ケン・マスイ

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ケン・マスイ
出身地 日本の旗 日本東京都
職業 起業家
音楽プロデューサー
作曲家
作詞家
音楽ディレクター
事務所

EDGEof EDGEof Creative

Spark Neuro Spark Neuro Japan

ケン・マスイ(Ken Masui、1972年10月15日 - )は、日本起業家音楽プロデューサー作曲家作詞家クリエイティブディレクター、音楽ディレクター。2017年までラジオDJ

株式会社EDGEof(エッジ・オブ)の創業者で共同最高経営責任者。2019年にEDGEof Creative創業。

London365Artist所属(音楽プロデューサー)

経歴[編集]

東京都出身。アメリカワシントンD.C.育ち。高校は東京都昭島市にある啓明学園南山大学経営学部国際経営学科卒業。世界48カ国5大陸を旅する旅行好き。

2017年〜Mr.Childrenのミュージックディレクター兼クリエイテブディレクター、2020年リリースのアルバムSOUNDTRACKSはロンドンのプロューサーSteve Fitzmaurceとの共同プロデュース。

2008年から2014年まで烏龍舎所属、ap bank international relations。

2018年よりニューヨーク本社の脳科学マーケティング兼メディカル会社Spark Neuro の日本法人であるSpark Neuro Japan CEO。同社の投資家はPayPal創業者の一人Peter Thielや俳優のレオナルド・ディカプリオベン・アフレックウィル・スミスなどがいる。

東京都渋谷区の一般財団法人渋谷区観光教会のGlobal Business Advisorを務める。

青山学院大学国際政治経済学部の特別講師(2012年より)

国立名古屋工業大学の特別講師(11年勤め現在は任期満了)

人物[編集]

父親が国際政治記者だったため幼少期と少年時代の大半をアメリカワシントンD.C.で過ごす。幼い頃に通ったアメリカ・バージニア州の小学校にてブラスバンドの担当をしていた音楽の先生が当時無名であった世界的なブラスバンド指揮者兼作曲家のアルフレッド・リードで、その影響を受けトランペットを始める。また、幼少期からピアノを始め中学生よりドラムを演奏、高校生より大人に混じり都内のライブハウスなどで演奏をしていた傍ら、母親が代表を務める市民オーケストラにてトランペットを担当。音楽理論を学ぶ。

アメリカバージニア州マクリーンのリトルリーグ野球にてノーヒットノーランを記録し地元新聞にて報じられ、それがきっかけで上級生チームのリトルメジャーに昇格するも実力差と体格差によりシーズンをベンチで過ごしたと本人は番組で語った。また、DJ業の傍ら少年サッカーコーチのアルバイトを番組の合間に行いスクールに通っていた生徒には宮市亮と弟の宮市剛がいた。

学生時代は本人曰く苦学生で社会人前半までその環境は続いたと言っている。大学の同級生との共同住宅にはカーテンはなくタオルで凌ぎ、夏場の熱帯夜にはコンビニの冷房機の下で立ち読みをし凍える直前まで滞在後床に就くということを繰り返したエピソードを多数のメディアで語っている。次の住まいも韓国クラブの女子寮の真上で日々彼女たちの喧嘩声で怯えて暮らしていたエピソードも。

DJ業(現在引退)[編集]

大学在学中の22歳の時にカナダバンクーバーのカレッジラジオ「CITR-FM101.9」にて邦楽を紹介する番組「Get The JAY」を担当。プロとしてのキャリアをスタート。その翌年に名古屋のFMラジオ局・ZIP-FMMusic Navigator Contestで優秀賞を受賞して以来、23年間ZIP-FMでDJのキャリアを過ごす。

その間にTOKYO-FMJ-WAVEなどでもレギュラー番組を担当。ラジオデビューと同時に2番組を担当し中京テレビではTHE Hit ManのVJに異例の抜擢をされた。TBSテレビ名古屋テレビの音楽番組のMCも多数。

