クヌート1世 (イングランド王)

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クヌート1世 / クヌーズ2世
Canute / Cnut / Knut I
Knud 2.
イングランド王
デンマーク王
ノルウェー王
Knut der Große cropped.jpg
在位 イングランド王:1016年 - 1035年
デンマーク王:1018年 - 1035年
ノルウェー王:1028/30年 - 1035年

出生 990年
死去 1035年11月12日
イングランド王国の旗 イングランド王国ドーセット、シャフツベリー
埋葬 イングランド王国の旗 イングランド王国ウィンチェスター、オールド・ミンスター
配偶者 エルギフ・オブ・ノーサンプトン
  エマ・オブ・ノーマンディー
子女 スヴェン
ハロルド1世
ハーデクヌーズ
グンヒルダ
家名 ゴーム家
王朝 イェリング朝
父親 スヴェン1世
母親 グンヒルド
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クヌート1世古英語:Cnut cyning、古ノルド語:Knútr inn ríki、英語:Canute / Cnut[注 1]990年頃 - 1035年11月12日)は、ノルマンデーン人で、イングランド王デンマーク王ノルウェー王を兼ねた王(イングランド王在位:1016年 - 1035年、デンマーク王在位:1018年 - 1035年、ノルウェー王在位:1028年1030年説あり〉 - 1035年)。デンマーク王としてはクヌーズ2世カヌートクヌットなどとも。大王(英語:the Great、デンマーク語:den Store)と称される。

クヌートのイングランド統治は、グレートブリテン島アイルランド島の間の海域への重要な結び付きをデーン人に与えた。彼は父親のスヴェン1世と同様にその地域へ強い関心を持ち、ノース系ゲール人英語版に大きな影響力を及ぼした[1]1026年にノルウェーとスウェーデンを打ち破った後、神聖ローマ皇帝の戴冠式英語版に出席してローマから帰る途上にて援助のために臣下へ書かれた書簡の中で、クヌートは自身を「イングランド・デンマーク・ノルウェーの全土、そしてスウェーデンの一部の王」 だと考えていた[2]。アングロ・サクソンの王らは 「イングランド人の王(king of the English)」 という称号を用いたが、クヌートはealles Engla landes cynning——「全イングランドの王(king of all England)」 であった。中世歴史家ノーマン・カンター英語版は彼を 「アングロ・サクソン史において最も印象的な王」 と見なした[3]

人物略歴[編集]

デンマーク王スヴェン1世の子。 母はスラヴ人レフ族(ポラニェ族)の族長でポーランド統一者であるミェシュコ1世の娘シフィエントスワヴァ[4][5][6](嫁ぎ先で王妃グンヒルドと呼ばれた)。同じくミェシュコ1世の子であるポーランド国王ボレスワフ1世(勇敢王)は叔父にあたる。ただし、『ヘイムスクリングラ[7]、『クニートリンガ・サガ英語版』によれば、母はヴェンドの王ブリスラヴの娘のグンヒルド(en)とされている[注 2]

父スヴェンおよび叔父ボレスワフ1世配下のポーランド諸侯と共にイングランドに侵攻して活躍した。1014年、父が戦死した後、その後を継いで戦い続けて勢力を拡大した。それをもって1016年、アングロ・サクソン封建家臣団の会議でイングランド王に推挙され、即位することとなった。1018年には兄ハーラル2世の死によりデンマーク王位を継承した。彼は富と慣習の文化的結束の下でデーン人とイングランド人をまとめることにより、また残虐行為によりこの権力基盤を維持しようと努めた。その後はノルウェースウェーデンに遠征して勢力を拡大した。スカンディナヴィアにおける敵対勢力との10年にわたる対立の末、彼は1028年のトロンハイムにてノルウェー王位も兼ねることとなり、3国の王位を兼ねて「大王」と称された。ここに、広大な北海帝国を築き上げたのである。

スウェーデンの都市シグトゥーナはクヌートによって支配された[注 3][8]1031年にはスコットランド王国マルカム2世も彼に服従したが、その地に対する北海帝国の影響力は弱く、結局クヌートの死亡時までは支配が続かなかった[9][10]。1035年に40歳で死去すると後継者争いが起き、北海帝国はクヌートの死後わずか7年で崩壊した。

