オルガ・ティス・エラザス (1903-1997)

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ギリシャ王女オルガ
ヘルマン・ゲーリングと妻エミーから歓待を受けるオルガと夫パヴレ、シャルロッテンブルク宮殿にて、1939年

オルガ・ティス・エラザス・ケ・ザニアスΌλγα της Ελλάδας και Δανίας, 1903年6月11日 アテネ - 1997年10月6日 パリ)は、ギリシャの王族女性。ゲオルギオス1世の孫娘の1人。デンマーク王女及びギリシャ王女。ユーゴスラビア王国摂政宮パヴレ王子の妻。

生涯[編集]

ギリシャ王子ニコラオスとその妻のロシア大公女エレナ・ウラジーミロヴナの長女として生まれた。名前は祖母のギリシャ王妃オルガ・コンスタンティノヴナに因む。2人の妹がおり、エリサヴェトはドイツ人カール・テオドール・ツー・テーリンク=イェッテンバッハ伯爵(ベルギー王妃の甥)に、マリーナはイギリスのケント公ジョージ王子に嫁いだ。

イギリス人のガヴァネスによって家庭内教育を授けられた。当時の王女の習いで言語、歴史、文学、数学、宮廷の社交マナー、ダンス、乗馬に重点を置いた教育を受けた。三姉妹は両親の都合で、親戚を頼って国外で過ごすことが多かった。母は実家のロシア皇帝一族と強く結びついており、父もまた親戚のデンマーク王室と親しく付き合っていた。一家はデンマーク王クリスチャン9世の子孫たちが一堂に会するコペンハーゲン郊外フヴィデレ城デンマーク語版での毎年恒例の集いにも顔を出した。

第1次世界大戦以前、オルガは何不自由ない暮らしを送ることができていた。しかし1917年、オルガが14歳のときに、伯父コンスタンディノス1世退位の煽りを受けて、ニコラオス王子一家はパリへの亡命を余儀なくされた。母エレナはロシア革命を逃れてパリに来たロシア人亡命者を援助した。

1922年、又従兄のデンマーク王太子フレゼリクと婚約したが、結婚は実現しなかった。翌1923年10月22日にベオグラードにおいて、ユーゴスラビア王子パヴレと結婚する。1934年、ユーゴスラビア王アレクサンダル1世が暗殺されると、パヴレは王の遺児で未成年のペータル2世の摂政に就任した。親独的な姿勢で知られたパヴレは、1941年に日独伊三国同盟に加盟調印したことで、親英派にクーデタ英語版を起こされて失脚した。一家は第2次世界大戦が終結するまで英領ケニアで自宅軟禁の状態に置かれた。

1975年にギリシャは共和制に移行し、オルガはギリシャ王族の身分を失った。デンマーク王女の肩書は終生保つことができた。オルガは夫に先立たれてから21年間を未亡人として過ごし、1997年に94歳で死去した。遺骸はローザンヌボワ=ド=ヴォー墓地フランス語版の亡夫の墓の隣に葬られた。

夫パヴレとの間に2男1女をもうけた。

出典[編集]

  • Centre d'Études des Dynasties Royales Européenes

引用[編集]

  1. ^ Königlicher Beobachter: Prinz Alexander von Jugoslawien (1924–2016). In: koeniglicherbeobachter.blogspot.de. Abgerufen am 15. Mai 2016.