ガセネタ (バンド)

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ガセネタ
別名 ガセネタの荒野、かつお、て、こたつで吠えろなど
出身地 日本の旗 東京都明治大学
ジャンル アヴァンギャルド
ニュー・ウェイヴ
ハード・ロック
パンク・ロック
ノイズ・ロック
ガレージ・パンク
インディー・ロック
オルタナティヴ・ロック
サイケデリック・ロック
フリーミュージック英語版
フリー・ジャズ
活動期間 1977年 - 1979年
2015年 - 2018年
2019年 -
レーベル ピナコテカレコード
1983年
PSFレコード英語版
1993年
SUPER FUJI DISCS
2011年 - )
共同作業者 TACO
HIGH RISE
園田佐登志
吉祥寺マイナー
公式サイト ガセネタ公式サイト
メンバー 山崎春美(Vo)
不破大輔(Ba)
原田依幸(P)
石塚俊明(Dr)
旧メンバー 浜野純(Gt)
大里俊晴(Ba)
村田龍美(Dr)
佐藤隆史(Dr)
亀川千代(Ba)
田畑満(Gt)
乾純(Dr)

ガセネタは、山崎春美大里俊晴浜野純の3人によって明治大学の現代音楽ゼミナールで1977年9月に結成された日本最初期のオルタナティヴロックバンドである。音楽評論家間章は晩年「このバンドの為なら何でもする」と語った[1]。自称「最後のハードロックバンド」「非治産階級のバンド」。

1978年より吉祥寺マイナーを中心としたライブハウス大学学園祭などで「ガセネタの荒野」「かつお」「」「こたつで吠えろ」「しゃけ」「テテ」「世界の果てにつれてって」「アナルキス」「ガセネタ」など名前を変えながらゲリラ的に活動を続け、結成からわずか2年後の1979年3月末日に解散した。

活動当時は音源を一切リリースせず、解散から13年後の1992年大里俊晴が無断で発表したガセネタの伝記的小説『ガセネタの荒野』に対抗して山崎春美アルバムSOONER OR LATER』(英語で「遅かれ早かれ」の意)をPSFレコード英語版から1993年に突如リリース、これがガセネタの初音源となる[2]

2015年には大里俊晴の7回忌にあわせて36年ぶりに再結成されるが、新録アルバム発売直前の2018年10月23日山崎春美Twitterを通じてメンバーや関係者に相談せず独断でガセネタを解散したと発表した[3]

メンバー[編集]

  • 山崎春美ヴォーカル/→タコ
    • タコのリーダー。ガセネタではヴォーカル、痙攣作詞を全4曲ともに担当。高杉弾が創刊した伝説的自販機本Jam』『HEAVEN』編集部に在籍し、雑誌『宝島』周辺で一躍時の人となる。ガセネタ結成以前は阿木譲の『ロック・マガジン』に美文を執筆し、天才少年として注目された[4]。しかし、その散文詩的で叙情的な美しい歌詞とは裏腹に、山崎のパフォーマンスはひたすら全身を震わせ、手足をばたつかせ、もんどり打って倒れ、その場で痙攣しながら歌ならぬ歌を機関銃のような早口で喚き散らすといった余りに過剰なもので[4]、この痙攣タコダンスは後に山崎の代名詞となる。山崎やタコのステージについて元タコの後飯塚遼(後に東京理科大学教授)は「痙攣とかひきつりとか失神とかだよね。音も、ステージも。ちっちゃい子供がかんのむしを起こす感じ」と回想している[5]
    • ガセネタ解散後は不定形即興音楽集団のタコ(TACO)を1980年頃に結成。ステージ上で自傷する「自殺未遂ライブ」や日比谷野外音楽堂アンダーグラウンドイベント「天国注射の昼」などを首謀し、当時の自主制作音楽業界に多大な影響を及ぼした。
    • タコの解散後、長らく表舞台から退いていたが、2010年代に入り活動を本格的に再開し、2015年11月に行われた大里俊晴の7回忌ライブ「SHINDACO~死んだ子の齢だけは数えておかねばならない」よりバンド編成で36年ぶりにガセネタの活動を再開する[6]。なお山崎は後年、自身のバンド活動を振り返り「“タコ”はバンドではない。自分が参加したバンドは“ガセネタ”だけだ」と述懐している[7][8]
    • 2018年10月23日、ライブ後に更新した自身のTwitterで「諸事情も含め今後の見通しについても、そして人間として何もかもアホらしくなった」のを理由にガセネタの解散を突然表明して活動休止に入る[3]。奇しくも最後のライブを行った10月21日は山崎やPhewをデビューさせた阿木譲(雑誌『ロック・マガジン』編集長)の命日であった。