生誕と王位[編集]

クヌートはハーラル1世の跡継ぎであるデンマークのスヴェン1世の息子であったため、デンマーク統一の中心となるスカンディナヴィア君主の血統を由来とす[11]。彼の生誕地および生年月日については定かではない。

1031年のLiber Vitaeに描かれたクヌートの肖像画

メールゼブルクのティートマール英語版による年代記と『王妃エンマ讃英語版』は、クヌートの母親がポーランドのミェシュコ1世の娘であったと伝えている。最も有名な中世盛期のノース人史料であるスノッリ・ストゥルルソンの『ヘイムスリングラ』も、クヌートの母をグンヒルド・オブ・ヴェンデン英語版と呼ばれたヴェンド人の王ブリスラヴの娘(ポーランドの王女)だと記している[12]。ノース人のサガにおけるヴェンド人の王は常にブリスラヴであるため、これは彼女の父がミェシュコ(彼の息子のボレスワフではない)であったという仮定と矛盾しない。『ハンブルク教会司行録英語版』におけるブレーメンのアダムはクヌートの母親を、スウェーデンの前女王でありエリク6世の妻、そしてこの結婚によりオーロフの母親と同一視する点で独特である[15]。この問題を複雑にしているのは、『ヘイムスリングラ』や他のサガなどもスヴェン1世をエリクの未亡人と結婚させているが、これらの史料における彼女はシーグリッド英語版という明らかな別人という点であり、スヴェンはクヌートを産んだスラヴ人の王女グンヒルドの死後にのみ彼女と結婚した[16]。クヌートの少年時代の手掛かりは13世紀の史料『フラート島本』に見られ、彼の兵法についてはシグヴァルディの兄弟かつ伝説上のヨムスボルグ伯爵であったのっぽのトルケル[17]およびヨムスヴァイキングによって、ポメラニア沖のヴォリン島にある彼らの本拠地にて教えを受けたとされる。

13世紀の『クニートリンガ・サガ』には、次のようなクヌートの描写が見受けられる。

クヌートは例外的に高身長で強く、薄く高めに位置しておりやや鉤鼻であったことを除けば、美しい顔立ちであった。色白の顔でもなお、頭髪は美しく濃かった。彼の目つきは、端正な者や鋭い者など他の者らよりも気丈であった。
『クニートリンガ・サガ』より[18][19]

1013年の夏に彼の父スヴェン王によるイングランド侵攻の際、隷下のスカンディナヴィアの部隊に加わった時点まではクヌートの生涯についてほとんど知られていなかった。それは何十年にもわたって繰り広げられ続いたヴァイキングの襲撃が最高潮を迎えた時期でもあった。ハンバー川に上陸後[20]、イングランド王国は急速にヴァイキングの手に落ちていき、その年末ごろにエゼルレッド2世はイングランドを占拠したスヴェンを残しノルマンディーへ逃れた。その冬のスヴェンは自らの王権を強化する過程にあり、クヌートは艦隊ゲインズバラ英語版の軍事拠点の管理を任された。

数ヵ月後の聖燭祭の日(1014年2月3日日曜日)にスヴェンが死去すると[21]、クヌートの兄ハーラル2世がデンマーク王としてスヴェンの後を継いだ一方、ヴァイキングやデーンロウの民衆らも間もなくクヌートをイングランド王として選出した[22]。しかし、イングランド貴族の考えはそれらとは異なっており、賢人会議はエゼルレッドをノルマンディーから呼び戻した。復位した王は直ちに軍を率いてクヌートに対抗した。クヌートは自軍とともにデンマークへ逃れる道中、人質の手足を切断してサンドウィッチの浜辺に置き去りにした[23]。クヌートはハーラルのもとへ向かい、彼らが共同の王位を有する可能性があるとおそらく提案したようだが、これが兄の好意的な姿勢を得ることはなかった[22]。ハーラルはイングランド再侵攻の指揮権をクヌートに与えたと考えられているが、その条件として彼がその主張を強要し続けないこととした[22]。いずれにせよ、クヌートは大規模な艦隊を招集して新たな侵略の開始に成功した[23]

