ケリー (駆逐艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Jump to navigation Jump to search
HMS ケリー
公試における全力航行試験中のケリー(1939年撮影)
公試における全力航行試験中のケリー
(1939年撮影)
基本情報
建造所 ホーソン・レスリー
運用者  イギリス海軍
級名 K級駆逐艦嚮導艦
艦歴
起工 1937年8月26日
進水 1938年10月25日
就役 1939年8月23日
その後 1941年5月23日に戦没。
要目
基準排水量 1,760 英トン
満載排水量 2,400 英トン
全長 356.5 ft (108.7m)
最大幅 35.8 ft (10.9m)
吃水 12 ft (3.7m)
機関 蒸気タービン、2軸推進 44,000 shp (33 MW)
最大速力 36ノット (67 km/h)
航続距離 5,500海里 (10,200 km) 15ノット(28km/h)時
1,050海里 (1,940 km) 32ノット(59km/h)時
乗員 士官、兵員183名(旗艦時218名)
兵装 45口径12cm連装砲×3基
39口径40mm4連装機銃×1基
62口径12.7mm4連装機銃×2基
53.3cm5連装魚雷発射管×2基
爆雷投射機×2基
爆雷投下軌条×1基
爆雷×20発
ソナー 124型 探信儀 (ASDIC)
その他 ペナント・ナンバー:F01 (1937–1940)、G01 (1940–1941)
テンプレートを表示

ケリー (HMS Kelly, F01) は、イギリス海軍駆逐艦K級駆逐艦の嚮導艦。艦名の由来はジョン・ドナルド・ケリー英語版海軍元帥第二次世界大戦に参加し1941年5月23日に戦没した。

艦歴[編集]

ケリーはタイン河畔ヘブバーンホーソン・レスリー社で1937年8月26日に起工、1938年10月25日に進水し1939年8月23日に就役した。就役後は艦長兼駆逐群司令(Captain (D)) ルイス・マウントバッテン大佐の指揮の下で第5駆逐群(5th Destroyer Flotilla)の旗艦として活動した。

本国海域(1939年)[編集]

1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、ケリーはウィンザー公爵公爵夫人を居住するフランスからイギリスへ帰還させた。

1939年11月5日、ケリーは航行中に悪天候のため損傷。

修理完了直後の1939年12月14日の午後、タンカーアセルテンプラーがタイン川沖合でドイツの駆逐艦によって敷設された機雷に触れた。ケリーとトライバル級駆逐艦モホークが救難タグボートグレート・エンペラー、ジョファーとラングトンを護衛して派遣された。しかし救援活動中にケリーも触雷し舷側に甚大な損傷を負う。モホークがアセルテンプラーに乗員を派遣している間、ジョファーとラングトンはアセルテンプラーを曳航し、傷ついたケリーもグレート・エンペラーに曳航されてタインに戻った。真夜中にタインへ到着する直前、タグボートのロバート・レッドヘッドとワシントンの援助を受けながら川を遡上した。ホーソン・レスリーの造船所へ修理のために曳航され、3か月超をそこで過ごした。[1]

これはケリーの二度目の不幸であり、嵐による損傷で1か月間の修理を終え復帰したばかりの出来事であった。1940年2月28日に修理が完了し復帰するが、わずか2日後の3月2日に駆逐艦グルカと衝突しまたもや損傷。その後8週間をドックで過ごした。4月27日に修理が完了した。

ノルウェーの戦い(1940年)[編集]

