オットー・ツー・ヴィンディシュ=グレーツ

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オットー・ツー・ヴィンディシュ=グレーツ
Otto zu Windisch-Graetz
ヴィンディシュ=グレーツ侯オットー、1901年

称号 侯爵
出生 (1873-10-07) 1873年10月7日
オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国グラーツ[1]
死去 (1952-12-25) 1952年12月25日(79歳没)
スイスの旗 スイスルガーノ
配偶者 エリーザベト・マリー・フォン・エスターライヒ
子女 フランツ・ヨーゼフ
エルンスト
ルドルフ
シュテファニー
家名 ヴィンディシュ=グレーツ家
父親 エルンスト・フェルディナント・ツー・ヴィンディシュ=グレーツ
母親 カミーラ・ツー・エッティンゲン=シュピールベルク
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オットー・ヴェーリアント・フーゴー・エルンスト・ツー・ヴィンディシュ=グレーツドイツ語: Otto Weriand Hugo Ernst Prinz (Fürst) zu Windisch-Graetz, 1873年10月7日 - 1952年12月25日)は、オーストリア=ハンガリー帝国貴族、軍人。「赤い大公女(rote Erzherzogin)」と呼ばれたエリーザベト・マリー・フォン・エスターライヒの最初の夫である。

第一次世界大戦後、1919年4月に貴族廃止法ドイツ語版成立に伴ってオーストリアの貴族制度が否定されると、これを嫌ってユーゴスラビア王国の国民となることを選んだ[2]

生涯[編集]

ヴィンディシュ=グレーツ侯子エルンスト・フェルディナントと、その妻でエッティンゲン=エッティンゲン侯及びエッティンゲン=シュピールベルク侯オットーの娘カミーラ(1845年 - 1888年)の間の次男として生まれた。

1891年メーリッシュ=ヴァイスキルヒェン騎兵幼年士官学校ドイツ語版に入学し、2年後、あまり芳しい成績を残せないまま卒業。1894年・1895年にオロモウツの旅団附属士官学校(Brigadeoffiziersschule)で学び、1895年5月1日少尉に任官。ブルノに2年駐屯し、1899年中尉に昇進した後、軍事大学校(Kriegsschule)で学び、優良な成績で1901年に同校を卒業[3]。第一次世界大戦中はチロル猟兵大隊を率いて戦った。

1900年9月、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の孫娘で、亡き皇太子ルドルフの一人娘のエリーザベト・マリー大公女と恋に落ちた。ヴィンディシュ=グレーツ家は高級貴族とはいえシュタンデスヘル家門に過ぎないため、大公女の嫁ぎ先としては同格出生の基準を満たせなかった。1902年1月23日ウィーンで2人が結婚した際、大公女は慣習として帝位継承権を放棄する文書に署名したが、一方で、皇帝の孫娘に対する特別な計らいによって、オットーは結婚に伴い一代限りの侯爵(フュルスト)の爵位を与えられた。

夫妻の結婚生活は上手くいかず、1919年[4]又は1924年[5]に別居、1948年正式離婚した。間に生まれた4人の子供の養育権をめぐり、2人は長年にわたる法廷闘争を行った[4][5]

オットーは非常に優れた騎手だっただけでなく、水泳、体操、フェンシングについても玄人はだしであった。1911年オーストリア総合スポーツ中央連盟(Österreichischen Zentralverband für gemeinsame Sportinteressen)会長に就任したが、この連盟は同時に同国のオリンピック委員会(Olympischen Komitee)としても機能していた。この資格により、1911年の国際オリンピック委員会(IOC)の委員に任命された。彼は1914年にパリで開かれたIOCの会合において、最も身分の高い貴族出身の委員であると報道された[6]

第一次世界大戦中は、国際組織のIOCのメンバーだったことが災いし、オーストリア国内で公的役割を果たすことは出来なかった。IOCは大戦後の1921年の会合においてオットーを委員として復帰させようとしたが、オットーはもはやオーストリア国内に居住していないことを理由にこれを拒否している[2]

第一次大戦後、ユーゴスラビア王国国籍を選択し、ユーゴスラビア王アレクサンダル1世から与えられた上部クライン地方ブレッド(現スロベニア)近辺の所領に住んだ。第二次世界大戦が始まると、パール侯家ドイツ語版に嫁いでいた妹エレオノーレ[注釈 1]が所有するボヘミアの城館で生活した。第二次大戦後はスイスに移り、ローザンヌを主な生活拠点とした[2]。1952年にルガーノで死去[1]、墓地はルガーノ市カスタニョーラ英語版地区にある。

子女[編集]