イングランド征服[編集]

エドマンド2世(左)とクヌート1世(右)が描かれた中世の彩飾。マシュー・パリス英語版の『大年代記英語版(Chronica Majora)』より

デンマークの同盟国の中には、ポーランド公(後に王位についた)でありデンマーク王家の親戚ボレスワフ1世がいた。彼はポーランド軍の一部を貸与したが[24]、これはその冬にクヌートとハーラルが母親のグンヒルドをデンマークの法廷に連れ帰るため「ヴェンド人の地へ入った」という約束であったとされる。995年のエリク6世の死およびスウェーデンの王太妃シーグリッドとのスヴェンの結婚後、グンヒルドはスヴェンに追い出されていた。この結婚は、スウェーデンの王位継承者であるオーロフと、彼の姻戚であるデンマーク君主らとの間に強力な同盟関係を形成した[24]。スウェーデン人は確かにイングランド征服の協力者であった。デンマーク王家のもう1人の姻戚エイリーク・ハーコナルソンラーデのヤールであり、弟のスヴェイン・ハーコンソン英語版とともにノルウェーの共同統治者であった。ノルウェーは999年スヴォルドの海戦以来、デンマークの主権下にあった。エイリークがこの征服戦争に参加したことで、彼の息子ハーコンがスヴェインとともにノルウェー統治を任された。

1015年の夏、クヌート艦隊は推定1万人のデンマーク軍と共に200隻の艦船でイングランドに向け出航した。彼はスカンディナヴィア中のヴァイキング軍団の指揮官であった。侵攻軍はその後14ヵ月間、イングランド軍としばし凄惨な接戦を繰り広げた。実質的にすべての戦闘は、エゼルレッドの長男エドマンド2世とのものであった。

ノルウェーおよびスウェーデン王[編集]

1027年のクヌートの書簡にて、彼は「ノルウェー人、そして一部のスウェーデン人」の王として自らについて言及している。クヌートはスカンディナヴィア諸王国の平和を保障すべくデンマークへ向かう意図について述べており、これは1027年のクヌートが一部のノルウェー人が不満を持っていると聞き、彼の王位の主張への支持を得るため彼らに金銀を送ったというウースターのジョン英語版の記述と一致する[2]

1028年、彼がデンマーク経由でローマから帰国すると、イングランドからノルウェーのトロンハイムに向け、50隻の艦隊を率いて発った[2][25]。魔術のために貴族らの妻を鞭で打つというオーラヴ2世の趣向ゆえ彼らは国王に反発し、彼はいかなる抵抗もできずに身を退いた[26]。こうしてクヌートは現在のデンマーク、イングランド、ノルウェー、そしてスウェーデンの一部の王となった[24]

独立したノルウェーの王たちを敵視してきた長い伝統を持つ一族の一員であり、クヌートの親戚でもあるハーコン・エリクソン英語版は、1016年から1017年にかけてすでに島々やウスター伯領の領主となっていたとされる。アイリッシュ海、およびオークニー諸島やノルウェーへつながるヘブリディーズ諸島シーレーンは、スカンディナヴィア半島ブリテン諸島の支配を得るというクヌートの野心の中枢であった。ハーコンはこの戦略的な鎖におけるクヌートの副官となり、1028年のオーラヴ追放後の最後の構成要素は、ノルウェーにて彼が国王代理として任命されたことであった。しかし不運なことに、1029年末あるいは1030年初頭、彼はペントランド海峡にて船が沈没したことで溺死した[27]

ハーコンの死後、オーラヴはスウェーデン人を従えた軍勢とともにノルウェーへ戻ったが、スティクレスタドの戦い英語版にてクヌートと手を結んだノルウェー豪族に敗れ戦死した[28]。エルギフとその長男スヴェインを通じた、ラーデのヤールの支援を欠いた状態でのクヌートによるノルウェー支配の次なる目論見は失敗した。ノルウェーにおいてその時期は、重税と反乱、そして前王オーラヴの非嫡出子であったマグヌス1世の王朝(ホールファグレ朝)復古という「エルギフの時代(Aelfgifu's Time)」として知られている。

