キャサリン・ウォルターズ

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キャサリン・ウォルターズ
キャサリン・ウォルターズ

キャサリン・ウォルターズ(Catherine Walters、1839年6月13日 - 1920年8月4日)は、別名スキットルズ(Skittles)、イギリスヴィクトリア女王時代のロンドン流行演出者、偉大な高級娼婦の最後の1人である。 ウォルターズは、その後援者には、知識人、政党指導者、貴族、イギリス王室の構成員[1]もふくまれるとされた。

生涯[編集]

キャサリン・ウォルターズは、リヴァプールのトックステス(Toxteth)のヘンダーソン・ストリート(Henderson Street)1番地に5子の第3子として生まれ、リヴァプール地区で育ち[2]、20歳の誕生日の前にロンドンに移った。 父は、エドワード・ウォルターズ(Edward Walters)、税官吏で、1864年に死去した。母はメアリー・アン・ファウラー(Mary Ann Fowler)であった。

彼女のニックネームは、彼女がパーク・レーン(Park Lane)近くのチェスターフィールド・ストリート(Chesterfield Street)のボウリング場で働いていたことに由来すると考えられている。 (スキットルズは、ボウリングに進化した遊戯である。) また或る時には、彼女は「ミセス・ベーレンス」("Mrs Behrens")、「ミセス・ベイリー」("Mrs Baillie")として、結婚したとは考えられていないが、知られている。

彼女の古典的な美しさは、女性乗馬者としての技量に匹敵したが、彼女はその技量の点でもほとんど同じ程度に有名であった。[3] 1860年代、ハイド・パークのロットン・ロウ(Rotten Row)をウマで行くキャサリンの魅惑的な姿は、観光客の大きな人だかりをつくった。 貴族階級の淑女らは、彼女の完全にぴったりした「プリンセス」("Princess")乗馬服のカットをまねしたし、彼女は流行発信者としてよく知られていた。[4]

1862年7月の『ザ・タイムズ』宛ての手紙は、見え透いた変装をしたキャサリンを待つ讃美者らのあいだの期待の熱狂を詳しく描写した:

「期待は最高潮に達している: 美しい女性が、優れたかたちと動きのサラブレッドのポニーに引かれる馬車で疾走して過ぎる。 馭者はポーク・パイ・ハットをかぶっているし、プール(Poole)のパルトーは日陰の世界の女性によって紹介されている。 しかし、悲しいかな!彼女は全く効果が無い、というのも彼女は日陰の世界の女性ではないから。 彼女はただA--公爵夫人、B--侯爵夫人、C--伯爵夫人、だれかほかの日陰の女性の多くの摸倣者にすぎない。 落胆した群衆は座り直し、そして待つ。 ポニー馬車がもう一台、続く--そしてもう一台--が、その結果は変わらぬ落胆である。 とうとう忍耐が報われる。 日陰の女性とそのポニーらが現われ、彼らは満足する。 彼女は雑踏のなかを気づかぬようすで、縫うように進み、幾百人もの賞賛する者、羨望する者によって寸評が加えられる。 彼女は知人に話しかけるためにポニーらを急に停め、するととたんに馬車は大群衆に取り囲まれる。 彼女は向き直り、アプスリー・ハウス(Apsley House)のほうへ走って戻り、それから誰も知らない、未知の世界に去る。」[5]

彼女の恋人のなかにはつぎのようなひとびともいた。オーブリー・ドゥ・ヴィア・ボークラーク(Aubrey de Vere Beauclerk、セント・オールバンズ公爵家)と彼女は1862年の後半、数か月間、アメリカに駆落ちした。[6][7] スペンサー・キャヴェンディッシュ(Spencer Cavendish)、ハーティントン侯爵(Marquess of Hartington)(のち第8代デヴォンシャー公爵(the eighth Duke of Devonshire))、彼を彼女はアメリカ南北戦争中にニューヨークまで追った。 ナポレオン3世、フランス大蔵大臣アシル・フール(Achille Fould)。[8] そしてイギリス皇太子(のち国王エドワード7世)。 彼女はまた詩人であるウィルフリッド・スコーウェン・ブラント(Wilfrid Scawen Blunt)の初恋の相手でもあったし、彼はその後死ぬまで、彼女にのぼせていた。

