クリスチャン・ホーナー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
クリスチャン・ホーナー

クリスチャン・ホーナー(Christian Horner OBE, 1973年11月16日 - )は、イギリスレミントンスパ出身の元レーシングドライバーである。

自動車レースのGP2シリーズに参戦しているアーデン・モータースポーツの創設者であり、チーム代表だったが、2005年からF1レッドブル・レーシングのチーム代表も兼務している。

経歴[編集]

ドライバー時代[編集]

ホーナーが駆るADRF3マシン。
1995年シルバーストン

1994年にフォルテックチームからイギリスF3に参戦し、翌年はADRチームから参戦。1996年にはトムスチームに移籍し、同時にイギリスF2でも走った。

イギリスのF2選手権が1996年をもって終了となったため、1997年には国際F3000に移行し、同時に23歳で自身をオーナードライバーとするアーデン・インターナショナルを設立した。1998年には、クルト・モレケンスとのコンビで臨んだが、この年にはドライバーとしての自身の能力に見切りをつけ、ドライバーとして走るよりチーム運営に徹すべきだと判断し、ドライバーとしての引退を決断した。

アーデン時代[編集]

1999年、25歳のホーナーはチーム代表としての立場で国際F3000への参戦を続け、この年はビクトール・マスロフ、マーク・フーセンス、後年にダレン・マニングを擁して数シーズンを戦った。

国際F3000ではなかなか目が出ず、初優勝は遠かったが、ドライバーをマスロフとマニングのラインナップからトーマス・エンゲビヨン・ビルドハイムに一新した2002年に状況は一変し、エンゲはポイントランキング1位でシーズンを終えた。しかし、エンゲが薬物検査にひっかかりシリーズランキング3位に降格となったことで、その年のチャンピオンはセバスチャン・ボーデスーパーノヴァ)のものとなった。

2003年、ビルドハイムは残留したが、チームに汚名を負わせる形となったエンゲは放出され、代わってタウンゼント・ベルを起用した。この年はビルドハイムが見事に期待にこたえ、2位のリカルド・スペラフィコに35ポイントもの大差をつけて、シリーズチャンピオンを獲得した。

国際F3000最後の年となった2004年は、アーデンにとって、まさに栄光の年となった。ヴィタントニオ・リウッツィはシーズンを席捲し、チームメイトのロバート・ドーンボスとあわせ、ドライバーズタイトルだけでなく、チームとしての年間獲得ポイントでも、他を大きく引き離した圧勝を遂げた。

レッドブル[編集]

それまでアーデンのスポンサーを務めていたレッドブルが、F1進出にあたってそのチーム代表の座を依頼してきたため、その申し出を受け入れ、以後はレッドブルのチーム代表の任にあたるようになり、現在もその地位にある。

エピソード・人物[編集]

2010年カナダGPにて。チームブースで語り合うホーナー。
  • 国際中継でレッドブルのチーム首脳陣の司令塔が映し出されると、しばしばホーナーの足元にカメラが向けられる。その理由はホーナーの癖である「貧乏揺すり」が起因しており、特に同チームが絡む非常にエキサイティングなグランプリになると、その脚の動きも非常に活発になる。この話題は日本だけではなく世界的にもしばしば語られ、インターネット上の様々な箇所でホーナーの貧乏揺すりに対するコメントが見受けられる[1]。また、ホーナーがレッドブルのチーム代表を務めて最初のワールドチャンピオンドライバーとなったセバスチャン・ベッテルも、自身がチャンピオンを獲得したアブダビGPの映像を見直した際「最後15周、スタッフ達がすごく緊張してたり、ホーナーが貧乏揺すりをしていたりして、すごく変な感じだった。」と述べており、在籍するドライバーもホーナーに貧乏揺すりの癖があることを認めている[2]
  • 2006年モナコグランプリでは「表彰台を獲得したら、レッドブルのモーターホーム屋上にあるプールに全裸で飛び込む」と宣言。デビッド・クルサードが3位になったため、レース後チームスタッフの前で実行した。ただし、このレースのスポットスポンサーである映画『スーパーマン リターンズ』にちなんで、赤いマントを羽織っていた[3]
  • 2013年、大英帝国勲章第4位(OBE)を授与される[4]
  • 2014年、元スパイス・ガールズジェリ・ハリウェルとの婚約を発表[5]

脚注[編集]