クヌートの死と後継[編集]

クヌートは1035年11月12日に死去した。デンマークではハーデクヌーズが後を継いでクヌート3世として支配したが、スカンディナヴィアにてノルウェーのマグヌス1世と交戦中でありながら、ハーデクヌーズは「デンマークに長く滞在しすぎたためイングランド人に見捨てられた」[29]。その後ウェセックス家が再び君臨するようになったのは、エドワード懺悔王がノルマンディーに亡命していたところを連れ出され、彼の異母兄弟であるハーデクヌーズと条約を結んだためである[30]

クヌートの息子たちが彼の死から10年以内に死亡していなければ、また、彼の死の8ヵ月後にコンラート2世の息子ハインリヒ3世と結婚することになっていた彼の唯一の娘グンヒルダが、皇后になる前にイタリアで死亡していなければ[31]、クヌートの治世はイングランド・スカンディナヴィア間の完全な政治連合、そして神聖ローマ帝国と血縁関係のある北海帝国の基礎となっていたかもしれない[32]

ウィンチェスターの遺骨[編集]

クヌートは現在のドーセット州シャフツベリー英語版にて死亡し、オールド・ミンスター英語版に埋葬された。1066年ノルマン・コンクエストを契機に、ノルマンディーの新政権中世盛期の壮大な大聖堂の野心的な計画を立て、その到来を知らせようとしていた。ウィンチェスター大聖堂はアングロ・サクソンの跡地に建設され、クヌートの遺品を含む以前の埋葬品はそこの安置箱に納められた。17世紀イングランド内戦時には、円頂党の略奪兵らがクヌートの骨を床に撒き散らしたため、ウィリアム2世の箱をはじめとする他の様々な箱のなかに散逸してしまった。イングランド王政復古の後、他の骨と多少混ざってしまったものの骨は集められて箱の中に戻された[33]

クヌートと波の説話[編集]

クヌートと波の説話(英語:King Canute and the tide)とは、12世紀歴史家であるヘンリー・オブ・ハンティングドンによって記された、クヌートの信心または謙遜に関する創作された逸話である。

彼は世辞を述べる臣下らに対して自然の力(迫り来る潮汐)をコントロールできないことを明示し、世俗的な力は全能の力の前では無力だと説明している。この逸話は、避けられない出来事の「潮流を止めようとすること」の無益さを指摘する文脈にて頻繁に暗示されているが、大抵の場合はクヌートが超自然的な力を持つと自ら信じていると偽って伝えられており、ハンティングドンの話と実際には逆のことを物語っている。

逸話[編集]

アルフォンス・ド・ヌヴィルによる絵画Canute Rebukes His Courtiers

ハンティングドンは、クヌートの「優美で高尚な」行動の3つの例のうちの1つとしてこの物語を語っており(戦場での勇敢な行動は除く)[注 4] 、他の2つは後の神聖ローマ皇帝と娘との結婚を手配したこと、そして1027年の皇帝戴冠式に際したローマへのガリア横断道路(アルル王国)の通行料引き下げ交渉である。

ハンティングドンの記述では、クヌートは海岸に玉座を置き、潮に対して彼の足と衣を濡らさないよう命じたという。しかし、「常のごとく上昇し続ける潮は、王であるその方に敬意を払わず御御足に塩水を浴びせた。そして王は後ろに跳び退きこう仰った。『すべての者に王の力がいかに無力で無価値であるかを知らしめよ。天と地と海が不変の法則に従う神をおいて、その名に相応しい者は誰もいないからだ』」。彼は十字架像に自らの金の王冠を掛け、「全能の王たる神の敬意に対して」二度とそれを被ることはなかった[34]

後世の歴史家らはこの説話を繰り返し伝え、彼らの多くはクヌートに潮汐が従わないことをより明確に認識させるよう脚色し、彼の臣下らの世辞を訓戒するためにその場面を演出した。潮に命じた者ら、すなわちグラモーガン英語版聖イルトゥード英語版グゥイネッズ王国英語版の王マエルグン英語版ブルターニュのトゥイルベ(Tuirbe)などのケルト人の説話においても草創期の類似点がみられる[35]

諺に用いられる言及[編集]

