オスカー・スレイター事件
オスカー・スレイター事件(オスカー・スレイターじけん、英語: The Case of Oscar Slater)は、1908年にスコットランドで発生した殺人事件である。グラスゴーに住む裕福な老婦人が撲殺され、ユダヤ系ドイツ人のオスカー・スレイターが国外逃亡犯としてアメリカで逮捕された。スレイターは一貫して無実を主張したが、裁判では多数の目撃証言を決め手として有罪とされ、死刑判決を下された。
しかし、裁判に対する疑問から集まった助命嘆願によりスレイターは終身刑に減刑され、小説家のアーサー・コナン・ドイルを始めとした多くの著名人も事件の冤罪性を訴えてスレイターを支援した。さらに捜査に加わっていた現職警官も真犯人の存在を指摘する内部告発を行い、政府による事件の再調査も行われた。再調査ではスレイターに対する有罪判決は覆らなかったものの、その後重要な目撃証人たちが相次いで証言を撤回し、冤罪を訴える声が高まったことにより政府は事件に対する控訴を認める特別法を定めた。そして、事件発生からおよそ20年が経過した1928年にスレイターは控訴審で無罪判決を受け、事件は冤罪と認められた。
目次
事件[編集]
事件の被害者となったのは、グラスゴー西部、クィーンズ・テラス15号(下図参照)に在するフラットの2階に住んでいた[2]、当時83歳の[3][4]独居女性である。被害者は多くの宝石や貴金属を自宅に持っており、周囲からは盗品の故買をしていると無根拠に噂されていた[5][6][7]。用心深い性格の彼女は物盗りを恐れ、玄関ドアに3つの錠とチェーンを付けていた[3][8]。
1908年12月21日の夕方、被害者は使用人であったH・L(後のエディンバラでの裁判では検察側証人38号となった。以下同じ)に使いを頼み、H・Lは玄関に鍵をかけ、被害者を一人室内に残して10分ほどの予定で外出した[9]。19時頃、被害者の真下の部屋の住人であるA・A(検察側証人40号)が物音を聞きつけて上階の被害者宅へ向かった[10]。それと同時刻に使いから戻ったH・Lも異常を察知し、玄関の鍵を開けると、室内から「立派な身なりをした」「とても愛想のいい様子」の男が現れ、2人の横をすり抜けて階段を駆け下りていった[11]。A・Aは男を追いかけたが、見失った[12]。その直後、フラットが面するウェスト・プリンセス・ストリートを歩いていた当時14歳の[13][14]少女M・B(検察側証人43号)が、フラットから走り出てきた男に体をぶつけられている[15]。M・Bは男の顔をおよそ2秒間目撃した[16]。さらに19時8分頃にも、フラットの表通りを歩いていた市民(検察側証人46号)が、2人の男が通りを駆けてゆくのを目撃した[17]。
室内に残された被害者は頭部と胸部を強く撲られており、ほどなく死亡した。被害者の壊された書類箱から中身が部屋中にばら撒かれていたが、宝石箱から無くなったものはダイヤ入りの三日月型ブローチ[注 1]が一つだけで、その他テーブル上に放置されていたものを含めた1382ポンド25シリング相当(元の購入金額はこの2倍以上とされる[19])[注 2]の宝石や貴金属は手つかずのままだった[22]。
3人の証言を総合したグラスゴー市警は、H・L、A・Aの目撃した男とM・Bの目撃した男は別人であると判断し、12月25日に次のような2人分の人相書を作成している[23][24][注 3]。
同日、とある市民(検察側証人65号)が、自分の通っているクラブの仲間であるオスカー・スレイター (Oscar Slater) というユダヤ系ドイツ人が「ダイヤ入りの三日月型ブローチ」の質札をしきりに売りたがっている、と市警に通報した[25]。そのブローチは実際には事件の1か月前から質入れされていた[26]スレイターの愛人の物であり[27]、市警も事件の翌日にはそれを認識していた[28]。しかし、スレイターが通報のあった日に住居を引き払い、愛人とともに偽名でルシタニア号に乗って[注 4]リヴァプールからニューヨークへ出国していたことを知った市警は、これを高飛びと判断し、スレイターに対して逮捕状を発行し、200ポンドの賞金を懸けた[33]。市警自身が「混同せぬように」と念押しまでしていた[34]2人分の人相書は、以降スレイター1人のものとして纏められた。
オスカー・スレイター[編集]
スレイターは1872年1月8日にプロイセン王国シュレージエン州オペルンで、オスカー・ヨーゼフ・レシュツィナー (Oscar Joseph Leschziner) として、パン屋を営むユダヤ人の両親の下に生まれた[35][36]。本人の弁によれば6人兄弟の1人で、かつてはハンブルクの銀行にも勤めていたが、徴兵年齢に達する頃にそれを逃れてイギリスへ渡ったという[35]。名前を変えたのはイギリス人にも発音しやすくするためだが[35]、その他に「ジョージ」や「アンダーソン」などの偽名も使い分けていた[37][38]。表向きには宝石商と歯科医を名乗っていたが[39]、実際にはあちこちの街を渡り歩いて賭場を経営しており[35][40]、愛人に売春をさせて生活しているとも噂されていた[41]。
事件当時のスレイターは37歳手前、身長5フィート8インチで[23]がっしりとした体格を持ち[42]、紛れもない外国人の風貌[43]と特徴ある鼻[注 5]をした男だった。
裁判[編集]
ニューヨーク裁判[編集]
12月29日に国際電報がアメリカへ打たれ[52]、スレイターは年をまたいだ1909年1月2日にニューヨーク港で逮捕された[53]。その時にスレイターが持っていた荷物の中からは、子鹿色の防水製オーバーコート[54]、黒っぽいフェルトのハット(ドニゴールではない[55])、そして頭部長3.5インチのハンマーが発見されている。
アメリカ側がスレイターの送還を許可するのを待てず、グラスゴー市警はH・L、A・A、M・Bの3人をニューヨークへ向かわせた[56]。A・Aは、自分は近視なので役に立てない、と抗弁したが、聞き入れられなかった[56]。この時、H・LとM・Bはニューヨークまでの船旅を、12日間[57]同じ船室で過ごしている[58](ただし、2人は証言について口裏を合わせたことはないと主張している[59][60][61])。
スレイターのイギリスへの引き渡しを求める裁判は、1月19日から連邦地方庁舎で開かれた[62]。審理の直前、護送されてきたスレイターと法廷の前ですれ違ったH・LとM・Bが、「あの男が法廷に入ってゆくわ」と同時に同じ言葉を口にした、と2人に付き添っていたグラスゴー市警警部(検察側証人50号)は後に述べた[63]。しかし、このときスレイターを護送していた裁判所職員は、イギリス側の代理人が2人に合図を送っていたと語っている[64]。
3人の目撃者はニューヨークの法廷でそれぞれ次のように語った。
- H・Lの証言
- 判事から犯人についての詳しい説明を求められたH・Lは、「顔は分かりません。顔は一度も見ませんでした」「見たのは歩き方です」[65]と述べ、識別の根拠はその男の特異な歩き方であると説明した(ただし、H・Lが犯人が歩く姿を目撃できたのは3、4ヤード分である[66])。その後、廷内の人間から犯人を選ぶように言われたH・Lは「言いたくはないのですが」とためらい、判事との押し問答の末に「とても怪しい人」としてスレイターを指さした[65]。
- M・Bの証言
- 同様の質問に対してM・Bは、ためらうことなくスレイターを指さし「とてもよく似ています」と述べ、識別の根拠はその鼻である、とも述べた[67]。