解散時に在籍していたメンバー[編集]

  • 浜野純ギター/→不失者
    • 連続射殺魔、後に灰野敬二不失者ベーシストとして参加。
    • 本人曰く「生傷が耐えなかった」という性急で凶暴なギター演奏は「クスリ臭いギター」と評され、吉祥寺マイナーに出入りしていた非常階段JOJO広重など当時のアンダーグラウンドなミュージシャンにも多大な影響を与えた[9]。また不失者では大音響のベースを弾いてライブハウスの壁を倒壊させたという伝説もある[10]。こうした浜野の演奏について後に現代音楽研究家になる大里俊晴も「どうして一本のギターから、六本しかない弦から、十本しかない指で、彼があんな音を引き出すことが出来たのか今でも不思議で堪らない」と評している[4]。ちなみに大里俊晴著『ガセネタの荒野』によれば、浜野はギターの弦では一番太いものを張っており、さらに六弦にはベース用の弦を張っていたといわれている[4]。なお浜野はプリンスが愛用していたマッドキャットというギターを使っており、基本的にテレキャスター・モデルしか使わなかったとされる。前掲によれば「フェンダーの中でも、最も“遊び”の少ないギターだったから」とのこと[4]
    • また過激な演奏で両手が血に染まることは日常茶飯事であり[4][9]、これについて吉祥寺マイナーのオーナーでドラムス担当の佐藤隆史は「ガセネタの練習ってすごいきびしくてね。やっぱ、許してくれないの。果てるまでやらなきゃ、許してくれない。気を抜くとねぇ、みんなに罵倒される。うまいかどうかじゃなくてもう、全力疾走で、できなくなるまでやれ!って感じで。必ず血だらけになってたよ。浜野も手が血だらけになるし、大里も椎間板ヘルニアになっちゃったし、俺もヘトヘトになって手からやっぱ血出すまでやるって感じ。そこまでやらないと、許してくれない。(とくに)浜野はきびしかったな。それはそれはストイックでしたよ」と回想している[11]
    • 大里曰く浜野はたいへん早熟な天才美青年であったようで、わずか10代半ばにして「削ぎ落とすんだよ。削ぎ落として、削ぎ落として、残った骨だけがぼおっと光っていればそれでいいんだ」と語ったことでも知られる[4]。これは過剰と速度で1970年代末を駆け抜けたガセネタの精神性を象徴する言葉となった。なお浜野は後年ガセネタ時代を振り返って「アングラってさ、伝説になりやすいんだよ」「伝説とかいっても、ガセネタを実際に観た人は、30人いないんじゃないか」と興ざめした回想を行っている[10]
    • 1992年、ガセネタの1stアルバム『SOONER OR LATER』のリリースにあたって明治大学現代音楽ゼミを主宰していた園田佐登志が浜野に音源化の許諾を求めたところ「(ガセネタに)自分が関わっていたとは最早、思えなくなっている」ことを理由に印税の受け取りを辞退する旨の手紙を園田に出している[12]
  • 大里俊晴ベース/→タコ
    • ガセネタの伝記小説ガセネタの荒野』著者。ガセネタ解散後、タコギタリストとして参加。
    • 早稲田大学文学部卒業後、パリ第8大学現代音楽美学を学び、芸術研究科修士課程および研究課程修了。1998年から横浜国立大学教育人間科学部助教授に就任。その後、2009年に他界するまで「ガセネタ」「タコ」の音源を30年間所蔵した[5]
    • 1992年ガセネタの荒野』の上梓にあたってガセネタ結成のきっかけを作った園田佐登志に「この本は、園田さんへの僕からの最終返答だと思って下さい。僕の言うべきことはこれで総てです。僕はもう二度とガセネタについて発言することはないでしょう[13]という旨の手紙を送ったのち沈黙を貫き通し、2009年に死去。同書が生前唯一の単著となった。
    • 生前は大変シャイな性格だったとされ、いつも黒いサングラスにチューリップハットをかぶり、観客の背後を向いて演奏を行っていた。
    • 2005年に横浜国大が行ったインタビューでは「ガセネタ」「タコ」の名前こそ出さなかったものの、当時の音楽活動について「ハードロックを極限まで煮詰めていったらどうなるかということをやっていて、自分でももう触れたくないほどハードな生活でした。それは、昔、熱愛してた彼女をもう思い出したくも会いたくもない、みたいな感じです。ただそこで、ロックのパッションみたいなものはしぼり出しちゃったので、もうこの方向ではあまり先へ行けないなという気になっていたんです。でも勉強だとまだいける気がして、そっちへ向かったんです」と回想していた[14]
    • 元タコの白石民夫曰く「ガセネタで唯一事務能力のある人間。俺は天才と称される人間よりは、それを支えて、きちんとたたせてやってる人のほうが優れている人間だと思うから……それに彼は官僚的でないでしょ。事務能力があって、官僚的でないって、大変なことだと思う」と回想している[15]
  • 佐藤隆史(ドラムス/→ピナコテカ
    • 初代ガセネタのメインドラマー(後期)
    • 1955年香川県生まれ。高校中退後、絵の勉強をするため上京。その後、ジャズピアニスト山下洋輔に私淑しピアノを始める。ジャズ喫茶でのアルバイトを経て1978年3月7日に東京都武蔵野市吉祥寺で伝説のライブ喫茶「吉祥寺マイナー」を開店する。
    • 大里によれば「何でもそつなくこなしてしまう天才肌」の持ち主で、一度も触ったことがない楽器でも佐藤はすぐにマスターしたという[4]。また大きめのエレキピアノをばらばらに分解して小型のポータブル型に改造するなど修繕や修理も得意で、他にも絵画現像配管工事はんだ付け、複雑怪奇な和文タイプライターの打ち込みまで何でも広くこなした[4]。しかし、その佐藤が唯一できなかったことが皮肉にも喫茶店マスターだったという[4]。なぜなら彼は昼夜関係なく40数時間起き続け、その後20時数間ぶっ通しで寝るという体内時計サーカディアン・リズム)に逆らった不規則な生活を送っており、定期的に喫茶店を開店するということ自体が事実上不可能だった為である[4]
    • その後、起こされるのが嫌になった佐藤は電話を押入れの奥にしまってしまい、彼の寝坊でライブを一方的にキャンセルされたパンクスたちは壁のチラシをびりびりに破いてドアに「死ね」と落書きをして帰っていったという[4]。大里曰く「エキセントリックなところのまるで無い、それでいてとても不思議な人間」とのこと[4]。佐藤隆史および彼が運営していた吉祥寺マイナーについては『ガセネタの荒野』および『EATER'90s インタビュー集』に詳しい。