現代のジャーナリズムまたは政治学におけるこの伝説へのよく知られた言及は大抵、「潮を止めようとすること」の「クヌートの傲慢さ」という観点から説話を引用する。しかし用法については、エコノミスト誌のスタイルガイドに次のようにある。

海辺でのクヌートの実演は、彼は真実であると知っていたが臣下が疑っていたこと、すなわち彼が全能ではないことを彼らに納得させるために計画された。彼が足を濡らし驚いたと仄かしてはならない
[36]

この説話は例えば、2005年ハリケーン・カトリーナへのニューオーリンズ市議会の対応を象徴するものとしてスタシー・ヘッド英語版によって、また、2011年英国のプライバシー差し止め論争英語版において、インターネット上の「止むことのない情報の流れ」を止めようとしたライアン・ギグスの試みについて「フットボール界のクヌート王」として彼に言及したマーク・ステファンズ英語版などによって引用された。これらやその他多くの通俗的説明は、クヌートがまさにそうした自然の力を操れないことと、神のより大きな権威への敬意を示すために潮汐を利用したというハンティングドンの記述を誤って伝えたものである[37]

第15代アメリカ合衆国最高裁判所長官ウォーレン・バーガー英語版は、1980年チャクラバティ判決英語版(447 U.S. 303)においてクヌートに言及し、微生物は「遺伝子研究に終止符を打つことはできないだろう」と特許の否認を述べた[38]。バーガーはこれを、潮汐に命じるクヌートになぞらえている。

史実性と想定される場所[編集]

ジョセフ・クロンヘイム英語版による19世紀の絵画。

当時の『王妃エンマ讃』には波の説話への言及がなく、この史料が「ローマに向かう途上にて、サントメールの僧院と貧者へのクヌートの惜しみない贈り物と、それに伴う涙と大袈裟な目撃談」を伝えているため、そこには非常に敬虔な献身が記録されたのではないかと見られることなどから、これは歴史的ではないことを示しているとされる[疑問点][39]

11世紀の聖人伝作家ゴスリン英語版は後にそれどころか、クヌートはウィンチェスターのある復活祭にて十字架の上に王冠を掛けたものの、海辺での実演や「イエスは彼よりもそれに相応しいと説明して」といった言及はなかったとしている。しかしこの話の裏には、「計画された敬虔な行為における事実の元」がある可能性を含む[39]

一方、オックスフォード大学マルコルム・ガッデン英語版教授は説話を単に「それは12世紀の伝説であり、(中略)そして当時の歴史家らは、アングロ・サクソン時代の王に関する話を常にでっち上げていた。」としている[37]

説話の場所については、ロンドンの統治期にクヌートが王宮を建て、現在はウェストミンスターとして知られるソルニー島英語版と同一視されることもある[40][41] 。それと矛盾して、サウサンプトン中心部のクヌート街(Canute Road)の標識には「西暦1028年のこの付近にて、クヌートは彼の臣下を窘めた」とある[42][43]ウェスト・サセックスボシャム英語版リンカンシャーのゲインズバラなどもその可能性として挙げられている。ゲインズバラは内陸部にあるため、説話が事実であればクヌートはトレントの海嘯英語版として知られる海嘯を押し戻そうとしたことになる。もうひとつの言い伝えによれば、当時マーシア王国の一部であったウィラル半島の北岸だとしている[44]

結婚と子女[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ デンマーク語:Knud den Store / Knud II、ノルウェー語:Knut den mektige、スウェーデン語:Knut den Store
  2. ^ クヌートの母親については歴史学の議論対象となっている。彼女をGunnhildaとする史料がある一方、その存在が疑わしい、あるいは彼女に名前を付けるための充分な証拠がないとする史料もある。
  3. ^ クヌートはそこで彼を王と呼ぶ硬貨を鋳造させたが、彼の侵略についての物語の記録はない。
  4. ^ Enimvero extra numerum bellorum, quibus maxime splenduit, tria gessit eleganter & magnifice

出典[編集]

