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カハル・マフカモフ

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カハル・マフカモフタジク語: Қаҳҳор Маҳкамов1932年4月16日 - 2016年6月8日)は、ソ連タジキスタンの政治家。タジク・ソビエト社会主義共和国の最初で最後の大統領ソ連共産党中央委員会委員(1986年 - 1991年)、ソ連共産党中央委員会政治局員(1990年 - 1991年)。第10~第11期ソ連最高会議代議員、ソ連人民代議員(1989年 - 1991年)、第12期タジキスタン最高会議代議員。

経歴

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1953年から1961年、「タジクウーゴリ」の鉱山換気長、区域長、主任技師、鉱山長、鉱山局長として働く。

  • 1961年-1963年 - レニナバード市執行委員会議長。
  • 1963年-1982年 - タジキスタン・ゴスプラン議長。
  • 1965年-1982年 - タジキスタン閣僚会議副議長。
  • 1982年-1985年 - タジキスタン閣僚会議議長
  • 1985年-1991年 - タジキスタン共産党中央委員会第一書記
  • 1990年4月-11月 - タジキスタン最高会議議長。

1990年11月30日、最高会議において、タジク・ソビエト社会主義共和国大統領に選出。同時に1991年6月まで、閣僚会議議長を兼任。

1991年8月、野党は、大統領の退任、共産党の解散、1990年に採択されたイスラム復興党禁止法の再検討等の要求を出した。8月31日、最高会議の代議員達は、野党と連帯してマフカモフ大統領の不信任を表明し、彼は退任した。

退任後、議会の終身議員。欧州・アジア経済会議のタジキスタン代表、同会議の経済政策委員会議長。

2016年6月8日、84歳で死去。

パーソナル

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レニナバード出身。妻帯、2男1女を有する。レニングラード鉱業大学を卒業(1953年)。

労働赤旗勲章を4度受章。タジキスタン功労技師。