ゴットフリート・フォン・アイネム

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

ゴットフリート・フォン・アイネムGottfried von Einem1918年1月24日 - 1996年7月12日)は、オーストリア作曲家

略歴[編集]

スイスベルンでオーストリア軍の駐在武官の息子として生まれた。1921年に一家はドイツシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州のマレンテに移り住んだ。その後ベルリンに行き、ボリス・ブラッハーに師事し、1938年からベルリン・フィルハーモニー管弦楽団コレペティトールとなった。ベルリン時代にヴェルナー・エックのすすめでバレエ『トゥーランドット姫』を作曲している。1944年ドレスデン歌劇場の音楽アドバイザーに就任。

作曲家として1947年ザルツブルク音楽祭で上演されたオペラダントンの死』で名声を得た。やがて1953年ウィーンに行き、1954年からウィーン国立歌劇場の芸術顧問を務めた。さらに1963年から1972年までウィーン音楽院の教授を務め、1965年から1970年までオーストリア音楽アカデミーの会長を務めた。その後は、ニーダーエスターライヒ州のヴァルトフィアテル(森林地区)で暮らした。

先妻が死去した後の1966年に劇作家のロッテ・イングリッシュと結婚し、後期のオペラの多くは彼女の台本によるものである。オーストリア社会民主党の政治家で、閣僚経験者のカスパー・アイネムは先妻との間の息子である。ナチス時代に音楽家コンラート・ラーテ(Konrad Latte)の命を救ったとされてイスラエル政府より「諸国民の中の正義の人」の称号を与えられた。

作風[編集]

典型的なウィーン保守派に属し、乾いたリズムや確固とした旋律が特徴的である。ジャズイーゴリ・ストラヴィンスキーセルゲイ・プロコフィエフの影響も受けている。初期は無調だったが、オーストリーの文化事情に合わせ、次第に調性化し、晩年は調性音楽の作曲家として認識されていた。Tierrequiem op. 104のころは和声も簡素化されていたが、表出力の強いメロディーは使い続けていた。本質的には劇音楽の作曲家であった。

作品[編集]

オペラ[編集]

バレエ[編集]

  • トゥーランドット姫
  • メドゥーサ

交響曲[編集]

文献[編集]

  • Dominik Hartmann: Gottfried von Einem. Verlag Lafite, Wien 1967 (Komponisten unserer Zeit, Bd. 11), S. 84, ISBN 978-3-85151-048-5.

エピソード[編集]

NHK教育で、1993年に同じ出版社に属するユン・イサン浅田彰を迎えて鼎談を行った事がある。この放送の2年後ユンは死去。3年後はアイネムも死去しており、二人の大作曲家の最後の意見として貴重な記録といえる。アイネムはユンの作曲態度に対しかなり強硬に抗議した。

外部リンク[編集]