クロアチアのカトリック

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スプリトにある聖ドムニウス大聖堂は世界最古の大聖堂である
シベニク聖ヤコブ大聖堂は世界遺産に登録されている。

クロアチアのカトリック教会は、全世界的なカトリック教会の一部であり、ローマにいる教皇の精神的指導下に置かれている。

クロアチアには3百80万人の洗礼を受けたカトリック教徒がいて、全人口の約85%を占める。国家的な聖地はマリヤ・ビストリツァMarija Bistrica)である。クロアチア議会Parliament of Croatia)が1687年に宣言して以来、クロアチアの守護聖人は聖ヨセフである[1]

歴史[編集]

オーストリア帝国やオーストリア・ハンガリー帝国での教会[編集]

オーストリア帝国は1855年に教皇庁との間で帝国内のカトリック教会の立場を定めたコンコルダートに調印した[2]

ユーゴスラビア王国での教会[編集]

ユーゴスラビア王国では、クロアチアの司教たちはユーゴスラビア司教協議会Bishops' Conference of Yugoslavia)の一員だった。

セルビア正教会はユーゴスラビア王国の事実上の国教として振る舞った。この頃に、一つのセルビア正教会系の教会が住民の殆どがカトリック教徒だったヴィス島に建てられ、住民の一部は正教会に改宗し始めた[3]

クロアチア独立国内での教会[編集]

1941年に、アンテ・パヴェリッチを最高指導者とする傀儡組織ウスタシャによってクロアチア独立国が建国された。クロアチア独立国は幾つか作られたナチス・ドイツ傀儡国家の一つだった。ウスタシャ体制はセルビア人(彼らは東方正教会のキリスト教徒だった)、ユダヤ人、そしてロマに対して虐殺政策を押し進めた。

クロアチア独立国の建国はローマ・カトリック教会内では多くの関係者に歓迎された[要出典]。しかしながら、クロアチアのカトリック教会の著名な人物アロイジエ・ステピナツ司教はクロアチア独立国の発展を批判する演説を行った。1942年5月24日に、ウスタシャの役人への苛立ちを強め、彼は説教を行い特定の用法で手紙を出した:

全ての人々と全ての人種は区別無しに神の子である。ジプシー、黒人、ヨーロッパ人、或いはアーリア人には平等の権利がある。この理由で、カトリック教会は常に階級、人種、ナショナリティの理論に基付いた全ての非正義や全ての暴力を非難し続けて来た。劣等人種であるとしてジプシーやユダヤ人を迫害する事は容認出来ない[4]

彼は同様に1943年2月24日にパヴェリッチ本人に直接手紙を出した:

ヤセノヴァッツ収容所は正にクロアチア独立国の汚点です、ポグラヴニク閣下! 私を司祭や司教として見る人々に私はキリストが十字架の上で述べた様に言います、父よ彼らをお許し下さい。彼らは自分達が何をしているのかを知らないのです[5]

1941年12月には、チェトニックゴラジュデ付近で五人の修道女Drina Martyrs)を殺害した。1944年10月25日にユーゴスラビアのパルティザンダクサ島Daksa (island))でペタル・ペリツァPetar Perica)とマリヤン・ブラジッチを殺害した。パルチザンは1945年1月下旬にヴルゴラツVrgorac)付近で平修士マクシミリヤン・ユルチッチを殺害した[6]

共産主義ユーゴスラビアでの教会[編集]

クロアチア人民解放国家反ファシスト委員会(ZAVNOH)は本来は同国においてより大きな宗教的自由の度合いを予見していた。1944年にZAVNOHは学校教育の場での宗教教育の可能性を開いていた[7]。この発案はユーゴスラビアの指導者ヨシップ・ブロズ・ティトーがクロアチア共産党の中央委員会書記長アンドリヤ・ヘブラング(Andrija Hebrang)を取り除いて強硬派のヴラディミル・バカリッチ(Vladimir Bakarić)を据えた後に断念された[8]

1945年に、引退したドゥブロヴニク司教 (Roman Catholic Diocese of Dubrovnik)ヨシップ・マリヤ・ツァレヴィッチ (Josip Marija Carević)がユーゴスラビア当局によって殺害された[9]ヨシップ・スレブルニッチ(Josip Srebrnič)司教は二ヶ月間収監された[10]。終戦後、ユーゴスラビアのカトリックの出版物の数は百から僅か三つまで減少した[11]

1946年には、共産主義体制は教会の登録やその他の書類を没収する『国家登録書籍法』を導入した[12]。1952年1月31日には、共産主義体制は公式に公立学校での全ての宗教教育を禁止した[13]。同年に体制はザグレブ大学(University of Zagreb)のカトリック神学部をも廃止し、それは1991年の民主化まで回復されなかった[14][15]

1984年に、カトリック教会はマリヤ・ビストリツァで国家聖体大会を開催した[16]。9月9日に開かれた中央ミサには1100人の司祭や35人の司教や大司教、5人の枢機卿を含めた40万人が参加した。ミサは初期の研究の頃からアロイジエ・ステピナツの友人だったフランツ・ケーニヒ枢機卿によって主導された。1987年にユーゴスラビア司教協議会Bishops' Conference of Yugoslavia)は政府に対し両親が子供達に宗教教育を行う権利を尊重する様呼び掛ける声明を発表した[17]

クロアチア共和国での教会[編集]

クロアチアの民主化と独立と共に、クロアチア司教協議会(Croatian Bishops' Conference)が設立された。司教協議会は1997年にクロアチア・カトリック・ラジオ(Croatian Catholic Radioを設立した[18]

