ゲオルギ・ディミトロフ

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ゲオルギ・ディミトロフ
Георги Димитров
Georgi Dimitrov.jpg
生年月日 (1882-06-18) 1882年6月18日
出生地 ブルガリアの旗ブルガリアコヴァチェフツィ
没年月日 (1949-07-02) 1949年7月2日(67歳没)
所属政党 ブルガリア労働者社会民主党
ブルガリア共産党

在任期間 1946年11月23日 - 1949年7月2日
共和国臨時評議会議長 ヴァシル・ペトロフ・コラロフ
共和国議会幹部会議長 ミンチョ・コレフ・ネイチェフ
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ゲオルギ・ディミトロフГеорги Димитров1882年6月18日 - 1949年7月2日)は、ブルガリアの政治家。ブルガリア人民共和国閣僚評議会議長(首相格)、コミンテルン書記長を務めた。

ゲオルギ・ディミトロフとスターリン

来歴・人物[編集]

少年時代に植字工となり、1901年、印刷工労働組合の書記に選任された。1902年、ブルガリア労働者社会民主党に入党、同党の分裂後、同党左派(のち共産党)に加わり、中央委員、1918年、政府の戦争政策に反対して運動し投獄された。1921年コミンテルン第3回大会に出席。1923年、ブルガリアの9月蜂起の指導に参加したが失敗し、国外亡命。欠席裁判で死刑判決を受ける。

亡命中、ブルガリア共産党中央委員会国外事務局委員として活動したが、1933年ベルリンで発生したドイツ国会議事堂放火事件に関与した容疑で逮捕される。裁判で検察を論破し、翌年、無罪釈放された。1935年、コミンテルン書記長となる(43年まで)。1935年、コミンテルン第7回大会で反ファシズム統一戦線戦術を提起し、採択された。しかしその後、独ソ不可侵条約締結により、スターリンの指示で反ファシズム統一戦線戦術は棚上げされた。

1945年第二次世界大戦終結後、ブルガリアに帰国し首相となったが、1949年、療養先のモスクワ近郊で死去した。

死後[編集]

遺体は保存処理され、ソフィアのゲオルギ・ディミトロフ霊廟に埋葬されたが、1990年ブルガリア共産党の下野に伴いソフィアの中央墓地に埋葬され、霊廟も1999年に撤去された。

また、2000年にはディミトロフが1933年から没する直前まで記していた日記が発見され、「The Diary of Georgi Dimitrov(ディミトロフ日記)」と題して各国語に翻訳して出版され、当時のコミンテルンの内情を記した貴重な史料となった(日本語翻訳は未刊行)。

参考文献[編集]

  • ステラ・ブラゴエワ『ゲオルギイ・ディミトロフ』1970、恒文社
  • 『ディミトロフ選集』全3巻、1972、大月書店
  • 『反ファシズム統一戦線』大月書店国民文庫(ISBN 4-272-84250-1
  • The Diary of Georgi Dimitrov, 1933-1949 (Annals of Communism)/Yale Univ Pr

外部リンク[編集]

公職
先代:
キモン・ゲオルギエフ
ブルガリアの旗 ブルガリア人民共和国
閣僚評議会議長

第2代:1946 - 1949
次代:
ヴァシル・コラロフ英語版