脱退したメンバー[編集]

  • 村田龍美ドラムス
    • 初代ガセネタのメインドラマー(前期)
    • 浜野の高校時代の同窓生という縁からドラムスを引き受ける[4]。大里曰く「とても素晴らしいドラマー」であったが、同時に「普通の考えを持った、只の常識人」でもあったようで、特に機材運びを全く手伝おうとしない山崎や浜野に対しては「お前らクズだよ」と言い放つなど心底軽蔑しきっていたという[4]。その後、大学入試の受験勉強が本格化したのを機にガセネタを脱退した[4]。なお1978年明治大学和泉校舎で録音され、1993年にリリースされた1stアルバム『SOONER OR LATER』でのドラムスは村田が担当している。
  • 高野(ドラムス)
    • 1978年8月末から9月初旬の数日間のみ参加した謎の人物
    • ガセネタの荒野』には高野についての言及がなく、メンバーの中では最も影が薄い。下の名前も不明。
  • 乾純(ドラムス/→ザ・スターリン
    • 1978年9月23日~24日にかけて東映所沢撮影所で行われた現代音楽コンサート「逆転する24時間」で一度だけドラムスを担当した。乾と「逆転する24時間」でのエピソードについては『ガセネタの荒野』に詳しい。1979年のガセネタ解散後は遠藤ミチロウ率いるザ・スターリンの初代ドラマーとして活躍する(一時離脱をはさんで1985年のバンド解散時には再びドラマーを務めた)。2015年のガセネタ再結成後は2018年の再解散まで一貫してドラムスを務め上げた。
  • 亀川千代(現ベース)
  • 田畑満(現ギター)

