキリスト教作家であるローマのヒッポリュトスは、西暦234年頃、ゴメルをガラティア人の近隣部族であるカッパドキア人の祖先とした[6]。ヒエロニムス(西暦390年頃)や、セビリャのイシドールス(西暦600年頃)は、ゴメルをガラティア人、ガリア人、ケルト人と同一視したヨセフスの説を踏襲した。
ユダヤ教の聖典タルムードのヨマ篇において、ラビたちは「ゴメル」を「ゲルマミヤ」(גרממיא)と同定している[7]。これは一般にゲルマニアを指すと解釈されており、後のユダヤ教における民族同定の伝統に影響を与えた。
ムスリムの歴史家タバリー(西暦915年頃)は、ゴメルが1000歳まで生きたというペルシアの伝承を記録している。タバリーは、この長寿の記録がニムロドの記録に並ぶものであり、トーラーに登場する他のいかなる人物よりも寿命が上回っていると記した[8]。
紀元前200年頃にゲルマニアのユトランド半島(現在のデンマーク)に定住したキンブリ族は、古くからキンメリア人、ゲルマン人、あるいはケルト人と様々に同定されてきたが、後世の一部学者はキンブリ族をウェールズ人やゴメルの末裔と結びつけた。
ゴメル、キンメリア人、およびキンブリ族をウェールズ人の自称である「カムリ」(Cymry)と同一視した最初の著述家の一人は、イギリスの好古家ウィリアム・キャムデンであった。キャムデンは1586年発行の著書『ブリタニア』でこの説を述べた[9]。1716年にはウェールズの歴史家テオフィルス・エヴァンスも、自著『古代の鏡』において、ウェールズ人がキンメリア人とゴメルの子孫であると主張し、この説は18世紀から19世紀にかけて多くの作家に支持された[10][11][注釈 1]。
しかし、この語源説は現代のケルト語学者たちによって否定されている。言語学者たちは1853年にドイツのヨハン・カスパー・ツォイスが提唱した、共通ブリソン語の *Combrogos(「同胞」の意)を「カムリ」(Cymry)の語源とする説を採用した[11][12][13]。ゴメルという名やその派生語である「ゴメラエグ」(ウェールズ語の別称)は一時期ウェールズで流行したが、ゴメル説自体は歴史的・言語学的妥当性を欠く古い仮説として既に信頼を失うに至っている[14]。
1498年、イタリアのアンニオ・ダ・ヴィテルボは、現在は偽造品と見なされている『偽ベロッソス』を出版した。この著作では、ヤペテの息子コメルス・ガルス(すなわちゴメル)が、民族分散後のニムロドの治世10年目に、コメラ(現在のイタリア)に定住したと主張された。また、『偽ベロッソス』がノアの第4の息子として紹介したトゥイストーは、ヨハネス・アヴェンティヌスなど後世の歴史家により、ゴメルの息子アシュケナズと同一視された。
ゴメルの子孫
[編集]『創世記』10章によれば、ゴメルには以下の3人の息子がいる。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ↑ なお、編集者はこれが誤った語源であると注記している。
出典
[編集]- ↑ The Jewish Encyclopedia 1906, p. 40.
- ↑ Edwards et al. 1975, p. 425.
- ↑ Barry 1994, pp. 381–382.
- ↑ Mark 2014.
- ↑ 『ユダヤ古代誌』第1巻第6章
- ↑ ヒッポリュトス『年代記』57節
- ↑ ヨマ篇10a
- ↑ Tabari.
- ↑ Camden 1610.
- ↑ Lloyd 1912, p. 191.
- 1 2 Geiriadur Prifysgol Cymru II 1987, p. 1485.
- ↑ Lloyd 1912, p. 192.
- ↑ Geiriadur Prifysgol Cymru I 1967, p. 770.
- ↑ Piggot 1968.
- ↑ Krauss 1932, pp. 423–435.
- ↑ Kriwaczek 2005.
- ↑ 『カルトリ・ツホヴレバ』
- ↑ 『アルメニアの歴史』
- ↑ Golb & Pritsak 1982.
参考文献
[編集]- Barry, Cunliffe, ed. (1994). The Oxford History of Prehistoric Europe. Oxford University Press.
- Camden, William (1610). “17, 19”. Britain, or, a Chorographicall Description of the most flourishing Kingdomes, England, Scotland, and Ireland. Vol. I. Translated by Holland, Philemon. London: George Bishop and John Norton. 2024年5月18日閲覧.
- Edwards, I. E. S.; Gadd, C. J.; Hammond, N. G. L.; Sollberger, E., eds. (1975年9月18日). The Cambridge Ancient History. Vol. II (3rd Revised ed.). Cambridge University Press. ISBN 978-0-521-08691-2.
- Golb, Norman; Pritsak, Omeljan (1982). Khazarian Hebrew Documents of the Tenth Century. Ithaca: Cornell University Press.
- Krauss, Samuel (1932). “Hashemot 'ashkenaz usefarad”. Tarbiẕ. 3.
- Kriwaczek, Paul (2005). Yiddish Civilization: The Rise and Fall of a Forgotten Nation. London: Weidenfeld & Nicolson.
- Lloyd, John Edward (1912). A History of Wales from the Earliest Times to the Edwardian Conquest (2nd ed.). London: Longmans, Green, and Co.
- Mark, Joshua J. (2014). “Esarhaddon”. Ancient History Encyclopedia. 2019年11月23日閲覧.
- Piggot, Stuart (1968). The Druids. London: Thames and Hudson.
- Tabari. Prophets and Patriarchs. 諸使徒と諸王の歴史. Vol. 2.
- “Gomer”. The Jewish Encyclopedia. Funk and Wagnalls. 1906. 2004年7月3日時点のオリジナルよりアーカイブ. 2011年5月10日閲覧.
- Geiriadur Prifysgol Cymru. Vol. I. Cardiff: University of Wales Press. 1967.
- Geiriadur Prifysgol Cymru. Vol. II. Cardiff: University of Wales Press. 1987.