クリスチャン・サートマン

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クリスチャン・サートマン
(画)ヴィルヘルム・ハンマースホイ

クリスチャン・サートマン(Kristian Zahrtmann、1843年3月31日 - 1917年6月22日)は19世紀の末のデンマークの画家である。17世紀のデンマークの王女、レオノーラ・クリスティーナといった、デンマークの歴史における悲劇的な女性を描いた作品で知られる。デンマーク王立美術院の伝統的な思想に対抗して1886年に創立された新しい美術学校「Kunstnernes Frie Studieskoler」の教授に任じられ、デンマーク美術の新しい時代を担う1人となった。

略歴[編集]

ボーンホルム島、ラネ(Rønne)の医師の家に生まれた。ラネの学校を卒業した後、ソーレのソーレ・アカデミアに入学し、Johannes Georg Smith Harderに絵を学んだ。アカデミーの校長の詩人Bernhard Severin Ingemannの自宅に招かれ、詩人のハンス・クリスチャン・アンデルセンらに紹介された。1862年に卒業した後、コペンハーゲンに出て、1863年から1864年の冬はTechnical Instituteで Christian Hetschや建築家のFerdinand Vihelm Jensenに学び、同時に画家のトーヌア(Wenzel Urlich Tornøe)の個人教授を受けた後、1864年からデンマーク王立美術院で、キッテンドルフ(Johan Adolph Kittendorff)、マーストランローズ、シモンセン(Niels Simonsen)、 フェアミーアン(Frederik Vermehren)に学んだ。同じ頃王立美術院にはイェアンドーフ(August Jerndorff)、P.S.クロイヤー、ヘンドレクスン(Rasmus Frederik Hendriksen)がいた。

1868年に王立美術院を卒業し、翌年シャルロッテンボー宮殿で開かれる展覧会に初めて出展した後、1891年まで継続的に出展した、

1871年からクリスチャン4世の娘で夫の反逆のために20年以上投獄された悲劇の女性、レオノラ・クリスティーナを題材にした歴史画で人気になり、賞も受賞して、一連のレオノラ・クリスティーナを題材にした作品を発表した。

1875年12月王立美術院の奨学金で、イタリアを旅し1878年まで滞在した。1880年代にも何度かイタリアを訪れ、あまり知られていないアブルッツォを訪れ、1890年に小さな山間の町、チヴィタ・ダンティノに夏の別荘を作り、毎年訪れるようになった。多くのデンマークの芸術家を招き、芸術家村のようになり、サートマンは1902年に名誉市民の称号を得た。

王立美術院の伝統的な教授方針に対抗して、ラウリツ・トゥクセンらによって、新しい美術学校「Kunstnernes Frie Studieskoler」(芸術家自由スタジオ学校)は1882年の末に設立され、P.S.クロイヤーらが教授を務めた。サートマンは1885年から1908年まで教え、1893年に予備クラスの校長となり、予備クラスは「サートマン学校」と呼ばれるようになり、多くの画家を指導した。

作品[編集]

「ライムを運ぶ少女」 
「囚われのレオノーラ・クリスティーナ」, 1875 
「フレデリクスボー城庭園のレオノーラ・クリスティーナ」, 1887 
「幽閉される塔のレオノーラ・クリスティーナ」 
「レオノーラ・クリスティーナの死」, 1901 
「フレゼリク3世王妃ゾフィーの死」, 1882 
"Jubal and family" 
クリスチャン7世の宮廷 
「台所の階段」 

参考文献[編集]