2008年よりap bank fesのMCとして出演。2009年はキャンプサイトのステージに、2010年はメインステージのラストにも登場した。J-WAVEのap bank fes特番も2009年と2010年に担当。外国人ミュージシャンとのインタビューも500本を越え、テイラー・スウィフトを初めてインタビューした日本人である。また、個人的に交流のあるジェイソン・ムラーズをap bank fesに初の外国人アーティストとして出演依頼をした。

音楽プロデュース・作詞[編集]

2009年

  • 大学の同級生でジャズピアニスト、後藤浩二のライブアルバム「Live at the Munetugu」をプロデュース。専門誌jazzlifeでは最高点を記録し、後藤浩二との共作、編曲の楽曲を収録。出会いは、キャンパスの水飲み場より聞こえてきた後藤の演奏するショパンノクターンを聞いてジャズ研の部室に顔を出したことがきっかけ。
  • SONY XperiaのCF曲・BRADBERRY ORCHESTRA(小林武史、大沢伸一)の「LOVE CHECK」の英語詞を担当。記者発表会及びライブMCも担当した。

2015年[編集]

2017年[編集]

  • American Idol ファイナリストでハワイ出身のシンガーAshをstarRoと共同プロデュース。「Lover Friend (feat. starRo) - single」は未だに人気のあるR&Bの曲としてコアファンに愛されている。

Mr.Children[編集]

2010年[編集]

  • 9月4日公開のMr.Childrenのドキュメント映画「Split the Difference」に出演。CDの1曲目「横断歩道を渡る人たち」の冒頭MCを務める。SENSEアリーナツアー埼玉公演では会場MCを担当。
  • 「SENSE」にて英語歌詞やタイトルのアドバイスをスタート。

2012年[編集]

2018年[編集]

  • 19枚目のオリジナルアルバム「重力と呼吸」にミュージックディレクターとしてレコーディングディレクションをした初の作品。同アルバムツアーAgainst All Gravityでは音楽ディレクター兼クリエイティブディレクター。コンサートのオープニングテーマを作曲した。
  • 「皮膚呼吸」の英語詞を担当。

2019年[編集]

  • 20枚目のオリジナルアルバム「SOUNDTRACKS」をプロデュース。ロンドンのRak Studios, ロサンゼルスのSunset Soundにてフルアナログレコーディングを敢行。レコーディングエンジニア兼プロデューサーにグラミー賞受賞者でSam SmithMary J. Bligeなどを手がけたSteve Fitzmauriceと共に全10曲を完成させた。

2022年[編集]

  • 30th Anniversary BEST ALBUM 「Mr.Children 2015-2021&NOW」にミュージックディレクターやプロデューサーとして携わった楽曲が9曲収録。

その他音楽エピソード[編集]

1997〜2000年の3年の間、仕事が少なく来日アーティストのA&Rアシスタント兼通訳として多数のアーティストを担当。

中でもフジロック初出演のThird Eye BlindDuncan SheikSpice GirlsJulian LennonEric Martinなど多数担当。

同時にCDのライナーノーツ執筆は50作品以上。

1998年に芸能人カラオケ番組「夜もヒッパレ」にてMR. BIGエリック・マーティンが出演。その際の課題曲、GLAYの「口唇」の日本語をなかなかうまく発音できないエリックが一度出演を拒否したが、ともに泊まり込み日本語詞をローマ字に直し猛特訓を行った(同番組にてエリックから紹介)。その後、「ERIC MARTIN JAPAN TOUR」に同行する程の仲になった。

2004年[編集]

  • ノラ・ジョーンズと「Down on the sofa」というZIP-FMの番組出演。タイトルソング「Down on the sofa」 をその場で作り収録。(未発表) 2008年よりap bank fesのMCとして出演。2009年はキャンプサイトのステージに、2010年はメインステージのラストにも登場した。J-WAVEのap bank fes特番も2009年と2010年に担当。後にメインステージにてMC担当。

2010年[編集]