- A・Aの証言
- A・Aはスレイターを指さして「あの男に全く似ていないわけではありません」としたが、「はっきりと断言はできません」と述べた[68]。「犯人の曲がった鼻に気が付いたか」「歩き方に目立った点はあったか」との質問にはどちらも「いいえ」と答えた[68]。
スレイターの弁護士は、スレイターが強制送還される法的根拠はないと主張した[69]。しかしスレイターは「自分には何ひとつやましい点はない」と述べ[69]、送還を拒否する権利を放棄して自発的にスコットランドへ戻った[70]。
エディンバラ裁判[編集]
スコットランドでの裁判に先立つ2月末から3月初め、グラスゴー市警中央署に市民たちを呼び寄せてのパレード(複数人から犯人を選ばせる形式の面通し)が行われた。その結果、ニューヨーク帰りの3人に加えて12人の市民と警官(検察側証人24号-28号、30号-33号、42号、48号、54号)が、スレイターを含めた12人の男が並ぶ中から、スレイターを「事件の数週間前から現場周辺をうろついていた不審な男」として識別した[71]。しかし、この面通し以前からスレイターの外国人風の顔は新聞の写真で広く知られており[72]、さらに識別対象とされた12人の男の中で外国人風の顔をした者はスレイター一人だけだった[73]。加えて、市民たちの目撃証言が正確であったとしても、そもそもスレイターの自宅は事件現場から4分の1マイルの距離にあった(下図参照)。このような面通しの方法は不公正ではなかったかと後の裁判で弁護側に尋ねられたジョン・トムソン・トレンチ(John Thomson Trench 、グラスゴー市警中央地区刑事部士官・検察側証人75号)は、「それはいちばん公平な方法かもしれませんが、グラスゴーでの習慣ではありません」[74]と述べた。
スレイターに対する公判は、エディンバラの高等法院 (en) で5月3日から開始された。チャールズ・ジョン・ガスリー (en) が判事となり、検察側には3名の検察官と1名の代理人が、弁護側には2名の弁護士と1名の代理人が付いた[76]。主任検察官は法務次官 (en) のアレクサンダー・ユア (en) が務めた[76]。4日間続いた審理では検察側から60人、弁護側から14人の証人が証言台に立った[77]。
目撃証言[編集]
前述のように、検察側には多数の目撃証言が揃っていた。しかし、重要な証人であるH・Lの供述は変遷した。H・Lはスレイターが犯人であると断言し[78]、ニューヨークの法廷でスレイターの識別をためらったこと自体を否定した[79]。弁護側から「アメリカでは何を根拠にスレイターを識別したのか」と尋ねられると、「歩き方と背の高さと、黒っぽい髪と、それに横顔です」と答えた[80]。弁護側が証言の変遷を追及すると、「ですから今言っているんです」と述べて沈黙した[81](ガスリー判事は後日、H・Lを評して「知的容量の少ない、浅薄で無分別な女性」[82]と述べている)。
残る2人の証人のうち、M・Bは証言を「とてもよく似ている」から「疑いがない」に変更し[83]、A・Aは警察署でも高等法院でも一貫して「非常によく似ている」とだけ述べて断言を避けた[84]。なお、H・Lが語った犯人の特異な歩き方については、M・BとA・Aは、犯人の歩き方に目に付く点はなかったと述べ[85]、3人に付き添ってニューヨークまで出向いたグラスゴー市警警部(前述の検察側証人50号)は、スレイターの歩き方に特徴はないと証言した[86]。同じく証人たちにニューヨークまで同行した裁判所書記官(検察側証人80号)は、足元を注視していればその特徴に気付くだろうと述べた[87]。
一方で、事件直後にフラットの表で2人の男を目撃したと証言していた前述の市民は、検察側から46号という番号まで与えられながら法廷に喚問されることはなかった[88][89](ただし、警察署での面通しでは彼女も、目撃した男の片方がスレイターだったと識別している[17])。
犯人の髭については、M・BとA・Aは剃っていたと証言した[90]。これについて弁護側は、事件後の21日深夜から25日までに会ったスレイターがかなり目立つ口髭を生やしていたのを見た証人が複数(検察側証人19号、20号、23号(この3名は実際には弁護側で証言した)、35号、62号、検察側証人13号兼弁護側証人9号(実際には弁護側のみで証言した)、弁護側証人11号)[91]いると反論した。
さらに弁護側は、事件当夜に現場から1マイルほど離れたビリヤード場(下図参照)で18時30分頃までスレイターと一緒だったという2人(前述の検察側証人19号、23号)の証言[92]から、スレイターのアリバイを主張した(ただし、この2人は時刻を時計で確かめてはいない[93]。加えてスレイターは足が速かったという[94])。また、スレイターの愛人(弁護側証人1号)と使用人(前述の弁護側証人11号)も、スレイターは事件当日の夜7時に自宅で夕食をとっていたと証言している[95]。さらに、スレイターは事件直後の21時45分頃、行きつけの市内のクラブ(下図参照)に子鹿色の防水製オーバーコートと灰暗色のドニゴール・ハット姿で現れているが、そのときの着衣には何の乱れもなかったとクラブの主人(前述の検察側証人62号)は証言した[96]。
物証[編集]
スレイターの荷物から発見された衣類とハンマーは重要な物証と考えられ、検察側3人、弁護側2人の計5人の医師によって鑑定が行われた。子鹿色の防水製オーバーコートについて、H・LとM・Bはそれが自分の見たものと似ていると述べた[97]。しかし、事件現場は部屋中が血まみれになっていた[98]にもかかわらず、オーバーコートから血液と断定できるものは発見されなかった[99]。黒のハットも同様だった[100]。ハンマーについても、オーバーコートと同様に哺乳類の赤血球に似た微粒子が検出されていたが、それは血液と断定できるほどの量ではなかった[100]。また弁護側も、街の金物屋で売られていた2シリング6ペンスの家庭用道具セットの中のもの[101]のような凶器では、被害者の脳を辺りに飛び散らせるほどの[102]損傷は与えられないと主張した。
しかし、鑑定人たちの意見は多様だった。グラスゴー大学法医学教授(検察側証人57号)は、屈強な男が老女を撲るのであればそのような凶器でも犯行は可能であると述べ[103]、凶器の形も被害者の傷跡と完全に一致し[103]、加えてハンマーにはサンドペーパーをかけた跡があるとした[104]。ケンブリッジの公衆衛生専門医(検察側証人58号)は、小さなハンマーでも犯行は不可能ではないが、「アプリオリに」「肉屋の大包丁」を凶器と想像したと述べた[105]。エディンバラ大学医学・理学博士(弁護側証人番外)は、ハンマーの形は被害者の傷口と全く一致しないと述べ、凶器は重量のある火かき棒のようなものであるとした[106]。また、ハンマーに何かしら手を加えた痕跡は一切ないとも述べた[106]。一方で、事件直後に警察に呼ばれて最初に被害者の検死を行った市内の医師は、被害者が現場にあった椅子で撲殺されたものと確信した[107]。通常、遺体を最初に検分した医師は裁判で検察側の証人とされる慣例があったが、この医師の証言はなぜか一切採用されなかった[108][109]。椅子には血の手形がはっきりと付いていたが、それもなぜか証拠として提出されなかった[110][注 6]。
傍証[編集]