1940年5月、ケリーはナムソスからの撤退作戦に参加する。撤収は5月1日と2日の夜に実行する予定であったが、5月1日は濃霧のため中止となった。しかし駆逐艦マオリにはそのことが伝わらず、マオリはナムソスのあるフィヨルド入口近くの視界はおよそ2であると報告してきた。これを受けて、ケリーのマウントバッテン大佐は駆逐艦で兵員の収容を行うことを提案し許可された。ケリー、マオリのほか駆逐艦グレネードグリフィンの4隻がフィヨルド内に入ったが、結局夜明けまでに収容作業を開始できずフィヨルド外へ撤収した。この際、マオリのマストが霧の上に出てしまったためドイツ軍機の攻撃を招き、損傷したマオリは作戦から外れた。5月2日から3日にかけての夜、ナムソスからの部隊の収容が行われ、これは無事に終了したが、帰路ドイツ軍機による攻撃で駆逐艦2隻が失われた。ケリーも270名のフランス兵を乗せ、5月4日にスカパ・フローに着いた。

被雷後にタインへ戻ったケリー。

ケリーは5月5日にスカパ・フローから出港、兵員輸送船の護衛を行った後ロサイスへ移動しノア管区に編入されたが5月9日から10日にかけての夜、ケリーはドイツのSボートS31の雷撃により大破した。ケリーはグレート・エンペラーに3ノットで曳航されながら、Sボートと敵機の攻撃を耐えつつ4日後に帰還を果たした。海軍の監督官はケリーの生還について「士官と水兵たちの良き操船技術のみならず、他の区画へ浸水を広げなかった素晴らしい修理技術の成しえたものである。1本の不完全なリベットが彼女の命取りになっていたかもしれない。」と記している。[2]

ヘブバーンの造船所への帰還途上、長期修理に入る前にケリーは退役した。ケリーは1940年12月に修理が完了するまで復帰できなかった。ケリーの不幸は、直近の14か月の間でわずか2週間以下しか活動できなかった有様だった。

ケリーは1940年12月に第5駆逐群へ復帰した。修理後の公試とドーバー海峡でのいくつかの活動の後に、ケリーと第5駆逐群は地中海へ移動することになった。

地中海(1941年)[編集]

ジブラルタルにおけるケリー。1940年4月。

1941年4月、ケリーは敷設巡洋艦アブディール軽巡洋艦ダイドー、駆逐艦ジャッカルジャージーカシミールケルヴィンキプリングジブラルタルでS部隊(Force S)を編成するために合流し、地中海艦隊に加わった。(セイリエント作戦)ケリーは4月28日にマルタへ到着し、第5駆逐群の僚艦と共にK部隊(Force K)として北アフリカへ向かう敵船団攻撃に加わった。5月1日に軽巡洋艦グロスターや5隻の駆逐艦と共に敵船団の攻撃に向かうが、船団は捕捉できずに終わった。続いてケリーはMD.4作戦に参加した。これは地中海で複数の船団を運航するというものであった。5月8日、マルタ港口でジャージーが触雷沈没し艦体が港口を塞いでしまったため、駆逐群はマルタを離れてジブラルタルへ向かい、エイジャックス、ダイドー、オライオンパースと共にエジプトからマルタへの船団護衛任務に参加した。この作戦中の5月10日、ケリーと駆逐艦ケルヴィン、ジャッカルの3隻はベンガジ砲撃を行った。

1941年5月21日21時30分、ケリーを含む第5駆逐群の駆逐艦5隻はマルタを離れ、戦闘が行われているクレタ島海域へと向かった。22日16時、第5駆逐群はクレタ島沖でA1部隊と合流する。第5駆逐群は二つに分けられ、ケリーはカシミール、キプリングと共に撃沈された軽巡洋艦フィジーの生存者救助に向かった。それから、アンティキティラ島とクレタ島の間のアンティキティラ海峡を通ってクレタ島の北へ向かった。途中、キプリングが故障のため引き返した。ケリーとカシミールはカニア湾で兵員輸送船を発見し撃破した。続いて2隻はマレメを砲撃し、後退を開始した。その途中で再び敵船を発見し撃沈した。

