オルイェン (駆逐艦)

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オルイェン (SMS Orjen) はオーストリア=ハンガリー帝国海軍の駆逐艦。タトラ級

艦歴[編集]

1912年9月4日、ガンツ・ダヌビウス社のPorto Réの造船所で起工。1913年8月26日進水[1]1914年8月11日竣工[2]

第一次世界大戦[編集]

タトラ級6隻は第1水雷隊を編成し、巡洋艦「サイダ」などとともに第1水雷戦隊に属していた[3]。なお、1914年10月20日に「サイダ」は「ヘルゴラント」と交代している[4]

1914年11月と12月や1915年4月に「ヘルゴラント」が駆逐艦を伴って出撃しているが[5]、「オルイェン」が参加しているかはわからない[6]

1915年2月18-19日、「ヘルゴラント」とタトラ級6隻はオトラント海峡へ出撃したが、敵を見なかった[4]

1915年5月23日、イタリアはオーストリア=ハンガリー帝国に宣戦布告。同日、オーストリア=ハンガリー帝国海軍の戦艦などは出撃し、アンコーナなどの攻撃へと向かった。それに先立つ5月19日、南からのイタリア艦隊来襲に備え偵察部隊が出撃した[7]。そのうちの一つは巡洋艦「ヘルゴラント」とタトラ級4隻(「チェペル」、「リカ」、「オルイェン」、「タトラ」)からなり、ペラゴーザ島とイタリア本土のガルガーノ岬との間へと向かった[7]。5月23から24日の夜に偵察部隊はイタリア沿岸の目標攻撃を命じられ、「ヘルゴラント」と「オルイェン」はバルレッタを攻撃した[8]。一方、5月24日4時過ぎ、バルレッタ攻撃中の「ヘルゴラント」と「オルイェン」はイタリア駆逐艦「アキローネ」、「トゥルビーネ」と遭遇[8]。「ヘルゴラント」は北へ向かった「トゥルビーネ」を追跡[8]。その後、「チェペル」、「タトラ」および「リカ」も攻撃に加わり、「トゥルビーネ」は沈没した[8]。次いでイタリア巡洋艦「リビア」と仮装巡洋艦「Cittá di Siracusa」が救援に現れ攻撃を受けたが、「リビア」を戦艦と誤認した「ヘルゴラント」艦長は交戦を避け、速度に勝るオーストリア=ハンガリー帝国側は相手の追跡を振り切った[9]

7月28日、オーストリア=ハンガリー帝国海軍は巡洋艦「サイダ」、タトラ級駆逐艦6隻などでイタリアが7月11日に占領したペラゴーザ島に対する攻撃を実施[10]。砲撃後に108名を上陸させたが、オーストリア=ハンガリー帝国側は敵兵力を過小評価しており、撃退された[11]。8月17日、オーストリア=ハンガリー帝国海軍は巡洋艦「ヘルゴラント」と「サイダ」や「オルイェン」などで再びペラゴーザ島を攻撃[12]。真水のタンクないし貯水池[13]などを破壊し、この攻撃後イタリア軍は島から撤退した[14]

10月、オーストリア=ハンガリー帝国軍やドイツ軍はセルビアに対する攻勢を開始[15]。続いてブルガリア軍もセルビアに侵攻し、セルビアへのサロニカからの補給ルートを切断[16]。アドリア海側からのルートがその代わりとなり、その切断がオーストリア=ハンガリー帝国海軍に求められた[17]。11月22日に「ヘルゴラント」と「サイダ」やタトラ級駆逐艦などは出撃してオトラント海峡へ向かい、2隻の船(「Palatino」、「Gallinara」)を沈めた[18]。この後、タトラ級駆逐艦は巡洋艦「ヘルゴラント」や「ノファラ」などとともにカッタロへ移された[19]。12月6日、「ヘルゴラント」、「サイダ」[20]とタトラ級駆逐艦はドゥラッツォ港を攻撃した[21]

1916年1月27日、ドゥラッツォ港内に艦船が発見されたことを受けて「ノファラ」と「オルイェン」、「チェペル」が攻撃に向かったが、「オルイェン」と「チェペル」は衝突事故を起こし引き返した[22]。「オルイェン」の艦首は曲がり、2月16日まで修理が行われた[23]

5月31日、「ヘルゴラント」、「オルイェン」、「バラトン」、水雷艇3隻(または「オルイェン」、「バラトン」、水雷艇「77T」、「79T」、「81T」[24])はオトラント堰襲撃を行い[25]、「オルイェン」がドリフター「Beneficient」を沈めた[24]。7月3日にも「ヘルゴラント」、「バラトン」、「オルイェン」、「タトラ」、水雷艇「83F」、「85F」、「87F」がオトラント海峡へ出撃したが、成果はなかった[26]

敵を潜水艦が待ち構える場所へ誘い出すべく、8月29日に装甲巡洋艦「ザンクト・ゲオルク」、「カイザー・カール6世」などからなるグループと巡洋艦「ノファラ」、「ヘルゴラント」、駆逐艦「オルイェン」、「バラトン」からなるグループがイタリア沿岸を攻撃しようとしたが、濃霧のため攻撃を実施できずに終わった[27]

10月1日から22日まで「オルイェン」はポーラで修理[28]

1917年3月11から12日の夜、オトラント海峡へ向かった「タトラ」、「バラトン」、「オルイェン」、「チェペル」はフランス船「Gorgone」[29]と遭遇したが沈められずに終わった[30]

3月30日から5月14日まで「オルイェン」はボイラー2基の交換を行った[28]

8月11日、行方不明となった飛行艇K222の捜索に参加[28]