  • DREAMS COME TRUEWINTER FANTASIA」のMCを努める。中村正人に「受けを狙え」と指示を受け、ステージに自転車で登場し菓子をバラまいたらしい。10代の頃には、ドリカムのローディーとしてバイトをしていて高校生にもかかわらずツアーも出ていた。

2013年[編集]

2014年[編集]

  • LEGO BIG MORLのPV「RAINBOW」にて英語天気ニュースキャスター役として声出演。
  • ウカスカジーアルバム「AMIGO」収録曲ウカスカアンセムオープニングMCとして声出演。同年に武道館大阪城ホールで行われたツアー「MIFA Cup」に出演。

2020年[編集]

スポーツ関連[編集]

Jリーグ[編集]

1997年より2006年までJリーグ名古屋グランパスエイトのスタジアムDJ。ドラガン・ストイコビッチの引退試合の会場MCも彼であった。2007年には横浜国際総合競技場で行われたFCバルセロナ横浜F・マリノスのスタジアムDJも担当。また、藤田俊哉の引退試合やMIFA福島復興支援マッチなど、多数の試合を担当した。

FIFA World Cup[編集]

2002年より[編集]
2006年[編集]

2010年

2014年、2018年[編集]

2015年

2016年[編集]

オリンピック[編集]

2008年[編集]
2016年[編集]
  • 日本コカコーラ社による東京五輪プレイベントOlympic Movesにて日本各地を回る。
2021年[編集]
  • 東京五輪聖火リレーのDJ演出を手掛け一部本人も担当。聖火リレーコンサート総合演出と運営も行うはずであったが、コロナによる影響で中止。

エピソード[編集]

32歳で烏龍舎にDJとして所属。後に社員となり多数の事業を担当。ap bank international relationsやkurkkuの関連事業に携わり、代々木Villageを始めレストラン開業や千葉県木更津にあるkurkku fields太陽光発電開発の責任者。孫正義による自然エネルギー財団にも参画。

烏龍舎よりMIFAへ籍を移し東京都江東区にあるMIFA Football Parkの開業を担当。三井不動産レジデンシャルとの共同事業。これを機に独立後の三井不動産との都市開発案件のきっかけとなる。

主な仕事[編集]

都市コンセプトデザイン[編集]

  • 渋谷区宮下公園MIYASHIYA PARK クリエイティブコンセプトデザイン(三井不動産と共に公募エントリー/採択後商業及びホテル施設のデザイン)

オフィスデザイン[編集]

店舗デザイン[編集]

広告[編集]

ブランディング[編集]

  • 株式会社セルソース コーポレートブランディング(2022年-)
  • 株式会社吉増製作所 コーポレートブランディング(2022年-) 傘下Chelsea International青山 店舗及びコーポレートブランディング
  • 株式会社pafin コーポレートブランディング(仮想通貨会計システム)
  • CLOUDY クリエイティブブランディング(2022年-)
  • KP Technologies コーポレートブランディング(2022年-)
  • Be-All株式会社 クリエイティブブランディング
  • fireworks studios Tokyo クリエイティブブランディング(2019年)

CCO (Chief Creative Officer)[編集]

LOGO (企業ロゴ)[編集]

  • 吉増製作所
  • 株式会社FUN Group
  • ANKER&ZIMMER
  • 株式会社pafin
  • 株式会社KENZO
  • CHANGE VISION
  • CLOUDY NPO
  • Chelsea International青山
  • fireworks studios Tokyo
  • PORSCHE Japan PCA

Websiteデザイン[編集]

出演[編集]

ラジオ番組[編集]

広告・テレビCM[編集]

執筆[編集]

雑誌コラム[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 今週はケン・マスイがナビ!石崎ひゅーいさん生MUSICLICKも!”. Tokyo United Staff Blog (2013年7月8日). 2015年2月2日閲覧。
  2. ^ お休み”. Sascha公式Blog (2014年10月23日). 2015年2月2日閲覧。

外部リンク[編集]