その他[編集]

  • 園田佐登志(アナルキス)
    • 明治大学現代音楽ゼミナール主宰者
    • 吉祥寺マイナー周辺のミュージシャンとも交流を持ち、ガセネタ+園田佐登志による即興バンド「アナルキス」ではボーカルギター尺八を担当し、また三上寛の「しょんべんだらけの湖」「むすんでひらいて」「untitled」などもカバーした[16]。ちなみに現存するテイクの多くは園田が提供したものとされている[17]。園田については『ガセネタの荒野』に詳しい。

楽曲一覧[編集]

ガセネタの持ち曲は「雨上がりのバラード」「父ちゃんのポーが聞こえる」「宇宙人の春」「社会復帰」のたった4曲しかなく、これについて山崎春美は「ガセネタは明らかに音楽をやっているのではなく、バンドだったので、曲を作るというのは、お体裁だけのことだった」と述べている[18]

大里俊晴は著書『ガセネタの荒野』の中で「これで全部だ。4曲ある。4曲もあった、というべきだろう。僕らは大概のものを憎んでいたが、繰り返しというものを特に憎んでいた。同じ事を二度やることは、耐えがたいことだった。だから、僕らは、曲の持つ、反復=再現可能性という属性に、いつも絶望し、苛立っていた。だが、と僕は思う、4曲もあったレパートリーは、その総てが、口実として書かれていたのではなかったか? 口実? そう、エンディングの為の口実として。僕らの演奏にはエンディングしかなかった。(中略)エンディングとは、終わりであり、始まりであり、中間であり、また終わりでもあった。僕は、もう終わりだ、いま終わりだ、と思いながら演奏した。だが、終わることが出来なかった。終わりはやってこなかった。どうやって終わるのだろう。どうやったら終わることが出来るのだろう。僕は、いつもそう思いながら演奏した。エンディング。僕らは、いつまでも終わり続けていた」と回想している。

  1. 雨上がりのバラード
    (作詞:山崎春美 / 作曲:浜野純)
    さいしょの2曲は「これの、どっちにするかだな」とかいいながら浜野が弾いてみせて、「いや、こっちはダメだ。これしかないな」と、2曲目しかないみたいなことをさいしょから言いはじめて、「じゃあ、1曲目はなんだったんだ」という気になるのだけれど、だいいちその「究極のこれしかない」2曲目というのは、まだロックっぽかった1曲目にくらべて、リフがひとつあるだけなんだから、音楽をやっているわけでもないぼくからすれば、まま子あつかいされた1曲目が不憫でならない。それで勝手に「雨上がりのバラード」という名前をつけてやった。「どこがバラードなんだ」とは言われたけど、2曲しかないレパートリーの「勝負の分かれ目」みたいな「ガセネタのテーマ」曲にくらべて、おちゃらけた付け足しみたいなあつかわれようは、充分、泣きが入るところだ[19]
  2. 父ちゃんのポーが聞こえる
    (作詞:山崎春美 / 作曲:浜野純)
    曲は簡単で、ドラララーラララがつんのめって加速してめちゃめちゃになって終わる、というものだった(と僕は解釈した)。1拍目でその時点でのonをキープし3拍目のスネアを早めに叩けば論理的には加速していく筈だと思った。ドラムはやったことがない、と言うと、こう腕をクロスさせて普通に、と言われてやってみたがその叩き方では無理だった。だから佐藤隆史はジャズのシンバルで逃げたし、乾はタムの連打で焦点をぼかしたのだ。僕は、加速に焦点を与えたこの「父ちゃんのポーが聞こえる」という1曲だけでガセネタはいいと思っている。ドラムとベースが遅れ続けることによってしか曲をひきのばせなかったとしても[20]
  3. 宇宙人の春
    (作詞:山崎春美 / 作曲:浜野純)
    さらに僕が文句を言いつづけて「わかったよ。ロックっぽいのを作ってやったから感謝しろ」と、やっと浜野が持ってきたのが3曲目で、なんといっても曲みたいだった。それが嬉しくてその日のうちにすぐ歌詞をつけて「宇宙人の春」と命名した[19]
  4. 社会復帰
    (作詞:山崎春美 / 作曲:大里俊晴)
    そしたら、こんどは大里が「俺も作った」と言って持ってきたのが4曲目になって、これで曲作りというのは完全に終わった。2曲目については、すったもんだしたあげく、浜野が「父ちゃんのポーが聞こえる」という題名をつけたが、けっきょくのところ1曲目、2曲目という呼び名でしか、呼ばれることはなかった。大里の作曲による4曲目には、作曲者のイメージを尊重して「社会復帰リハビリテーション)」という名前をつけた。立って演奏することへのこだわりは、たいしたもので、それがどうしたって演奏中に倒れ込まざるをえないことになった。椎間板ヘルニア、という怪我みたいな病気のことを知ったのは、大里がそれになったからで、大里によれば、バンドの機材を運ぶのに、「お前らが全然やらないから」それで腰を痛めたのだと、くり返し言っていて、ほんとうなら申し訳ないことかもしれなかったが、コルセットをはめたまま立ってベースを弾く姿が「なかなかカッコいい。凛々しい」と、浜野と口々にほめあったら、「血も涙もない奴らだ」と言いかえして、笑っていた[19]

