コソボの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
コソボの戦い
Battle of Kosovo, Adam Stefanović, 1870.jpg
戦争:オスマン帝国のヨーロッパ侵攻
年月日:1389年6月15日
場所コソボ平原
結果:オスマン帝国の圧勝
交戦勢力
Supposed Flag of the House of Crnojevic.svg セルビア公国
Coat of arms of Kingdom of Bosnia.svg ボスニア王国
Flag of the Ottoman Empire.svg オスマン帝国
指導者・指揮官
Supposed Flag of the House of Crnojevic.svg ラザル・フレベリャノヴィチ
Coat of arms of Kingdom of Bosnia.svg トヴルトコ1世英語版
Flag of Wallachia.svg ミルチャ1世
Flag of the Ottoman Empire.svg ムラト1世
Flag of the Ottoman Empire.svg バヤズィト1世

コソボの戦いセルビア・クロアチア語: Bitka na Kosovuボスニア語: Kosovska bitkaトルコ語: I. Kosova Muharebesi)は、1389年コソボで勃発した、セルビア王国オスマン帝国による会戦である。

経過[編集]

1389年6月15日[1]コソボ平原で、セルビアラザル・フレベリャノヴィチボスニアスチェパン・トヴルトコ1世英語版ワラキア大公ミルチャ1世などからなるバルカン半島の諸侯軍が、アジアからの勢力を伸ばしつつあったムラト1世率いるオスマン帝国軍と会戦した。戦いはオスマン帝国軍の大勝に終わった。

影響[編集]

この戦いの結果、オスマン帝国はドナウ川以南の支配権を確立し、セルビア・マケドニアブルガリアはオスマン帝国への服従を強いられる。この戦いでオスマン帝国はバルカン半島征服に大きな成果を獲得した。ところが、ムラト1世はセルビア貴族ミロシュ・オビリッチ英語版[2]の謁見の際に刺し殺されてしまう。そしてオスマン軍は報復に捕虜のセルビア侯ラザルを殺害。すぐにバヤズィト1世スルタンに即位。バルカン征服事業を継承する。オスマン帝国というイスラム勢力がバルカン半島での存在感を確固たるものにしたことは、ヨーロッパ・キリスト教世界を刺激し、神聖ローマ皇帝ジギスムントをはじめとするヨーロッパ諸侯は「十字軍」を結成し1396年ニコポリスの戦いに至る。

戦地となったコソボはセルビア王国の聖地となった。のち、1980年代セルビア民族主義を掲げるミロシェヴィッチが台頭すると、コソボの自治権を大幅に制限し、クロアチアボスニア・ヘルツェゴビナなどで難民となったセルビア人を入植させる政策がとられた。このためコソボでの民族バランスが大きく崩れることとなり、1990年代後半のコソボ紛争へとつながっていった。

脚注[編集]

  1. ^ 6月28日と書かれることも多いが、これはグレゴリオ暦に換算したものである。グレゴリオ暦の施行は1582年で、コソボの戦いの時点では施行されていない。なお、6月28日はセルビア正教会の聖者ウィトゥス (en:Vidovdan) の祝日である。
  2. ^ コビリッチ、コビロヴィッチとも

関連項目[編集]