目撃証言と物証の他にも、スレイターが事件直後に偽名でアメリカへ出国したことは国外逃亡と見なされ、間接証拠として検察側に取り上げられた。検察側は、列車でグラスゴーを発ったスレイターと愛人が、追手をまくためにロンドンまでの切符を買ってリヴァプールで途中下車したと主張した。12月25日のカレドニアン鉄道グラスゴー・セントラル21時5分発ロンドン・ユーストン行列車には、普段は連結されていないリヴァプール・ライム・ストリート直行の車両が付いていた[113][114]。その列車の切符はリヴァプールまでの片道切符が2枚、ロンドンまでの片道切符が2枚販売されていたが、セントラル駅の駅員(検察側証人72号)は、スレイターに非常によく似た、口髭を生やした男にロンドンまでの切符を2枚売ったと証言した[113]。
しかし、スレイターの荷物には最初からリヴァプールへの荷札が付けられており[115][116]、リヴァプールまで売れた切符が2枚であるのに対して、そこで列車を降りた乗客もスレイターと愛人の2人しかいなかった[117]。加えて、スレイターは23日に市内の旅行代理店で店員(検察側証人64号)に本名と住所を告げてルシタニア号のチケットを予約している(ただし、チケットの受け取りには現れなかった)[118][119]。25日の出発直前にも、行きつけの理髪店で理髪師(前述の検察側証人35号)に、仕事がないのでルシタニア号でグラスゴーを発つと話し[120]、さらには事件の数週間前からクラブ仲間たち(検察側証人61号、前述の検察側証人20号)に対して自身のアメリカ行きを触れまわっていた[121]。以上のことから弁護側はスレイターに高飛びの意図はなかったと反論した。
結審[編集]
様々な議論の末に、5月6日、審理は最終日を迎えた。検察側、弁護側双方の証人尋問が終了し、残すところは双方の最終弁論、そして陪審に向けた裁判官説示ばかりとなった。
ユア法務次官は、2時間にわたる検察側最終弁論をメモも持たずに喋り通した[122]。これについて著名な法廷弁護士のエドワード・マーシャル・ホールは後に「だからあんなに間違いが多かったんだろうよ」[123]と語っているが、事実その弁論には次のような箇所がある[124]。
二四日の午後この男は、すぐにも大陸を発とうとしておりましたので、クック案内所へやって来ます。(中略)係員(前述の検察側証人64号)は次の日にまた来てほしいと言い、男も次の日の二五日にまた来ることを同意します。しかし、その二五日にはまったく現れなかったのです。さて、いいですか、みなさん、このとき男はグラスゴーのクック案内所の係員に自分の名をオスカー・スレイターだと教えていました。二五日に――つまりクック案内所にまた行くことになっていたその日に――この男の名前、人相書、その他すべてのものがグラスゴーの新聞に出ているのです。ですから、この男にとって絶対にしてはならぬことは、それはもし自分の身の安全をはかるならば、そのクック案内所へオスカー・スレイターとして戻って行ってはならぬことだと考えます。
検察側はあくまでスレイターの高飛びを主張し、新聞に名前が載せられてから突然スレイターが姿を消したことを論拠とした。しかし25日はスレイターがクラブ仲間によって警察に通報された当日であって、その名前が新聞に載せられたのはさらに1週間後のことである[125][126]。また、スレイターが住居を引き払ったのはクラブ仲間の通報よりも前の時刻である[127]。さらにユアは最終弁論になって初めてスレイターと被害者の関係について言及し、「この婦人がこうした宝石類を所有していたことを如何にして被告人が知るようになったか、それはあとで説明することにします」[128]と述べた。そして、説明せずに弁論を終えた[129][130]。
対する弁護側は、先入観を捨て事実のみに基いて評決を下すよう陪審に語りかけた[131]。しかし、その直後の裁判官説示でガスリー判事は、陪審に向けて「被告人は己が身を養うのに男たちの零落によったり、女たちの堕落を喰いものにしたりして、多くのゴロツキでさえも敢えてしようとはせぬやり方で過去数年を送って来ました」[132]と、審理で証明されなかった[133][134]ことを事実であるかのように語った。それにとどまらず「その男の生活は何年ものあいだウソであったばかりでなく、今日もウソなのです」[135]と人格攻撃を行い、「このような類の男には、あの自己に有利な無罪の推定を受けるという恩恵が与えられないからです」[136]として無罪推定の原則を否定してみせた。
以上の最終弁論と説示を聞き終えた陪審団は、70分間の合議の後、有罪9票、「証明なし」5票、無罪1票の過半数でスレイターを有罪と評決し[137][138][注 7]、ガスリー判事はスレイターを5月27日にグラスゴー刑務所で処刑すると言い渡した[141][注 8]。
判決の際、スレイターは覚束ない英語で叫んだ[140]。
私は、そのいきさつは何も知らない。まったく何も知らないんです。名前すら耳にしたことはありません。私は、そのいきさつは何も知らない! どうして私をそのいきさつと結びつけるのか、私にはわかりません! 私は、そのことについては何も知らないのです。私は個人的な用件でアメリカからきていたのです!(そして――)もうこれ以上は何も言えません
支援の声と再調査[編集]
グラスゴー刑務所へ送られたスレイターは処刑を待つばかりとなった。しかし、裁判に対する疑問から助命嘆願に2万人を超す署名が集まり[144]、5月25日夜に[145]、スコットランド大臣ジョン・シンクレアによってスレイターは「国王陛下より御沙汰のあるまで」終身刑に減刑された[143]。7月8日にスレイターはピーターヘッド刑務所 (en) へ移監された[146]。
翌1910年4月、スコットランドの事務弁護士であり在野の犯罪学者であるウィリアム・ラフヘッド (en) が、『オスカー・スレイター裁判』(Trial of Oscar Slater) [注 9]を発表し、裁判の欠陥を指摘した。この書籍はエドワード・マーシャル・ホールや後のイギリス首相ラムゼイ・マクドナルドなど多くの著名人に影響を与え、その中には名高い小説家のアーサー・コナン・ドイルも含まれていた[36]。
もともとドイルは、1903年のジョージ・エダルジ事件[注 10]でも犯人とされた男性を救うなど、冤罪事件に関しては実績を持っていた。愛国者のジェントルマンであるドイルと、正業に就かない兵役忌避者のスレイターは、人間的に全く相容れない存在だった[149][150]。しかしドイルは問題にもしなかった。独自に調査を行ったドイルはスレイターの冤罪を確信し、1912年8月に『オスカー・スレイター事件』(The Case of Oscar Slater) [注 11]と題した80ページのパンフレットを発表した[151]。その中でドイルは、ブローチの窃盗は単なる目くらましであり、犯人の真の目的は被害者から遺言状を奪うことだったという推理を展開した[152]。凶器については被害者を最初に検分した医師の見立てに否定的で、バールもしくは証拠物件よりも頭部が長く柄の短い左官用ハンマーであると推理している[153]。
その後も新聞などによってキャンペーンが続けられるなか、1914年3月、グラスゴーの事務弁護士であるデイヴィッド・クック (David Cook) が当時のスコットランド大臣トマス・マキノン・ウッドに真犯人の存在を指摘する上申書を提出し、事件の再調査を求めた[154]。ウッドはこの要求を容れ、ラナークシャーの州裁判所 (en)(民事裁判所)判事であったジェームズ・ガードナー・ミラー (James Gardner Millar) を長とする再調査委員会(ミラー委員会)を設置した[154]。クックにそのようなことが可能だったのは、彼が親友であるグラスゴー市警警部補のジョン・トムソン・トレンチから内部情報の提供を受けていたからである[155]。