アルバム[編集]

  • ガセネタ』(1979)
    • 吉祥寺マイナー1979年2月1日に行われたとされるライブを収録した自主制作のデモテープ[21]。市販カセットテープ仕様。BOXセット未収録。このテープとの関連性は不明であるが、フリーペーパーアマルガム』創刊号(1978年11月発行/吉祥寺マイナー)にガセネタがF.M.C.第5列レーベルから1979年2月にテープを発売する予定であるという告知が記されていた。
    • 「余談だが未発表のガセネタのデビュー・テープのライナーは故間章氏が筆を執る筈だった」(坂口卓也「伝達から可塑性誘発へ─『うごめく 気配 傷』の機能音楽屋達─」『ロック・マガジン』23号)
  • タコ』(1983)
  • SOONER OR LATER』(1993)
    • PSFレコード英語版明大前のレコード店「モダーンミュージック」が主宰していたインディーズレーベル)より発売されたガセネタの1stアルバム。1978年春の明治大学でのライブ、スタジオライブを収録したもので2011年にBOXセットが発売されるまでは、これが唯一のアルバムであった。なお帯には大里俊晴著『ガセネタの荒野』と本CDが無関係であることを促す「類似品注意」の断り書きがある。ジャケット江夏豊の逮捕記事を転載したもの[22]。録音場所は明治大学和泉校舎の学生会館1F仮設スタジオ。現在廃盤。
  • ちらかしっぱなし-ガセネタ in the BOX』(2011)
    • 2011年7月20日、ディスクユニオンのレーベル「SUPER FUJI DISCS」よりリリース。1977年夏のごく初期から1979年3月30日解散前夜まで、時期や参加メンバーによって「こたつで吠えろ」「て」「ガセネタ」「アナルキス」など名前を変えながら行なった様々なライヴや練習スタジオのカセット一発録音を山崎春美佐藤薫の監修のもと、8枚のCD(disk1~8)に収録。「雨上がりのバラード」26テイク、「父ちゃんのポーが聞こえる」27テイク、「宇宙人の春」17テイク、「社会復帰」11テイク、その他11テイク、以上670分92テイク収録。これに加えてハイライズのメンバー(成田宗弘、南條麻人、氏家悠路)などに山崎春美が加わった1985年のライヴ音源(他)をdisk-9に、さらにMOODMANによる2011年ガセネタ・スピード・ミックス盤を附した10枚組。番外編CDとして1977年のガセネタ初期セッション「こたつで吠えろ!」を先着特典付。
  • グレイティスト・ヒッツ』(2011)
    • 既発音源を再編集したベスト・アルバム
  • GASENETA LIVE 2018.04.25』(2018)
    • ガセネタ結成40周年と大里俊晴没後9周年を記念して発売された再結成後初の新録アルバム。2018年4月25日新宿LOFTで行われたライブ「ガセネタだけ(他なし)2018」を収録したもので、演奏者は山崎春美(Vo)亀川千代(Ba)田畑満(Gt)乾純(Dr)の4人。ジャケットデザインとロゴデザインは宇川直宏が担当した。「雨上がりのバラード」3テイク、「父ちゃんのポーが聞こえる」1テイク、「宇宙人の春」4テイク、「社会復帰」3テイク、以上11テイクを収録[23]

シングル[編集]