1918年2月1日、カッタロ湾在泊の装甲巡洋艦「ザンクト・ゲオルク」などで反乱が発生[31]。しかし、軽巡洋艦や駆逐艦(「オルイェン」もカッタロ湾在泊[32])は反乱には加わらなかった[31]

終戦とその後[編集]

1918年10月、オーストリア=ハンガリー帝国は崩壊し始め、30日に皇帝カール1世は艦隊のザグレブの国民評議会への引き渡しを決めた[33]。しかし、戦後大半の艦艇は連合国間で分配されることとなった[34]

「オルイェン」はイタリアに与えられ、1920年9月26日に「Pola」という名前で就役。1931年4月9日、「Zenson」と改名。1937年5月1日に廃棄となり、その後解体。[28]

脚注[編集]

  1. ^ Greger, p. 44
  2. ^ Austro-Hungarian Cruisers and Destroyers 1914-18, p. 23
  3. ^ The Great War in the Adriatic Sea 1914-1918, pp. 69-70
  4. ^ a b Austro-Hungarian Cruisers in World War One, p. 184
  5. ^ The Great War in the Adriatic Sea 1914-1918, pp. 119-120, 122, 150
  6. ^ The Great War in the Adriatic Sea 1914-1918には艦名や艦名が特定できることが書かれていないため
  7. ^ a b Austro-Hungarian Cruisers and Destroyers 1914-18, p. 29
  8. ^ a b c d Austro-Hungarian Cruisers and Destroyers 1914-18, p. 30
  9. ^ The Great War in the Adriatic Sea 1914-1918, pp. 171-172
  10. ^ The Great War in the Adriatic Sea 1914-1918, p. 186, Austro-Hungarian Cruisers and Destroyers 1914-18, p. 32
  11. ^ Austro-Hungarian Cruisers and Destroyers 1914-18, p. 32
  12. ^ The Great War in the Adriatic Sea 1914-1918, pp. 188-189
  13. ^ 英語ではfreshwater cistern
  14. ^ A Naval History of World War I, p. 150
  15. ^ A Naval History of World War I, p. 152
  16. ^ A Naval History of World War I, pp. 152-153
  17. ^ Austro-Hungarian Cruisers and Destroyers 1914-18, p. 32, A Naval History of World War I, p. 153
  18. ^ The Great War in the Adriatic Sea 1914-1918, p. 205
  19. ^ A Naval History of World War I, p. 154
  20. ^ A Naval History of World War I, p. 154などでは「サイダ」の名前はない
  21. ^ Austro-Hungarian Cruisers and Destroyers 1914-18, p. 33
  22. ^ Clash of Fleets, First Aborted Raid on Durazzo
  23. ^ Bilzer, p. 121
  24. ^ a b The Great War in the Adriatic Sea 1914-1918, p. 235
  25. ^ Austro-Hungarian Cruisers and Destroyers 1914-18, p. 36
  26. ^ The Great War in the Adriatic Sea 1914-1918, p. 238
  27. ^ Austro-Hungarian Cruisers and Destroyers 1914-18, pp. 36, 38
  28. ^ a b c d Bilzer, p. 124
  29. ^ Austro-Hungarian Destroyers in World War One, p. 115にはフランス潜水艦「Gorgone」がこの部隊を発見したが、敵かどうかわからなかったため攻撃しなかった、とある
  30. ^ Clash of Fleets, Adriatic 1917, "The Naval War in the Adriatic, Part 2", p. 67
  31. ^ a b Austro-Hungarian Cruisers and Destroyers 1914-18, p. 43
  32. ^ The Great War in the Adriatic Sea 1914-1918, p. 358
  33. ^ The Great War in the Adriatic Sea 1914-1918, p. 396
  34. ^ A Naval History of World War I, p. 177

参考文献[編集]

  • Bilzer, Franz F. (1990). Die Torpedoschiffe und Zerstörer der k.u.k. Kriegsmarine 1867–1918. Graz: H. Weishaupt. ISBN 3-9003-1066-1 
  • Cernuschi, Enrico & O'Hara, Vincent (2016). “The Naval War in the Adriatic, Part 2: 1917–1918”. In Jordan, John. Warship 2016. London: Conway. pp. 62–75. ISBN 978-1-84486-326-6 
  • Greger, René (1976). Austro-Hungarian Warships of World War I. London: Ian Allan. ISBN 0-7110-0623-7 
  • Halpern, Paul G. (2004). The Battle of the Otranto Straits: Controlling the Gateway to the Adriatic in World War I. Bloomington, Indiana: Indiana University Press. ISBN 0-253-34379-8 
  • Halpern, Paul G. (1994). A Naval History of World War I. Annapolis, Maryland: Naval Institute Press. ISBN 1-55750-352-4 
  • Noppen, Ryan K. (2016). Austro-Hungarian Cruisers and Destroyers 1914-18. New Vanguard. 241. Oxford, UK: Osprey Publishing. ISBN 978-1-4728-1470-8 
  • O'Hara, Vincent P. & Heinz, Leonard R. (2017). Clash of Fleets: Naval Battles of the Great War, 1914-18. Annapolis, Maryland: Naval Institute Press (電子版)
  • Zvonimir Freivogel, The Great War in the Adriatic Sea 1914-1918, Despot Infinitus, 2019, ISBN 978-953-8218-40-8
  • Zvonimir Freivogel, Austro-Hungarian Cruisers in World War One, Despot Infinitus, 2017, ISBN 978-953-7892-85-2
  • Zvonimir Freivogel, Austro-Hungarian Destroyers in World War One, Despot Infinitus, 2021, ISBN 978-953-366-051-6