ケイ臧

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邢 臧(けい ぞう、499年頃 - 没年不詳)は、北魏官僚文人は子良。本貫河間郡鄚県

経歴[編集]

邢虬の長男として生まれた。幼くして父を失い、志を立てて、広く学問した。神亀年間に21歳で秀才に挙げられた。孝明帝に5カ条の策問を出されて、邢臧の解答は上位で及第し、太学博士とされた。正光年間、明堂を建立する議論が起こったとき、邢臧の意見は採用されなかったとはいえ、その見識の広さは当時の賞賛を浴びた。瀛州中従事として出向し、郷里の支持を受けた。528年永安元年)、金部郎中として洛陽に召還されたが、病のため赴けず、東牟郡太守に転出した。当時、北魏の国内は乱れており、清廉な官吏は少なかったが、邢臧はひとり法を守って身ぎれいだったため、官吏や民衆に愛された。529年(永安2年)、李延寔太傅青州刺史として出向すると、邢臧は属官として従い、楽安国内史を兼ねた。後に濮陽郡太守に任じられ、まもなく安東将軍の号を加えられた。

邢臧は甄琛のための行状の文章を書き、その巧みなことで知られた。また裴敬憲盧観兄弟と交友を結び、文集を回覧しあった。古来の文章と合わせて、その作者・氏族を明らかにすべく、『文譜』と名づけた書籍を編纂しようと企図したが、端緒に就かないうちに病死した。鎮北将軍・定州刺史の位を追贈された。は文といった。残された文筆は100篇あまりに及んだ。

子の邢恕は、北斉武平末年に尚書屯田郎となり、開皇年間に尚書侍郎となって、沂州長史として死去した。

伝記資料[編集]