トレンチ警部補と消された「A・B」[編集]
事件当時は士官だったトレンチはあれから警部補に昇進し、勤続21年の敏腕刑事と知られ、国王から勲功章を授与されるまでになっていた[156]。かねてからトレンチはスレイターの事件での面通しの方法に不信感を抱いていたが、その不信感が決定的になったのは、1912年10月にダンディー近郊のブロウティー・フェリー (en) で発生した殺人事件[157][158]がきっかけだった。この事件は、老婦人の被害者が撲殺された点、被疑者がよそ者であった点、そして目撃証言をほぼ唯一の証拠として被疑者が特定された点などがスレイターの事件に酷似していた。犯人とされた貧しいカナダ人の男は、5人の目撃者に犯人であると断定されながらも、自分は事件当日はアントウェルペンにいたと主張していた。その捜査手腕を買われてダンディー市警から応援を要請されたトレンチは、男の言葉を信じて現地へ赴き、そこで男が事件発生時刻と同じ時刻にウェストコートを質入れしていたことをつきとめた[157]。この決定的なアリバイによって男は釈放された。その経験からトレンチはスレイターの冤罪を確信するようになり、かつての公判に提出されなかった証人たちの供述書をクックに暴露したのである[156]。
トレンチが上申書の中で繰り返し述べたのは、とある人物についての疑惑だった。トレンチの主張するところによれば、事件発生直後にH・Lが被害者の姪の家を訪れていたとの情報を得た彼は、事件から2日後の1908年12月23日、被害者の姪を聴取し[159]、次のような供述を得たという[160]。
(被害者)の召使いの(H・L)が七時一五分ごろ、うちの戸口に来ました。あの子は興奮していました。呼びリンを烈しく引きました。ドアがあくと、転がり込むようにして入って来て叫びました。「大変です、奥さま、大変です。(被害者)さまが殺されました。ダイニング・ルームで死んでいます。そして、ああ奥さま、わたしはそれをやった男を見たんです」と。わたしは答えました。「まあ、(H・L)、えらいことになったね。誰なの、お前の知っている人かい?」。(H・L)は答えました。「ええ奥さま、あれはA・Bだったと思います。確かにあれはA・Bだったと思います」。そこでわたしは言いました。「まあ、(H・L)、そんなことを口に出しちゃいけないよ。……本当に確かだと思うんなら別だけど、さもなけりゃ、(H・L)、口にするんじゃないよ」。するとあの子は、確かにA・Bだったと繰り返して言うんです。
上の記述に供述に現れる「A・B」という人物は、クックがウッドへ提出した上申書の中では実名で書かれていたが、再調査の終了後に委員会が纏めた白書の中ではこの2文字に置き換えられている。また、「A・B」について言及されていた記述も、白書の中ではミラーの権限によりすべて削除されている[161]。トレンチはまた、事件の翌日にグラスゴー市警の警部(前述の検察側証人50号)、刑事部長(検察側証人51号)、警視(検察側証人52号)の3人が「A・B」の自宅へ出向いたとも語った[162]。トレンチがこれを上司に報告すると、その件は警視(前述の検察側証人52号)が片付けたので、もう手出しできない、と上司に言われたという[163]。
これに加え、トレンチは今までに明かされてこなかった複数の関係者の供述を暴露した。まず一つに、トレンチは1913年の末頃、M・Bの雇い主だった靴屋の兄妹から新たな証言を得た[164]。それまで目撃証言についてM・Bは、店の客に届け物に行く途中で犯人にぶつかったと証言していた[15]。これについて兄妹は、M・Bを使いに出したのはその3日前の18日のことであって、帳簿の記録からみてもM・Bは嘘をついていると述べた[165]。事件当時、雇い主がこれを市警警部(前述の検察側証人50号)に伝えると、「事件全体を引っくり返すようなことになる」として口止めされたという[165]。トレンチもまた、犯人を追って現場から表通りへ駆け出たA・Aやその家族が、同じ時刻に通りを歩いていたはずのM・Bを誰一人目撃していないことを理由に、彼女の証言が偽りであるとした[166]。
さらにリヴァプール市警警部の証言がある。事件直後にグラスゴー市警から連絡を受けたこの警部は、すぐさまリヴァプールのホテルにスレイターたちが泊まっていないか照会を入れた[167]。そのときにはすでにスレイターたちはホテルをチェックアウトしていたが、警部はそこで、スレイターが宿泊者名簿に本名と住所を記していたことを発見した[168][注 12]。スレイターの高飛びを否定するこの証拠は、グラスゴー市警を介して地方検察官に伝えられていた[170]が、検察側はこれを裁判に提出していない[171]。
「再調査」の結論[編集]
以上の暴露情報を検証するためのミラー委員会は、1914年4月23日から25日にかけて、グラスゴー州庁舎で非公開に設けられた[172]。しかし、この委員会はあらかじめ「公判の運営には絶対に関係せぬ」[173](つまり「公判のあり方を批判してはならない」)と定められており、弁護側からは誰一人立ち合いを許されなかった一方でグラスゴー市警本部長と地方検察官の立ち会いが受け入れられるなど、再調査の役割は形だけのものに過ぎなかった[172]。加えてミラー委員長は刑事事件については素人だった[174]。
委員会の場でも、トレンチはミラーに対して、自分の述べたことは真実であると主張し続けた[175]。しかし、「A・B」に対する疑惑について警察関係者はことごとく、「A・B」は事件に関係しておらず、それを疑わせるような捜査記録も存在せず、トレンチからそのような言葉を聞いたこともない、と否定した[176]。被害者の姪とH・Lも、事件当夜に「A・B」について言葉を交わしたことを否定し、トレンチの証言は「初めから終わりまでまったくのデタラメ」だと述べた[177]。さらにはM・Bの雇い人兄妹も、帳簿の情報がすべてとは限らないとしてM・Bが嘘をついたということを否定し、そもそもそのようなことをトレンチに話したこともない、と述べた[178]。靴屋の客も、21日の夜に確かにM・Bから品物を受け取っていると証言した[178]。
再調査の終了後、ウッドは事件に関して「新しい事実は何ひとつ実証されておりませんので、すでに下されている判決に対し、それを妨げるようわたくしが勧告する正当な理由がございません」[179]と述べたが、調査結果を纏めた政府白書の内容は世間の非難を浴びた[179][180]。
9月14日、トレンチは守秘義務を破ってクックに情報を与えたことを理由に、グラスゴー市警を免職された[181]。その後、トレンチは陸軍に入隊し、ロイヤル・スコッツ・フュージリアーズ連隊 (en) の憲兵曹長となった[156]。しかし、1915年5月に、市警時代に行ったとされる盗品授受の容疑でクックとともに逮捕され、8月に高等法院で裁判にかけられた[156]。その事件の内容は、2人がグラスゴーの宝石店から盗まれた品を非公式のルートで取り戻したというものだったが、裁判でチャールズ・ディクソン (en) 判事はこの2人の行為をむしろ称賛されるべきものであると述べ、陪審団も全員一致で2人に無罪評決を下した[156][158]。トレンチは軍へ戻って第一次世界大戦を戦い、終戦からほどなくして世を去った[156][158]。クックもその2年後に死去した[156]。
