ケテワン・ゲラーゼ

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エカテリーナ(ケテワン)・ゲラーゼ
Геладзе, Екатерина Георгиевна
ეკატერინე (კეკე) გელაძე
Ekaterina(Ketevan) Geladze
Ekaterina Dzhugashvili.jpg
エカテリーナ・ゲラーゼ(1892年)
生誕 1858年2月5日
ロシア帝国グルジア地方(現在のジョージア国
死没 1937年5月13日
職業 農奴
配偶者 ヴィッサリオン・ジュガシヴィリ
子供 ミハイル
ゲオルギー
ヨシフ

ケテワン・ゲオルギエヴナ・ゲラーゼロシア語: Геладзе, Екатерина Георгиевна, グルジア語: ეკატერინე (კეკე) გელაძე, ラテン文字表記の例:Ekaterina(Ketevan) Georgievna Geladze 1858年2月5日1937年5月13日) は、ソビエト連邦の政治家ヨシフ・スターリンの母親である。彼女の名前はロシア語で「エカテリーナ」。「ケケ」という愛称で呼ばれた。

生涯[編集]

1858年、当時ロシア帝国の支配下にあったグルジア(現在のジョージア国)でグルジア正教会農奴の家庭に生まれる。父親のグラフ・ゲラーゼが若くして亡くなり、一家は常に貧しかったが、母親は娘を読み書きができるようにした。エカテリーナは、16歳のときにヴィッサリオン・ジュガシヴィリと出会い、結婚。1876年に最初の子供である男児ゲオルギー、翌年に男児ミハイルを産むも早世する。1878年12月18日、3番目の子供としてヨシフを産む。エカテリーナはヨシフを「ソソ」と呼んだ。夫のヴィッサリオンは常に酒に酔っており、しばしば妻と息子を叩いた。ヴィッサリオンがエカテリーナを叩いたとき、彼女は時折反撃した。家族を残して家を出たヴィッサリオンはトビリシに移住した。

自身と息子を支えるため、エカテリーナはどんなつまらない仕事 –主に家事、裁縫、洗濯– もやった。エカテリーナはしばしばゴリに住む裕福なユダヤ人の家で働き、その家には息子のヨシフもときどき連れていった。ヨシフは利口な子供であったといわれており、ヨシフに勉強を奨励し、金と本を与えたダヴィド・ピスマメドフを含む世帯主数人を楽しませた。

エカテリーナの望みは、息子のヨシフが司祭になることであった。彼女はピスマメドフの援助により、息子の教育に必要な金をどうにか貯めた。1888年、彼女は息子をゴリの教会学校に入学させることができた。彼女の奨励により、ヨシフは16歳のときにトビリシにあるグルジア正教会の神学校の奨学金を獲得する。

後年、息子のヨシフが共産主義政権を打ち立てると、ヨシフは母を、かつてツァーリの総督が使っていたカフカース宮殿に住まわせた。エカテリーナはこの宮殿内部の小さな部屋にだけ住み、ここで頻繁に息子と息子の妻に対して手紙を書いていたといわれる。手紙はグルジア語で書き、ロシア語を学ぶことはなかった。ヨシフは、母が重い病気に罹っていた1935年まで母のもとを訪ねなかったと見られているが、母からの手紙には返事を出していた。老年期のエカテリーナを診察した医者のN・キパシーゼは、ヨシフがエカテリーナを訪れたときのことについて思い起こしている。それは、以下のようなものであった。

ヨシフは母に質問した。
ヨシフ「どうしてお母さんは僕をあんなにひどくぶったの?」
エカテリーナ「そのおかげでお前は良くなったんだよ」

エカテリーナは返答し、息子に聞き返した。
エカテリーナ「今、お前はどんな仕事をしているの?」
ヨシフ「ツァーリを覚えてる?僕はツァーリみたいな仕事をしてるんだよ」

ヨシフは返答した。これに対してエカテリーナは「お前は司祭になったほうが良かったのに」と述べた[1]

夫ヴィッサリオンがトビリシに去ってから、エカテリーナは息子のヨシフのしつけとして、言うことを聞かなければ容赦なく拳骨を向けてぶった。晩年の母を見舞った息子が「どうしてお母さんは僕をあんなにひどくぶったのですか?」と聞いたのはこのためである。この「ぶつ」というのは「育成」を意味した[2]

1937年5月13日、エカテリーナは亡くなった。

脚注[編集]

  1. ^ 『赤いツァーリ 〜スターリン、封印された生涯〜』(上)42ページ
  2. ^ 『赤いツァーリ 〜スターリン、封印された生涯〜』(上)44ページ