5月23日7時55分、ケリー、カシミールと修理が終わり2隻に合流していたキプリングの3隻は、クレタ島南方で24機のJu 87急降下爆撃機による攻撃を受けた。ケリーは3機を撃墜し、もう1機に大きな損害を与え後に墜落へ追い込んだ[3] ものの、30ノットで転回中に艦中央部へ命中弾を受けわずか30秒で転覆し沈没した。またカシミールも撃沈された。ケリーとカシミールの生存者は敵機からの機銃掃射にさらされたものの、キプリングによってマウントバッテン大佐を含む279名が救助された。

ケリーの喪失に深く動揺する生存者に対して、マウントバッテン大佐は悲しみを分かち合い、彼らを慰めるべく語った。

我々がケリーから去ったのではなく、ケリーが我々から去っていったのだ!
"We didn't leave the Kelly, the Kelly left us !"
[4]

その他[編集]

  • 研究者によって意見は分かれるものの、ケリーはマウントバッテン大佐が考案したマウントバッテン・ピンクに塗られていたとされる。[8]この奇抜な塗装は、敵に襲撃されやすい薄暮や夜明けの赤い光に溶け込むことを狙ったものであった。

栄典[編集]

  • ケリーは生涯で4個の戦闘名誉章(Battle Honours)を受章した。
    Atlantic(1939)・Norway(1940)・Mediterranean(1941)・Crete(1941)

脚注[編集]

  1. ^ Hough, Richard, Bless Our Ship London: Hodder and Stoughton, 1991 978-0-340-54396-2
  2. ^ HMS Kelly (F 01) at U-boat.net
  3. ^ Air War for Yugoslavia, Greece and Crete, Shores, Cull, Malizia, p. 358
  4. ^ https://www.shieldsgazette.com/news/michael-recalls-the-loss-of-hms-kelly-1-6525552
  5. ^ 英国映画協会 BFI Film & TV Database, In Which We Serve
  6. ^ BBCニュース Prince commemorates Royal Navy crew
  7. ^ en:Navy News Sir John Proves a Tireless Supporter
  8. ^ Malcolm George Wright(2014), British and Commonwealth Warship Camouflage of WW II: Destroyers, Frigates, Sloops, Escorts, Minesweepers, Submarines, Coastal Forces and Auxiliaries:Seaforth Publishing ISBN 978-1-84832-205-9, p44

参考文献[編集]

  • Christopher Langtree, The Kelly's: British J, K and N Class Destroyers of World War II, Nval Institute Press, 2002, ISBN 1-55750-422-9
  • English, John (2001). Afridi to Nizam: British Fleet Destroyers 1937–43. Gravesend, Kent: World Ship Society. ISBN 0-905617-64-9. 
  • Friedman, Norman (2006). British Destroyers & Frigates: The Second World War and After. Annapolis, Maryland: Naval Institute Press. ISBN 1-86176-137-6. 
  • Geirr H Haarr, The Battle for Norway -April-June 1940-, Naval Institute Press, 2010, ISBN 978-1-59114-051-1
  • Haarr, Geirr H. (2009). The German Invasion of Norway, April 1940. Annapolis, Maryland: Naval Institute Press. ISBN 978-1-59114-310-9. 
  • Lenton, H. T. (1998). British & Empire Warships of the Second World War. Annapolis, Maryland: Naval Institute Press. ISBN 1-55750-048-7. 
  • March, Edgar J. (1966). British Destroyers: A History of Development, 1892–1953; Drawn by Admiralty Permission From Official Records & Returns, Ships' Covers & Building Plans. London: Seeley Service. OCLC 164893555. 
  • Rohwer, Jürgen (2005). Chronology of the War at Sea 1939–1945: The Naval History of World War Two (Third Revised ed.). Annapolis, Maryland: Naval Institute Press. ISBN 1-59114-119-2. 
  • Whitley, M. J. (1988). Destroyers of World War 2. Annapolis, Maryland: Naval Institute Press. ISBN 0-87021-326-1. 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]