「A・B」は何者か[編集]
記録から抹消されたこの人物の正体については多くの推理がなされてきた。作家のジャック・ハウス (en) は1961年に事件について『殺人平方マイル』(en) を著し、「A・B」の正体は地元の実業家であり、被害者の甥も犯行に加わっていたと主張した[158]。しかし、ハウスは後にその実業家が架空の人物であったと認めた[158]。ただし被害者の義理の甥[182]については、ドイルもその男が犯人であると推理している[183]。後にセント・アンドルーズ大学の名誉教授までなった高名な医師であるこの甥について、トレンチは彼が犯人であると名指ししたが、証明はできなかった[182]。これについてノンフィクション作家のトマス・トーヒル (en) は、その甥が被害者の相続人である被害者の姪と親しかったこと、鼻の特徴がスレイターと似通っていたこと、その社会的地位の高さゆえに当局が追及を避けたことなどを理由に、トレンチの主張を支持している[184]。なおこの甥の兄は弁護士であり、エディンバラ裁判のユア検察官とは同じ学部に通った友人同士だった[185]。
控訴審へ[編集]
トレンチとクックの尽力は実を結ばなかった。世界大戦の激化とともにスレイターは世間から忘れ去られ、ピーターヘッド刑務所の労役場で花崗岩を削る日々を過ごしていた[187]。しかし、トレンチの未亡人とクックから資料を託されていた[155][188]ドイルは諦めなかった。ドイルはスコットランド大臣に繰り返しスレイターの恩赦を要求したが、すべて拒否された[189]。そこでドイルは正攻法ではなく世論に訴えることにし、トレンチとも親交のあった[190]グラスゴーの記者ウィリアム・パーク (William Park) と接触した。ドイルの協力の下にパークが執筆し1927年7月に発表した『オスカー・スレイターの真実―囚人自らの物語とともに』(The Truth about Oscar Slater: With the Prisoner's Own Story) は、再び社会にセンセーションを巻き起こした[191]。さらに野党労働党党首のラムゼイ・マクドナルドが再びスレイターの無実を訴え、与党保守党を議会で追及した[192]。この時期、マクドナルドはドイルと秘密裏に連絡を取り合い、情報を交換していた[185]。
19年目の告白[編集]
事件の流れを決定付けたのは、遠くアメリカからの一報だった。10月23日の『エンパイア・ニューズ』(en) に、大戦後に夫とともに渡米しそこで帰化していたH・Lの暴露記事が載せられた。それによれば、H・Lは犯人がよく被害者のもとを訪れていた男だと知っていて、その男の名を警察に告げたところ「ナンセンス」だと言われ、逆に40ポンドを報酬としてスレイターが犯人であると証言するよう指示されたという[193][194]。
わたしの見た男の人は服装の点でも、身分の点でも、スレイターよりよかったと確信しています。二人が共通していた点は、ただ、まっすぐに立っているとき、左側から見た顔の輪郭が、ほとんど同じだということだけです。 — H・Lの暴露記事より[193]
告白についての詳しい状況説明は記事にはないが、ドイルはその内容が真実であると保証した[193]。
その直後の11月5日、こちらはグラスゴーに住み続けていたM・Bが、『デイリー・ニューズ』上で署名入りの告白を行った。こちらによれば、M・Bはスレイターが犯人に「非常によく似ている」としか言いたくなかったが、地方検察官に脅され、証言を15回練習させられて、100ポンドの報酬で証言を曲げたという[193][194]。
これらの告白がなされるや当局は態度を翻し、11月14日、スコットランド大臣ジョン・ギルモア (en) は「良好な服役態度」を理由にスレイターをピーターヘッド刑務所から釈放した[192]。しかし、当局が誤判を認めなかったことはドイルの怒りを激化させた。
何たる話でしょう! 何たるスキャンダルでしょう! その(H・Lの)告白によれば、警察が彼女に、あれはスレイターだと言わせたのだそうです。拷問です! 何たる忌わしい仕業でしょうか! しかしわたしたちは、ああしたボンクラ頭の役人どもからは希望の言葉は聞けません。わたしは政治的スクリューをとりつけます。それをどう操作するかは心得ています。最後には勝ってみせます。 — ドイルが知人に宛てた手紙より[192]
ドイルは首相のスタンリー・ボールドウィンに手紙を出し、スレイターの再審を行わなければ、あらゆる選挙戦でスレイター問題を持ち出して保守党政権の怠慢を暴いてやると脅しをかけた(ただしドイル自身は保守党支持者だった)[195]。このドイルの圧力と、野党からのマクドナルドの圧力が功を奏し、ギルモアは前年に定められた刑事控訴法第15条[196]に基づき、新たに設置された刑事控訴裁判所 (en) に事件を付託すると決定した[197]。ほどなく議会は事件に対して法を遡及適用するための限時法を通過させ、オスカー・スレイター事件についての控訴が可能となった[197][注 13]。
控訴審[編集]
1928年6月8日、スレイターの控訴審は、19年前と同じエディンバラの高等法院で開始された。法廷の構成は、ジェームズ・エイヴォン・クライド (en)、ロバート・マンロー (en)、以下5名の判事に加え、弁護側にはジェームズ・レイサム・クライド (en)(ジェームズ・エイヴォンの長男)、クレイギー・エイチソン (en)、以下3名の著名な弁護士が、検察側には法務次官ウィリアム・ワトソン (en) 以下3名が付いた[200]。その他にも、ラフヘッドやニューヨーク裁判でのアメリカ側関係者、前述のリヴァプール市警警部など、さまざまな人物が証人として新たに立てられた。
弁護側はスレイター本人も証人として申請したが、裁判所は、無罪だと訴えるだけの証人を尋問するのは時間の無駄であるとしてこれを許可しなかった[201]。スレイターはこれに憤激し、6月13日に周囲に無断で控訴を取り下げてしまった[202]。翌日にスレイターはそれを撤回したが、この行動は支援者たちの怒りを買い、ドイルなどは「最初の判決どおり死刑を執行してくれと申請書にサインしてやりたい」[203]とまで感じた。なお19年前の裁判でも、弁護側がスレイターの証言が役に立たないと判断して証人申請しなかった[204]ため、結果としてスレイターは自身の裁判で一度も証言台に立てなかった。
控訴審で弁護側は主に、過去の裁判で検察側の行った弁論に重大な偽りが含まれていたこと、検察側がスレイターに有利な証拠を隠蔽したことによってスレイターが不利益を被ったこと、そして判事による説示の内容が不適切だったことの3点を主張した[205]。対する検察側は、目撃証言の正確性やスレイターの高飛びについての主張をあくまで維持した[206]。
そして、すべての議論と証人調べの終わった7月20日、5人の判事たちは全員一致で判決に達した[207]。それによれば、過去の判決後に判明した新事実の中に重要なものはなく、検察側が証拠を隠蔽したことによってスレイターが不利益を被ったこともないが、ガスリー判事が被告人に対する人格攻撃を行ったことただ一点を挙げても、有罪判決を破棄するには充分である、とされた[207][208]。こうして、元死刑囚オスカー・スレイターは7000日越しの無罪判決を受けた。
その後[編集]