高級娼婦としての人生において、後援者にたいする彼女の思慮分別は経歴の焦点となった。彼女が当時の裕福な男幾人かに夢中になっているといううわさは多かったが、彼女はうわさを肯定も否定も決してしなかった。このことは彼女の高級娼婦の生き方において大きな重みを持ったし、彼女をひっぱりだこの商品にした。このことはまた彼女の経歴に長命を与えたし、1890年ころ彼女が社交界の裕福な女性として引退するのを助けた。彼女の財産の値打ちは、死亡時に2764ポンド19シリング6ペンスもの、相当なものであった。[9]彼女が、DNBによれば、1872年から持っていた、メイフェアの自宅のみならず、彼女は、仕立屋の勘定の不払いで訴えられた裁判事件から判断すると、他の住所も持っていた。その残りの住所は彼女が所有する財産であったかもしれない。2つはホテルで、1つはフランスにあった。[10]

キャサリン・ウォルターズは、メイフェア(Mayfair)のサウス・ストリート(South Street)15番地の自宅で脳出血で死亡し、クローリー(Crawley)の聖フランシス聖アントニー修道教会(Friary Church of St Francis and St Anthony)の墓地に埋葬された。[11]

文化的言及[編集]

メイフェアのサウス・ストリートにある「スキットルズ」の青い飾り板

1864年、ロンドンの出版者ジョージ・ヴィッカーズ(George Vickers)は3つの虚構化された伝記を出版した:『Anonyma: or, Fair but Frail』、『Skittles: the Biography of a Fascinating Woman』および『Skittles in Paris』。 著者は、ことによるとウィリアム・ステファンズ・ヘイワード(William Stephens Hayward)、あるいはブレースブリッジ・ヘミング(Bracebridge Hemyng)であったかもしれない。 これらの自伝の公然たる販売(と商業的成功)は、同時代の新聞雑誌の倫理的関心の表現を惹き起こした。

1861年、のちの桂冠詩人であるアルフレッド・オースティン(Alfred Austin)は、ヴィクトリア女王時代中期の社会のモーレスを風刺する詩作品である『The Season: a Satire』において、「スキットルズ」に名指しで言及した。 彼は彼女のロットン・ロウへの劇的な出現と、社交界の淑女らが彼女に対していだいた、ひそかな、嫉妬による関心を描写した。 彼はまた、スキットルズその他の有名人娼婦は、彼女らがセックスを提供したという理由だけではなくて、彼女らは、結婚「季」でロンドンにやって来る育ちのよい娘らと比較して、より自然で、抑圧されておらず、退屈でないという理由でも、魅力的であったことを示唆した。[12]

ウィリアム・スコーウェン・ブラントの詩作品連作『The Love Sonnets of Proteus』と後期の作品『Esther』は、ウォルターズとの初期の情事と後期の交友に基づいていると考えられている。[13]

画家エドウィン・ヘンリー・ランドシーア(Edwin Henry Landseer)は、『The Shrew Tamed』[14]という絵画を1861年のロイヤル・アカデミー展覧会に出品した。 それは、藁のなかにひざまずくウマのくびにもたれかかる乗馬服すがたの美しい娘を描いた。 それは表向きはウォルターズの肖像ではなかったが、モデルであるとされた有名な女性騎乗者であるアニー・ギルバート(Annie Gilbert)は彼女に似ているし、ウマ、美しい女性の並置、行き渡るけだるい雰囲気は同時代の批評家らを悩ませた。[15] 一部では、ウォルターズそのものが主題であったとはっきりと想定した。[16] その絵は、『The Pretty Horsebreaker』という別名を得た。

