ゲルトルート・フォン・バーベンベルク (ボヘミア公妃)
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| ゲルトルート・フォン・バーベンベルク Gertrud von Babenberg | |
|---|---|
| ボヘミア公妃 | |
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| 在位 | 1140年 - 1150年 |
| 出生 |
1118年ごろ |
| 死去 |
1150年4月8日 |
| 結婚 | 1140年 |
| 配偶者 | ヴラジスラフ2世 |
| 子女 |
ベドジフ リフサ(?) スヴァトプルク ヴォイチェフ アネシュカ |
| 家名 | バーベンベルク家 |
| 父親 | オーストリア辺境伯レオポルト3世 |
| 母親 | アグネス・フォン・ヴァイプリンゲン |
ゲルトルート・フォン・バーベンベルク(Gertrud von Babenberg, 1118年ごろ - 1150年4月8日)は、バーベンベルク家出身でボヘミア公ヴラジスラフ2世の妃[1]。
生涯
[編集]ゲルトルートはオーストリア辺境伯レオポルト3世(1136年没)と、その2番目の妻アグネス・フォン・ヴァイプリンゲンの娘である。父の死後、ゲルトルートの兄レオポルト4世がオーストリア辺境伯位を継承し、1138年にボヘミア公女マリアと結婚した。マリアはゲルトルートの夫となるヴラジスラフ2世の従姉妹であった。
ゲルトルートは1140年、ボヘミア公ヴラジスラフ1世の長男ヴラジスラフ2世と結婚した。夫は叔父ソビェスラフ1世の統治下でボヘミア公国を離れていたが、ソビェスラフ1世の死後、貴族らによって呼び戻された。ゲルトルートは母を通してホーエンシュタウフェン家のドイツ王コンラート3世の異父妹にあたり、ヴラジスラフ2世にとって格好の相手であった。 1142年、又従兄弟のズノイモ公コンラート2世によるプラハ包囲の際、ゲルトルートは義弟ジェポルトの助けを借りてプラハ城を防衛することに成功した。一方、ヴラジスラフ2世はコンラート3世に援助を求めた。
ゲルトルートは夫ヴラジスラフ2世の新しい宗教施設創建計画に参加し、ゲルトルートの勧めによりヴラジスラフ2世は外国から修道院をボヘミアに招聘した。ゲルトルートは5子を産み、1150年にプラハの邸宅で30歳で亡くなった。ゲルトルートの死から8年後に、夫ヴラジスラフ2世はボヘミア王となった。
子女
[編集]脚注
[編集]- ↑ Gwatkin, Henry Melvill; Whitney, James Pounder (1926) (英語). The Cambridge Medieval History. Macmillan. p. 968
参考文献
[編集]- Žemlička, J. (2002). Čechy v době knížecí 1034–1198. Praha: NLN. ISBN 80-7106-196-4.