ドイルによれば「美談の余波は痛ましくあさましいものだった」[194]。8月4日、スレイターは政府から6000ポンドの補償金を提示された[209]。弁護士に任せていれば遥かに多額の補償を受けられたはずだったが、スレイターは誰に相談することもなく補償金の受け取りを決めた[210]。さらに、控訴審の費用の一部は一般からの寄付やユダヤ人団体からの支援によるもので、ドイルに至っては私財を投じてその不足分を個人で保証し[211][212]、数百ポンドの負債を作ってまでスレイターを支えたにもかかわらず[194]、スレイターは支援者への弁済を拒否した[213]。ドイルは「まったくの恩知らずであり愚か者であって、こんな人間は今までに見たこともありません」[209]とスレイターを非難し、片や「スコットランドのドレフュス」を自称する[36]スレイターは「オレが監獄にいたとき、オレのことを書いて何百ポンドと儲けたはずじゃないか」「今は、もう名前も売れなくなった。だもんだから、オレに払えなんて言いやがる」[214]と言い放った。
2人の関係が破綻してから2年後、ドイルは71歳で世を去った。スレイターは1933年に30歳下の女性と再婚したが、第二次世界大戦中は敵性外国人として夫婦で短期間抑留された[215][216]。スレイターは1946年に帰化を申請し[216]、1948年1月31日に76歳で死去した[36][217]。
1984年、イングランドとウェールズで「警察および刑事証拠法」(en) が制定された。これによってパレードの運用規定が詳細にガイドライン化され、違反した警察官の懲戒処分が可能となった[218]。しかし、1989年には北アイルランドでも同種の法 (en) が制定されたがスコットランドでは制定されず、トレンチの言った「いちばん公平な方法」は「グラスゴーの習慣」とはならなかった。
図表[編集]
| 年 | 月日 | 事柄 |
|---|---|---|
| 1908年 | 10月28日 | オスカー・スレイター、ロンドンからグラスゴーへ着く[219]。 |
| 12月21日 | 事件発生。 | |
| 12月25日 | スレイター、愛人と列車でグラスゴーを発つ。 | |
| 12月26日 | スレイター、愛人と船でリヴァプールを発つ。 | |
| 1909年 | 1月2日 | スレイター、ニューヨーク港で逮捕される。 |
| 1月19日 | ニューヨークの法廷で引き渡し裁判開始。 | |
| 1月26日 -28日 |
3人の目撃者がスレイターを識別。 | |
| 2月6日 | スレイター、強制送還を拒否する権利を放棄。 | |
| 2月21日 | スレイター、船でスコットランドへ戻る。 | |
| 2月末 -3月初頭 |
グラスゴー市警中央署で12人の目撃者がスレイターを識別。 | |
| 5月3日 | エディンバラの高等法院で公判開始。 | |
| 5月6日 | 公判終了。スレイターに死刑判決が下る。 | |
| 5月25日 | スレイター、終身刑に減刑される。 | |
| 1910年 | 4月 | ウィリアム・ラフヘッド、『オスカー・スレイター裁判』を発表。 |
| 1912年 | 8月21日 | アーサー・コナン・ドイル、『オスカー・スレイター事件』を発表。 |
| 1914年 | 4月23日 -25日 |
ミラー委員会が事件を再調査。 |
| 6月17日 | スコットランド相ウッド、判決は変更しないと発言。 | |
| 7月28日 | 第一次世界大戦勃発。 | |
| 9月14日 | ジョン・トムソン・トレンチ、免職される。 | |
| 1918年 | 11月11日 | 第一次世界大戦終結。 |
| 1919年 | 5月13日 | ジョン・トムソン・トレンチ、死去。 |
| 1927年 | 7月 | ウィリアム・パーク、『オスカー・スレイターの真実』を発表。 |
| 10月23日 | 『エンパイア・ニューズ』がH・Lの告白を掲載。 | |
| 11月5日 | 『デイリー・ニューズ』がM・Bの告白を掲載。 | |
| 11月14日 | スレイター、釈放される。 | |
| 1928年 | 6月8日 | エディンバラの高等法院で控訴審開始。 |
| 7月20日 | 控訴審終了。原判決が破棄され、スレイターは無罪となる。 | |
| 1930年 | 7月7日 | アーサー・コナン・ドイル、死去。 |
| 1948年 | 1月31日 | オスカー・スレイター、死去。 |
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 市内の宝石商(検察側証人5号)による、無くなったブローチのスケッチ[18] - 検察側提出証拠物件24号。
- ^ グラスゴー市の競売・価格鑑定係(検察側証人4号)による算定 (PDF) [20][21] - 検察側提出証拠物件22号。
- ^ 斜体の補足や伏字、太字での強調は引用者による。以下の引用文内も同じ。
- ^ キュナード汽船会社に対するチケット申込み票[29][30] - 検察側提出証拠物件37号。4行目に見える「オットー・サンドー」(Otto Sando) とは、スレイターが荷物に付けていた「O・S」というイニシャルに合わせたものとされる[31]。偽名を使ったのは本妻の追跡を避けるためだという[32]。
- ^ スレイターの鼻に対しては多くの言及がなされているが、その形容は見る者によって食い違うので、ここでは個々人の感想を列挙するにとどめる。
* 「鼻は鷲鼻ではあったが、右にも左にも曲がってはいなかった」[23] - 『オスカー・スレイター裁判』の著者であるウィリアム・ラフヘッド (en)
- 「鼻は曲がってはいないが先端がへこんでいて、昔つぶされたことがあったのではないかと思える」[44] - 『オスカー・スレイター事件』の著者であるアーサー・コナン・ドイル
- 「先端がちょっぴり曲がったローマ鼻」[45] - 「オスカー・スレーターの冤罪」の著者であるコリン・ウィルソン
- 「わたしだったら、ねじれた鼻とは表現しません」[46] - ジョン・トムソン・トレンチ(グラスゴー市警中央地区刑事部士官・検察側証人75号)
- 「多少、特徴がありますが、それを除けば、ねじれてはいません」[47] - グラスゴー市警西部地区担当警部(検察側証人50号)
- 「ねじれた鼻とは言いませんが、ひしゃげた鼻とは言えると思います」[48] - 市内の理髪師(検察側証人35号)
- 「ねじれたってえのか、つぶれたってえのか、そんな鼻」[49] - スレイターのクラブ仲間(前述の検察側証人65号)
- 「『右にねじれている』とはとても表現できぬものです。中央の部分が目立って突き出ているだけであります」[50] - エディンバラ裁判での弁護側代理人(弁護側証人12号)
- 「曲がっているというか、ねじれた鼻」[51] - 市内の洗濯屋
- ^ ラフヘッドはその理由を、当時の警察では指紋による科学捜査が行われていなかったからと説明する[110]。しかしこれは事実誤認である。スコットランドヤードに指紋局が設置されたのは1901年のことであり[111]、イギリスで指紋が裁判の証拠とされるのは1905年のストラットン兄弟裁判からのことである[112]。
- ^ コモン・ローを採るイングランドとウェールズでは、1925年の法改定までは評決に全員一致を要したのに対し、英国内で唯一大陸法を採るスコットランドでは過半数による評決が認められていた[139][140]。