聖職位階制[編集]

クロアチアでの聖職位階制は次のようになっている:

大司教区と司教区 クロアチア語の名前 (大)司教 設立 大聖堂 公式サイト
ザグレブ大司教区 Zagrebačka nadbiskupija
Archidioecesis Zagrebiensis
Josip Bozanić枢機卿 1093年 ザグレブ大聖堂 [1]
クリジェヴツィ教会管区 (ギリシア・カトリック) Križevačka biskupija Nikola Kekić 1777年 クリジェヴツィ大聖堂
ザグレブ共同大聖堂
[2]
ヴァラジュディン司教区 Varaždinska biskupija Josip Mrzljak 1997年 ヴァラジュディン大聖堂 [3]
シサク司教区 Sisačka biskupija Vlado Košić 2009年 シサク大聖堂
ビェロヴァル・クリジェヴツィ司教区 Bjelovarsko-križevačka biskupija Vjekoslav Huzjak 2009年 ビェロヴァル大聖堂
クリジェヴツィ共同大聖堂
ジャコヴォ・オシエク大司教区 Đakovačko-osiječka nadbiskupija Marin Srakić 4世紀 ジャコヴォ大聖堂 [4]
ポジェガ司教区 Požeška biskupija
Dioecesis Poseganus
Antun Škvorčević 1997年 ポジェガ大聖堂 [5]
スレム司教区 (セルビア領内にある) Srijemska biskupija Djuro Gašparović 2008年 [6]
リエカ大司教区 Riječka nadbiskupija Ivan Devčić 1920年 リエカ大聖堂 [7]
ゴスピッチ・セニ司教区 Gospićko-senjska biskupija Mile Bogović 2000年 ゴスピッチ大聖堂
セニ共同大聖堂
[8]
クルク司教区 Krčka biskupija Valter Župan 900年 クルク大聖堂 [9]
ポレッチ・プーラ司教区 Porečko-pulska biskupija Ivan Milovan 3世紀 エウフラシウス聖堂
プーラ大聖堂
[10]
スプリト・マカルスカ大司教区 Splitsko-makarska nadbiskupija Marin Barišić 3世紀 スプリト大聖堂
スプリト共同大聖堂
[11]
ドゥブロヴニク司教区 Dubrovačka biskupija 990年 使徒座空位 [12]
フヴァル司教区 Hvarska biskupija Slobodan Štambuk 12世紀 フヴァル大聖堂 [13]
コトル司教区 (モンテネグロ領内にある) Kotorska biskupija Ilija Janjić 10世紀 コトル大聖堂 [14]
シベニク司教区 Šibenska biskupija Ante Ivas 1298年 シベニク大聖堂 [15]
ザダル大司教区 Zadarska nadbiskupija Želimir Puljić 1054年 ザダル大聖堂 [16]
Military Ordinariate Vojni ordinarijat Juraj Jezerinac 1997年 [17]
スラヴォニアにあるジャコヴォのストロスマイヤー大聖堂

司教はクロアチア司教協議会に加盟しており、ジャコヴォ・オシエク大司教のマリン・スラキッチ(Marin Srakić)が議長を務めている。

クロアチアには歴史的な司教管轄区もある:

フランシスコ会[編集]

同国には3つのフランシスコ会の教会管区がある:

その他の修道会[編集]

クロアチア人の巡礼地[編集]

著名人[編集]

脚注[編集]

  1. ^ Relief of Saint Joseph placed in Parliament
  2. ^ Ljiljana Dobrovšak. Ženidbeno (bračno) pravo u 19. stoljeću u Hrvatskoj
  3. ^ History of the island of Vis
  4. ^ Apud: Dr. H. Jansen, Pius XII: chronologie van een onophoudelijk protest, 2003, p. 151
  5. ^ Alojzije Viktor Stepinac: 1896-1960
  6. ^ Partizan Jure Galić: Moji suborci pobili su 30 Vrgorčana, Slobodna Dalmacija
  7. ^ Tanner (1997), p. 164
  8. ^ Tanner (1997), p. 165
  9. ^ Religious Communities in Croatia from 1945 to 1991
  10. ^ Akmadža, Miroslav. Katolička crkva u Hrvatskoj i komunistički režim 1945 - 1966.. Rijeka: Otokar Keršovani, 2004. (pg. 69)
  11. ^ Mitja Velikonja. Religious Separation and Political Intolerance in Bosnia-Herzegovina. Texas A&M University Press, 2003. (p. 200)
  12. ^ Miroslav Akmadža. Oduzimanje crkvenih matičnih knjiga u Hrvatskoj u vrijeme komunizma
  13. ^ Akmadža, Miroslav. Katolička crkva u Hrvatskoj i komunistički režim 1945-1966.. Biblioteka Svjedočansta. Rijeka, 2004. (pg. 93)
  14. ^ Goldstein, Ivo. Croatia: A History . McGill Queen's University Press, 1999. (pg. 169)
  15. ^ Catholic Faculty of Theology History
  16. ^ How Gospa destroyed the SFRY, Globus
  17. ^ Sabrina P. Ramet. Catholicism and politics in communist societies. Duke University Press, 1990. (p. 194)
  18. ^ Hrvatski katolički radio u povodu 10. obljetnice emitiranja, Glas Koncila
  • Tanner, Marcus (1997). Croatia: A Nation Forged in War. Yale University Press. ISBN 0-300-07668-1 

外部リンク[編集]