  • ガセネタ』(2017)
    • 「雨上がりのバラード」「父ちゃんのポーが聞こえる」「宇宙人の春」「社会復帰」以上4曲しかないレパートリーからそのベスト・トラックを収録したアナログ7インチEP。
  • ガセネタ GASENETA』(2018)
    • フィンランドのEktro Recordsから発売されたアナログ12インチEP。『ちらかしっぱなし-ガセネタ in the BOX』から厳選した11曲と、BOXセット制作後に発見されたテープ[24]から1978年11月3日の日芸ライブより「父ちゃんのポーが聞こえる」未発表テイクを収録。黒盤と黄盤の2種類あり。
  • 雨上がりのバラード/社会復帰』(2018)
    • アルバム『GASENETA LIVE 2018.04.25』から2曲を収録したアナログ7インチEP。
  • 父ちゃんのポーが聞こえる/宇宙人の春』(2018)
    • アルバム『GASENETA LIVE 2018.04.25』から2曲を収録したアナログ7インチEP。

書籍[編集]

そして、最後に言わせて欲しい。最終的には、この文章が僕によって書かれなければならない必然性すらなかっただろう。僕はそう思う。僕は、いわばローファイテープレコーダーのようなものだった。誰かが、また別のテープレコーダーを用意してくれてもよかったのだ。今回はそれがたまたま僕だっただけだ。だから、ここに読まれる文字群は、僕という不忠実な記録再生装置を通じて語られた複数の誰かの言葉だ、と言っても差しつかえない。けれど、その複数の誰かを、「時代」などという茫漠とした概念にまで還元してしまうことにだけは、僕は断固として抵抗するだろう。だって、あの時、少なくとも僕らは、徹底的に反時代的でありたいと願っていたのだったから。 — あとがきより

メンバー変遷[編集]

  時期 Vocal Bass Guitar Drums バンド名 備考
1期 1977.晩夏 山崎春美 大里俊晴 浜野純 1977年夏、明治大学の現代音楽ゼミナールにてバンド結成
2期 1978.01- 村田龍美 ガセネタの荒野、かつお、て、こたつで吠えろなど この時期のライブは主に明治大学で行われた
3期 1978.08- 高野 ガセネタ
4期 1978.09 佐藤隆史 ガセネタの荒野
5期 1978.09.24 乾純 ガセネタ 乾純は一回のステージで脱退、後任は佐藤隆史
6期 1978.10-
1979.03.30
佐藤隆史 この時期のライブは主に吉祥寺マイナーで行われた
1979年3月末日、初代ガセネタ解散、同年タコ結成
7期 1985.01.20 山崎春美
町田町蔵
大里俊晴
南條麻人
成田宗弘 氏家悠路 タコ タコ+ハイライズがガセネタの楽曲を演奏
8期 2015.11.17 山崎春美 松村正人 成田宗弘 乾純 ガセネタ 新宿LOFTにて再結成、36年ぶりに活動を再開
元ガセネタ、ザ・スターリンの乾純が再加入
9期 2017.03- 田畑満 ボアダムスの田畑満が加入
10期 2018.04-
2018.10.23
亀川千代 田畑満 ゆらゆら帝国の亀川千代をメンバーに迎え再スタート
11期 2018.11.17- 山崎以外全員脱退となる
  時期 Vocal Bass Piano Drums 備考
12期 2019.04.03- 山崎春美 不破大輔 原田依幸 石塚俊明 東京・渋谷の「LOFT HEAVEN」で復活ライブ。セットリストは「父ちゃんのポーが聞こえる」のみ

関連年表[編集]

関連文献[編集]

参考文献[編集]

評価・分析[編集]