  1. ^ Forte, Oram & Pedersen 2005, p. 196.
  2. ^ a b c Lawson 2004, p. 97.
  3. ^ Cantor, Norman (1995). The Civilisation of the Middle Ages. p. 166 
  4. ^ Encomiast. Encomium Emmae. ii. p. 18 
  5. ^ Thietmar. Chronicon. vii. pp. 446-447 
  6. ^ Trow, p. 40, Cnut .
  7. ^ ストゥルルソン 2009, p. 65.
  8. ^ Graslund, B. (1986). “Knut den store och sveariket: Slaget vid Helgea i ny belysning”. Scandia 52: 211-38. 
  9. ^ Trow, pp. 197-198, Cnut.
  10. ^ ASC, Ms. D, s.a. 1031.
  11. ^ Trow, pp. 30-31, Cnut.
  12. ^ Snorri. “34”. Heimskringla'. p. 141 
  13. ^ Adam of Bremen. “37”. History of the Archbishops of Hamburg-Bremen. Book II 
  14. ^ Adam of Bremen, ch. 33, Scholion 25.
  15. ^ Adam of Bremen [13]; Book IIも[14].
  16. ^ Snorri. “91”. Heimskringla. p. 184 
  17. ^ Trow, p. 44, Cnut.
  18. ^ Trow, p. 92, Cnut.
  19. ^ John, H. (1995). The Penguin Historical Atlas of the Vikings. Penguin. p. 122 
  20. ^ Ellis. Celt & Saxon. p. 182 
  21. ^ William of Malms. Gesta Regnum Anglorum. pp. 308-310 
  22. ^ a b c Sawyer. History of the Vikings. p. 171 
  23. ^ a b Lawson 2004, p. 27.
  24. ^ a b c Lawson 2004, p. 49.
  25. ^ Trow, p. 197, Cnut.
  26. ^ Adam of Bremen. Gesta Daenorum. ii. 61. p. 120. 
  27. ^ Forte, Oram & Pedersen 2005, pp. 196-197.
  28. ^ 熊野 1998, p. 48.
  29. ^ The Anglo-Saxon Chronicle
  30. ^ Reed 2015, p. 31.
  31. ^ Lawson 2004, pp. 98, 104–105.
  32. ^ Lawson 2004, p. 195.
  33. ^ Photo of a sign posted in Winchester Cathedral marking Cnut's mortuary chest, posted at the astoft.co.uk web site, retrieved 2009-07-25”. 2020年12月3日閲覧。
  34. ^ Henry of Huntingdon. The Chronicle. p. 199 
  35. ^ Somerset, FitzRoy, 4th Baron Raglan (January 1960). “Cnut and the Waves”. Man 60: 7-8. JSTOR 2797899. https://www.jstor.org/stable/2797899. 
  36. ^ Style Guide (9th ed.). The Economist . pp. 22. ISBN 978-1-86197-916-2 
  37. ^ a b “Is King Canute misunderstood?”. BBC News. (2011年5月26日). https://www.bbc.co.uk/news/magazine-13524677 2021年1月7日閲覧。 
  38. ^ Diamond V. Chakrabarty | Findlaw”. Caselaw.findlaw.com. 2016年11月25日閲覧。
  39. ^ a b Lawson 2004, p. 125.
  40. ^ The Palace of Westminster Factsheet G11, General Series, Revised March 2008
  41. ^ Parliament of the United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland. Living Heritage. History of the Parliamentary Estate: Anglo-Saxon origins.
  42. ^ Canute Castle Hotel”. Archaeological Sites. Southampton City Council (2001年1月). 2012年4月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年3月21日閲覧。
  43. ^ Google Maps, Canute Road Southampton”. 2012年3月11日閲覧。
  44. ^ Harding, Stephen (2016). Ingimund's Saga: Viking Wirral (3rd ed.). University of Chester. p. 178. ISBN 978-1-908258-30-4. https://books.google.com/books?id=csSxDgAAQBAJ&pg=PA178 

参考文献[編集]

先代:
エドマンド2世
イングランド王
1016年 – 1035年
次代:
ハロルド1世
先代:
ハーラル2世
デンマーク王
1018年 - 1035年
次代:
ハーデクヌーズ
先代:
オーラヴ2世
ノルウェー王
9代
1028年 - 1035年
次代:
マグヌス1世