オービル・ドライフース

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オービル・ドライフース
原語名 Orvil Dryfoos
生誕 Orvil Eugene Dryfoos
(1912-11-08) 1912年11月8日
死没 1963年5月25日(1963-05-25)(50歳)
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
教育 ダートマス大学 (B.A.)
著名な実績ニューヨーク・タイムズ』発行人
配偶者 マリアン・サルツバーガー英語版
子供 Jacqueline Hays Dryfoos Greenspon
Robert Ochs Dryfoos
Susan Warms Dryfoos Selznik
家族 アーサー・ヘイズ・サルツバーガー(義父)
アーサー・オックス・"パンチ"・サルツバーガー(義弟)
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オービル・ユージン・ドライフース(Orvil Eugene Dryfoos、1912年11月8日 - 1963年5月25日)は、1961年から1963年にかけての『ニューヨーク・タイムズ』紙の発行人である。先代の発行人であるアーサー・ヘイズ・サルツバーガーの長女のマリアン・サルツバーガー英語版と結婚し、アーサーの跡を継いだ。

若年期[編集]

ドライフースは、靴下製造業で財を成したジャック・A・ドライフースの子として生まれた。ダートマス大学で社会学を専攻し、1934年に学士号(B.A.)を取得して卒業した[1]

卒業後は、ウォール街の企業であるアシエル・アンド・カンパニーに入社した。1937年にシドニー・ルインソン・アンド・カンパニーに移籍し、ニューヨーク証券取引所の会員権を購入した。第二次世界大戦中は、リウマチ性心臓病の持病により兵役を免除され、その代わりに赤十字社ニューヨーク支部の献血委員会で働いた[2]

ニューヨーク・タイムズ[編集]

1941年7月8日、『ニューヨーク・タイムズ』発行人のアーサー・ヘイズ・サルツバーガーの娘マリアン・サルツバーガーと結婚した。アーサーもまた、アドルフ・オックスの一人娘と結婚してオックスの跡を継いでいた。アーサーは、「私はボスの娘と結婚するのに十分に賢明だった。そして君もそうだ」とドライフースに言った[2]

1942年、ドライフースはウォール街を離れ、将来『ニューヨーク・タイムズ』紙を率いる人材となるための訓練として、ニューヨーク・タイムズ・カンパニーに入社した。1年間、執筆スタッフとして数多くの仕事をこなしたが、彼が書いたものが記事になることはなかった。翌年には発行人補佐(assistant publisher)に就任した。

ドライフースは、母校ダートマス大学の評議員、フォーダム大学の一般評議員、ロックフェラー財団の評議員と執行委員、ニューヨーク観光局の理事、五番街協会の理事、1964年ニューヨーク万国博覧会の理事、会社のメセナ事業であるニューヨーク・タイムズ財団の理事長を務めた。1957年にダートマス大学から名誉修士号を、1962年にはオーバリン大学から名誉法学博士号を授与された[2]

ドライフースは1954年に副社長兼取締役に、1957年に社長に就任した。1958年にアーサーが脳卒中で倒れてからは、ドライフースは会社経営の日常業務の大部分を担当するようになった。1961年4月25日、アーサーが発行人を退任し、ドライフースがその跡を継いだ[3]

ドライフースは直ちにジョン・バートラム・オークス英語版(義祖父アドルフ・オックスの甥)を社説面の編集者に任命した。また、1961年10月31日にニューヨーク・タイムズ西部版の創刊を発表した。

死去[編集]

1962年末、ニューヨークの新聞業界で大規模なストライキが発生した。ニューヨーク・タイムズでも、スタッフが5,000人から900人にまで減少した。ドライフースはストライキの解決に向けて努力したが、労働者との交渉と、その間も新聞制作を止めてはいけないというストレスにより、ドライフースの健康状態は悪化した。ストライキは114日間続き、当時ニューヨーク・タイムズ社史上最長となった。1963年3月31日、ストライキ参加者が職場に復帰した。ドライフースはストライキ中もその参加者と友好的な関係を保ち、復職時には「仕事に戻ってきてくれてうれしいよ!」という手紙を労働者に送った[2]。ドライフースは健康の回復のためにプエルトリコで休暇を取ったが、その間に入院した。ニューヨークに戻って、すぐにコロンビア長老派教会医療センターに入院したが、1963年5月25日、心不全により50歳で亡くなった。

ドライフースの葬儀には多くのニューヨークの著名人が参列した。ドライフースと親交のあった、ワシントン特派員のジェームズ・レストン英語版が弔辞を述べた。レストンは、「ドライフースはストライキ中に命を落とし、ストライキが終わったとき、彼はついに病院に逃げ込んでそこから二度と戻ってこなかった」と述べた[4]

発行人の職はアーサー・ヘイス・サルツバーガーの長男(ドライフースの義弟)のアーサー・オックス・"パンチ"・サルツバーガーが継いだ。

私生活[編集]

ドライフースはユダヤ教改革派の信者だった。

ドライフースはアーサー・ヘイズ・サルツバーガーの娘マリアン・サルツバーガーと結婚した[5]。2人の間には3人の子供がいた[2]。長女のジャクリーン・ヘイズ・ドライフース(Jacqueline Hays Dryfoos、1943年5月8日生まれ)は心理療法士で、スチュアート・グリーンスポンと結婚し、後に離婚した[5]。長男のロバート・オックス・ドライフース(Robert Ochs Dryfoos、1944年11月4日生まれ)は、ケイティ・トーマスと結婚し、後に離婚した。次女のスーザン・ウォームズ・ドライフース(Susan Warms Dryfoos、1946年11月5日生まれ)は、ダニエル・セルズニックと結婚した。ダニエル・セルズニックは、映画プロデューサーのデヴィッド・O・セルズニックアイリーン・メイヤー・セルズニック英語版の息子である[6]

脚注[編集]

  1. ^ "Orvil Dryfoos, Publisher of The N.Y. Times". The Washington Post. (May 26, 1963): B9.
  2. ^ a b c d e "Orvil E. Dryfoos Dies at 50; New York Times Publisher". The New York Times. (May 26, 1963): 1.
  3. ^ Family Fief". Time. (April 28, 1961). Retrieved on February 4, 2008.
  4. ^ "Dryfoos Funeral Attended by 2,000" The New York Times. (May 28, 1963): 28.
  5. ^ a b New York Magazine: "Children of the Times - Who’s who in the Ochs-Sulzberger clan" retrieved September 27, 2015
  6. ^ New York Times: "Susan Warms Dryfoos, Author, Wed To Daniel Mayer Selznick, a Producer" October 9, 1989
ビジネス
先代
アーサー・ヘイズ・サルツバーガー
ニューヨーク・タイムズ発行人
1961–1963
次代
アーサー・オックス・"パンチ"・サルツバーガー