ゲルトルート・フォン・ザクセン (1030-1113)

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ゲルトルート・フォン・ザクセン
Gertrud von Sachsen
Portret van Geertruida van Saksen,gravin van Holland en Dirk V Gertrudis Saxonie (titel op object) Graven en gravinnen van Holland en Zeeland (serietitel) Principes Hollandiae et Zelandiae (serietitel), RP-P-1906-2536.jpg

出生 1030年ごろ
死去 1113年8月4日
配偶者 ホラント伯フロリス1世
  フランドル伯ロベール1世
子女 一覧参照
家名 ビルング家
父親 ザクセン公ベルンハルト2世
母親 アイリカ・フォン・シュヴァインフルト
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ゲルトルート・フォン・ザクセン(ドイツ語:Gertrud von Sachsen, 1030年ごろ - 1113年8月4日)は、ホラント伯フロリス1世の妃、のちフランドル伯ロベール1世の妃。また、1061年から1067年まで、幼年の息子ディルク5世のためホラントの摂政を、1086年から1093年まで夫の不在の間にフランドルの摂政をつとめた。

生涯[編集]

ゲルトルートはザクセン公ベルンハルト2世と、ハインリヒ・フォン・シュヴァインフルトの娘アイリカの間に生まれた[1]

1050年ごろ、ホラント伯フロリス1世と結婚した[2]。1061年に夫が死去したのち、息子ディルク5世がホラント伯となり[2]、ゲルトルートが摂政をつとめた。

ディルク5世がホラント伯位についたとき、ユトレヒト司教ウィレム1世はこの状況を利用して、ホラントの領地を占領した。ゲルトルートとディルク5世はフリースラントに退き、ウィレム1世は領地を占領し続けた。

1063年、ゲルトルートはフランドル伯ボードゥアン5世の次男ロベールと再婚した[3]。この結婚により、ディルク5世にスヘルデ川西岸のフリースラントを含むフランドル帝国領が領地として与えられた。

その後、夫ロベールはゲルトルートとともに幼年のディルク5世の摂政をつとめた。また、フランドル伯となったロベールが1086年から1093年までエルサレムに向かった際には、夫の留守の間フランドルの摂政もつとめた。

子女[編集]

ホラント伯フロリス1世との間に7人の子女をもうけた。

  • アルベール(1051年ごろ生) - リエージュの司祭
  • ディルク5世(1052年ごろ - 1091年) - ホラント伯
  • ピエール(1053年ごろ生) - リエージュの司祭
  • ベルタ(1055年ごろ - 1093年) - フランス王フィリップ1世と結婚[2]
  • フロリス(1055年ごろ生) - リエージュの司祭
  • マティルド(1057年ごろ生)- クロスタラート伯アダルベルト1世・フォン・サッフェンブルクと結婚
  • アデル(1061年ごろ生) - ギネ伯ボードゥアン1世と結婚

フランドル伯ロベール1世との間に5人の子女をもうけた。

脚注[編集]

  1. ^ Rider 2013, p. 65.
  2. ^ a b c Nicholas 1999, p. 117.
  3. ^ a b c d Nicholas 1999, p. 113.

参考文献[編集]

  • Nicholas, Karen S. (1999). “Countesses as Rulers in Flanders”. In Evergates, Theodore. Aristocratic Women in Medieval France. University of Pennsylvania Press 
  • Rider, Jeff (2013). “Vice, Tyranny, Violence, and the Usurpation of Flanders (1071) in Flemish Historiography from 1093 to 1294”. Violence and the Writing of History in the Medieval Francophone World. Boydell & Brewer