妻エリーザベトとの間に3男1女。子供たちは両親と共に1919年に貴族称号を失っている[注釈 2]

  • フランツ・ヨーゼフ・マリー・オットー・アントニウス・イグナティウス・オクタヴィアヌス[注釈 2](1904年 - 1981年[3]) - 1934年伯爵令嬢ギスレーヌ・ダールスホット・ショーンハーフェンと結婚
  • エルンスト・ヴェーリアント・マリア・オットー・アントニウス・エクスペディトゥス・アンセルムス[注釈 2](1905年 - 1952年[3]) - 1927年エレン・スキナーと結婚(1938年離婚)、1947年男爵令嬢エーファ・フォン・イスバリと再婚
  • ルドルフ・ヨハン・マリア・オットー・ヨーゼフ・アントン・アンドレアス[注釈 2](1907年 - 1939年[3]
  • シュテファニー・エレオノーレ・マリア・エリーザベト・カミーラ・フィロメナ・ヴェロニカ[注釈 2](1909年 - 2005年[3]) - 1933年ピエール・ダルカンタラ・ド・ケリュフランス語版伯爵と結婚(夫は1944年オラニエンブルク強制収容所で死去)、1945年カール・アクセル・ビョルクルンドと再婚

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ エレオノーレ(1878年 - 1977年)は1901年パール侯カール(1834年 - 1917年)の長子パール伯アルフォンス(1868年 - 1903年)に嫁いだが2年後に死別、夫の死の3か月後に出産した息子アルフォンス(1903年 - 1979年)が、1917年に祖父よりパール侯家の家督を継いでいた。
  2. ^ a b c d e 1918年に樹立されたオーストリア第一共和国で1919年4月に議会を通過した貴族廃止法ドイツ語版により、ヴィンディシュ=グレーツ家も貴族称号と姓に「ツー(zu)」の前置詞を付ける権利を失った。

出典[編集]

  1. ^ a b Fußnote 209:
    Otto Prinz v. Windisch-Graetz (Graz, 7.10.1873–25.12.1952, Lugano).
    In: Peter Broucek (Hrsg.): Ein General im Zwielicht. Die Erinnerungen Edmund Glaises von Horstenau. Band 1: K. u. K. Generalstabsoffizier und Historiker. (= Veröffentlichungen der Kommission für neuere Geschichte Österreichs, Band 67). Böhlau, Wien/Köln/Graz 1980, ISBN 3-205-08740-2, S. 200 (オットー・ツー・ヴィンディシュ=グレーツ, p. 200, - Google ブックス).
  2. ^ a b c Buchanan/Lyberg: 72. Prince Otto Hugo Ernest de Windisch-Grätz. In: JoH Special: The biographies of all IOC Members – Part IV Journal of Olympic History 18, April 2010, Number 1, S. 56–57 (englisch; Volltext Online (Memento vom 12. 9月 2016 im Internet Archive). PDF; S. 8–9).
  3. ^ a b c d e Friedrich Weissensteiner: Die rote Erzherzogin. Das ungewöhnliche Leben der Elisabeth Marie, Tochter des Kronprinzen Rudolf. Piper, München/Berlin 1993, ISBN 978-3-492-24538-8, S. 77, S. 123 f., S. 223–227.
  4. ^ a b Petznek, Elisabeth Erzherzogin Elisabeth Marie. In: dasrotewien.at – Weblexikon der Wiener Sozialdemokratie. SPÖ Wien (Hrsg.); abgerufen am 17. August 2019
  5. ^ a b Elisabeth Marie Petznek im Wien Geschichte Wiki der Stadt Wien
  6. ^ Arnd Krüger: Forgotten Decisions: The IOC on the Eve of World War I. In: OLYMPIKA: The International Journal of Olympic Studies. Volume VI, 1997, S. 85–98. Hier: Chaos at the Sessions, S. 90 (englisch; Volltext Online (Memento vom 7. 10月 2018 im Internet Archive). PDF; S. 6).

参考文献[編集]

  • Friedrich Weissensteiner (1993) [1984 Österreichischer Bundesverlag Wien], Die rote Erzherzogin. Das ungewöhnliche Leben der Elisabeth Marie, Tochter des Kronprinzen Rudolf [Die rote Erzherzogin. Das ungewöhnliche Leben der Tochter des Kronprinzen Rudolf] (ドイツ語), München/Berlin: Piper, pp. 77, S. 123 f., S. 223–227, ISBN 978-3-492-24538-8
  • Ghislaine Windisch-Graetz (1992), Kaiseradler und rote Nelken. Das Leben der Tochter des Kronprinzen Rudolf (ドイツ語), Wien/München: Amalthea, ISBN 3-85002-264-1