- ^ 1969年に死刑が廃止されるまでは、イギリスにおいて謀殺に対する判決は死刑に限られていた[142]。加えて当時のスコットランドには刑事控訴裁判所 (en) は存在しなかった[143]。
- ^ 日本語訳としては、1961年に日本評論新社から出版された『白い炎』(フェーマス・トライアルズ 第1集)に収められた西迪雄による訳と、1981年に旺文社から出版された『目撃者』に収められた大久保博による訳が存在する。底本はともに1949年出版の原著第4版。
- ^ パールシー系の事務弁護士が、スタッフォードシャー近郊で夜中に相次いで家畜を切り殺した罪で有罪とされ、3年間服役した事件[148]。偶然に事件を知ったドイルは独自の調査結果を「デイリー・テレグラフ」に連載し、その反響がもとで政府は1907年に判決を撤回した[148]。さらにドイルは真犯人を特定し、告発したが、その訴えは認められなかった[148]。
- ^ 日本語訳としては、1929年に改造社から出版された『世界怪奇探偵事実物語集』(世界大衆文学全集第36巻)に収められた松本泰による抄訳と、『目撃者』に収められた大久保博による完訳が存在する。
- ^ ライム・ストリートのホテルの宿泊者名簿[169] - 下から2行目に「オスカー・スレイター / グラスゴー」とある。
- ^ スコットランド相宛の控訴申請書(1928年3月2日付)と、それを受け入れる高等法院の返信(4月13日付) (PDF) [198][199]
出典[編集]
- ^ ラフヘッド(1981上) 561頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 121頁
- ^ a b ウィルソン (1989) 177頁
- ^ カー (1962) 406頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 147頁、188頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 53頁、375頁
- ^ ウィルソン (1989) 178頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 244頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 426-427頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 311頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 313-314頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 314頁、316頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 24頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 382頁
- ^ a b ラフヘッド(1981上) 340-341頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 353頁
- ^ a b ラフヘッド(1981下) 172-176頁
- ^ スコットランド・ナショナル・レコード (en) (JC34/1/32/9/2)
- ^ ラフヘッド(1981上) 142頁
- ^ スコットランド・ナショナル・アーカイブ (JC34/1/32/8)
- ^ ラフヘッド(1981下) 126-129頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 249-250頁、274-275頁
- ^ a b c ラフヘッド(1981上) 23頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 123-124頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 198-201頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 428頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 155頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 376頁
- ^ スコットランド・ナショナル・レコード (AD21/5/39)
- ^ ラフヘッド(1981下) 137-141頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 99頁、165頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 400頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 124-125頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 196-197頁
- ^ a b c d ラフヘッド(1981上) 25-26頁
- ^ a b c d Rubinstein, Jolles and Rubinstein 2011, p. 925
- ^ ラフヘッド(1981上) 553頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 131-133頁、144-148頁、164-165頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 133-134頁、146-148頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 340頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 496頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 23頁、335頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 23頁、166頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 389頁
- ^ ウィルソン (1989) 184頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 187頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 295頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 238頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 445-446頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 158頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 207頁