  • 山崎春美 - ステージへ立つ度毎に罵声とゴミクズと嘲笑がとんでくるのは毎回のおきまりごと。演奏がはじまるともう何もわからなくなる。それはもう歌じゃない、音楽じゃない、ましてやメロディーや言葉やリズムなんかじゃない。悪くなって行くこと、どうしようもなく、いかなるあがきも居直りも狡猾さも少しのかいさえなしにただいたずらに崩れ流れて、無限大に拡大する不安と恐怖の中に、惨めさのなすすべもなしに広場の王子。そんな現在をただ拡大しただけの等身大のロック・バンド[29]。そんなバンドがガセネタだ。
  • 隅田川乱一 - それから「ガセネタ」というバンド。これもみのがす手はない。『』の松岡正剛氏は、田中泯とか笠井叡舞踏を通じてニジンスキーを想像する、みたいなことを書いていたが、ボクの場合、あのバンドはジミ・ヘンドリックスとか、かつてのシャーマニズムの時空を想わせる。「あれ」がやってくると「X」度もたっぷりで、記憶たちのお喋りもやむ[30]
  • 坂口卓也 - 自らを非治産階級のバンドと称するガセネタ。現代文学の消費でしか無いのと同様、音楽は音の消費である。その認識の上で彼等は最後の等身大性に全てを賭けている。まるでマルコム・ムーニーが居た頃のカンとレイ・ステファン在席時のブルー・チアが合体し発情したが如き演奏は、生理対生理の伝達作用が持つ、多様性を凌ぐ一様性に大きく関連している。それには大きな加速度が必要だ。私はその加速度の代償として、10分の演奏でギタリストの両手が血ダルマになる 8分でベース弦の殆どが切れるという光景を目の当たりにして来たものだ。ガセネタの怪し気な、人間の潜在的恐怖・価値への不信感を呼び起こすステージは数々のフリー・ミュージシャンに高く評価されている。余談だが未発表のガセネタのデビュー・テープのライナーは故間章氏が筆を執る筈だった[31]
  • JOJO広重 - ガセネタは文字通り伝説のバンドだった。1978~1979年のわずかな間、関東でのみライブを演っていたバンド。実際のライブを見た観客の人数は全部あわせてMAXでも百数十人だろうか。とにかくなにもかもがグッシャグシャで、ものすごいスピードで駆け抜けていったロックとパンクとサイケと現代音楽と文学もゴミもアクタも混濁の極みにして、つまりは最高で最低の音楽を演奏していたバンド。(中略)初めて見るガセネタは衝撃だった。特に浜野の顔。そう、顔だ。まるで殺人鬼のような、そんな殺気に満ちていたのを覚えている。ギタリストの顔じゃない、これはキチガイの顔だ、そう思った。ステージで山崎がビール瓶を割って転げ回っていたような記憶もあるが、私の目は演奏が始まるとあっという間に両手が血で染まっていくほどに無茶苦茶にギターをかきむしる浜野のギターに圧倒されてた。ベースやドラムが楽曲らしきコードとリズムをキープしているからロックバンド然とはしているが、訳の分からない歌詞を叫びまくる山崎と血まみれギターの浜野の二人はもう常人ではなかった。本当に訳の分からないバンド、疾走感、ロックの極地、そういう印象だった。(中略)私が保証できるのは、こいつらはあの時代の最先端であり、最も異端であったし、最高に訳がわからないヤツラだったことだ。これは誉め言葉である[9]
  • 石橋正二郎 - 初めて見た「ガセネタ」のことははっきり覚えてる。椅子に座ったベーシストが太く重いけどワンパターンのリズムをひたすら弾いている、ドラムは何が楽しいのかニコニコしてこれまたひたすらタイトなリズムを刻んでる。ヴォーカルは訳の分からないことをわめきながら痙攣してのたうち回ってる、比喩なんかじゃない、本当にのたうちまわってたのだ。会場(吉祥寺マイナー)に転がっていたウィスキーのボトルをヴォーカリストがアンプの端でたたき割る、その破片がドラムのところの飛んでいくのをニコニコしながらかわし、全く何事もなかったかのようにドラマーはたたき続ける。しかし一番衝撃だったのはギターだ。なにか「全て」を獲得しようとしていると思った。多分その獲得しようとしている「全て」は弾いている本人にもわからないだろう。「全て」を獲得できるとも本人も多分思っていない、でもその「全て」を獲得するためにのたうち回ってる(これも比喩ではない)、負け戦と分かってるのに、しかも何が戦かも分からないのに、目指しているモノが何なのか分からないはずなのに指先から血を吹き出しながら演奏し続けていたギタリストのその音は、とんでもなく「せっぱ詰まった」ものだった。後にも先にもあんなギターは聴いたことがない[32]

出典[編集]