チャールズ・リードの長編小説『A Terrible Temptation』(1871年)において、高級娼婦ローダ・サマセット(Rhoda Somerset)の役はいちぶウォルターズに基づいている。

参考文献[編集]

  1. ^ Albert Edward, Prince of Wales, afterwards King Edward VII: Theo Aronson, ‘Walters, Catherine (1839–1920)’, Oxford Dictionary of National Biography, Oxford University Press, 2004
  2. ^ 1851 British Census shows her resident at 123 Queens Buildings, Tranmere, Cheshire, with father and siblings: aged 11, she is a 'scholar'(i.e. schoolgirl)
  3. ^ Burton, Sarah (2003年9月6日). “Review: Courtesans and the Courtesan's Revenge”. The Guardian (Guardian Media Group). http://www.guardian.co.uk/books/2003/sep/06/featuresreviews.guardianreview6 2010年2月28日閲覧。 
  4. ^ AUSTIN, Alfred, The Season: a Satire (1861):"..to their Sisters of the Season, Skittles is as well-known, and as much an object of interest, as the last shape of Madame Elise; and the skill with which, in talk à deux, they manoeuvre the conversation into speculations upon her origin, abode, and doings, fully supports their reputation for tact."
  5. ^ The Times, 3 July 1862, pg. 12
  6. ^ ‘Mr and Mrs Beauclerk got on very well together until July, 1862, when they went to Ems. A Miss Walters, who was better known as “Skittles,” happened to be staying there at the time, and Mr Beauclerk became smitten with her... Having travelled about with Miss Walters for some months the respondent, in 1863, returned to this country by himself..’: The Times, Saturday, Nov 01, 1890; pg. 4; Issue 33158; col E
  7. ^ '...the respondent made the acquaintance of a Miss Walters, better known as "Skittles," with whom he eloped and went to America.':The Times, Wednesday, Nov 19, 1890; pg. 3; Issue 33173; col D
  8. ^ Hickman, Katie. Courtesans: Money, Sex, and Fame in the Nineteenth Century. New York: HarperCollins, 2003. ISBN 0-9657930-8-7
  9. ^ Theo Aronson, ‘Walters, Catherine (1839–1920)’, Oxford Dictionary of National Biography, Oxford University Press, 200
  10. ^ http://www.tassie.org/pdf/tailor%20bills.pdf
  11. ^ Bastable, Roger (1983). Crawley: A Pictorial History. Chichester: Phillimore & Co. §147. ISBN 0-85033-503-5. 
  12. ^ "Go, girls! to Church! believing all you hear/Think that their lack of virtue makes them dear;/Unheeding me, who say that ban and bar/ Make you the stupid, stunted things you are;"
  13. ^ Going, William T:Wilfred Scawen Blunt, Victorian Sonneteer VP II, (Spring 1964), 67-85
  14. ^ http://goldenagepaintings.blogspot.com/2009/02/sir-edwin-henry-landseer-shrew-tamed.html
  15. ^ The Times :"“The Shrew Tamed;” Sir E. Landseer. – ...The lady reclines against his glossy side, smiling in the consciousness of female supremacy, and playfully patting the jaw that could tear her into tatters, with the back of her small hand. For horses read husbands, and the picture is a provocation to rebellion addressed to the whole sex...” The Times, Saturday, May 04, 1861; pg. 12; Issue 23924; col A
  16. ^ Blackwood's Edinburgh Magazine Vol. 90 (550) Aug 1861 Page 211:'"The Shrew Tamed" - a high-bred horse of soft silken coat, dappled with play of light and shade as on velvet, subdued by a "pretty horsebreaker", is certainly unfortunate as a subject. This picture has been made the more notorious by "The Belgravian Lament", which took the well-known rider as a text whereon to point a moral. We hope it will now be felt by Sir Edwin Landseer and his friends that the intrusion of "pretty horsebreakers" on the walls of the Academy is not less to be regretted than their presence in Rotten Row.'

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外部リンク[編集]