  1. ^ 再考一九七八──いま、間章を読むとはどういうことなのか 対談 山崎春美×渡邊未帆『間章著作集Ⅰ~Ⅱ』(月曜社)をめぐって e-hon
  2. ^ 剛田武の地下音楽入門 第3回:ガセネタ
  3. ^ a b 山崎春美のツイート 2018年10月23日
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 大里俊晴『ガセネタの荒野』洋泉社月曜社
  5. ^ a b 『タコBOX Vol.1 甘ちゃん』(2012)ブックレットより
  6. ^ 山崎春美率いる伝説のバンド、TACOおよびガセネタが本格再始動 音楽ナタリー 2015年9月29日
  7. ^ 太田出版Quick Japan』11号「山崎春美という伝説──“自殺未遂ギグ”の本音」より
  8. ^ 剛田武著『地下音楽への招待』第13章「わたしはこの本を認めない」ロフトブックス、2016年9月、365頁参照
  9. ^ a b c JOJO広重さらばガセネタ」(NOBODY編集部『NOBODY』36号「30YEARS AFTER GASENETA AND WITNESSES ガセネタの30年後へ」より)
  10. ^ a b 浜野純インタビュー「伝説とかいっても、ガセネタを実際に観た人は、30人いないんじゃないか」
  11. ^ 地引雄一編『EATER'90s インタビュー集:オルタナティブ・ロック・カルチャーの時代』「THE INDEPENDENT WAY 生き方としてのインディペンデント:佐藤隆史『失敗ってわけじゃないよ。そうやって生きて来たんだもん』」K&Bパブリッシャーズ、2012年9月、126頁参照。
  12. ^ Flyer Collection etc. 1975 - 1990: Original Sources
  13. ^ 園田佐登志 Flyer Collection etc. 1975 - 1990: Original Sources
  14. ^ 発信する横浜国大 大里俊晴インタビュー - ウェイバックマシン(2005年4月7日アーカイブ分)
  15. ^ 剛田武著『地下音楽への招待』第5章「愛欲人民がうごめく夜」ロフトブックス、2016年9月、127頁参照
  16. ^ OMNIBUS a Go Go Vol.48『すべてはもえるなつくさのむこうで Early Works of Satoshi Sonoda 1977→1978 Memories of Yasushi Ozawa』[出典無効]
  17. ^ 園田佐登志のツイート 2016年10月4日
  18. ^ 山崎春美のツイート 2017年3月5日
  19. ^ a b c 『役立たずの彼方に 大里俊晴に捧ぐ』山崎春美の文章より
  20. ^ NOBODY』36号 工藤冬里の文章より
  21. ^ 1979.02.01@吉祥寺マイナー 自主制作デモテープ/ガセネタ
  22. ^ ポストトゥルースの時代に考える「ガセネタ」に纏わる記号体系、「ガセネタ」における意味生成。宇川直宏(DOMMUNE) - ガセネタ公式サイト
  23. ^ 山崎春美率いるガセネタがアルバム発売、レパートリー4曲を何回も収録 音楽ナタリー 2018年9月28日
  24. ^ 発見された未発表テイクは倉敷芸術科学大学生命科学部教授の坂口卓也(筆名・科伏)がSONY/HFカセットテープで当時録音したもの。1978年11月3、4日の日芸ライブと11月5日の早稲田ライブが90分収録されている。
  25. ^ 山崎春美「自筆年譜」『天國のをりものが』河出書房新社、2013年8月、366頁参照
  26. ^ 剛田武著『地下音楽への招待』第5章「愛欲人民がうごめく夜」ロフトブックス、2016年9月、84頁下段注釈参照
  27. ^ 剛田武著『地下音楽への招待』第5章「愛欲人民がうごめく夜」ロフトブックス、2016年9月、10頁下段注釈参照
  28. ^ 剛田武著『地下音楽への招待』第5章「愛欲人民がうごめく夜」ロフトブックス、2016年9月、187頁下段注釈参照
  29. ^ 山崎春美『天國のをりものが 山崎春美著作集1976-2013』河出書房新社(初出:1978年11月発行『アマルガム』第1号より)
  30. ^ エルシー企画X-MAGAZINE』第5号「Xランド独立記念版」(1978年12月発行)
  31. ^ 坂口卓也「伝達から可塑性誘発へ─『うごめく 気配 傷』の機能音楽屋達─」『ロック・マガジン』23号(1979年5月発行)
  32. ^ F.M.N. SOUND FACTORY『ガセネタの荒野』2011.08.07

外部リンク[編集]