- ^ ピアソン (2012) 198頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 114頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 129頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 190-192頁、425-426頁
- ^ a b ウィルソン (1989) 182頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 250頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 284頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 347-349頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 158頁、394頁
- ^ ピアソン (2012) 199頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 320頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 277頁、286頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 321頁
- ^ a b ラフヘッド(1981下) 390-391頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 262-263頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 278頁、293-294頁、308-309頁、343頁
- ^ a b ラフヘッド(1981下) 392-393頁
- ^ a b ウィルソン (1989) 183頁
- ^ カー (1962) 411頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 158-159頁、167頁、173-174頁、178-179頁、182-183頁、201頁、204頁、208頁、212頁、216頁、225-228頁、230頁、235頁、252頁、265頁、319頁、335-336頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 155頁、166頁、200頁、207頁、212頁、284-285頁、364頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 166頁、169頁、185頁、201頁、210頁、295頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 186頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 457頁
- ^ a b ラフヘッド(1981上) 119頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 96頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 253頁、256-257頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 254頁、270頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 255-261頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 258頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 106頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 354頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 319頁、327-328頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 324頁、354頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 291頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 358頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 44-46頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 150頁、169-17頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 314頁、321頁、341頁、345頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 236頁、424頁、494頁、511頁、522頁、536-537頁、549-550頁、559頁、571頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 521-522頁、532-533頁、544頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 530頁、542頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 532頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 555-556頁、563頁、572頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 421-424頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 255頁、344頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 275頁、299-302頁、394頁、403-404頁、585頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 398頁、405頁、586-587頁、594-596頁
- ^ a b ラフヘッド(1981上) 398頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 383-385頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 299頁、302-303頁、386-388頁、390-393頁、403頁
- ^ a b ラフヘッド(1981上) 395-396頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 398-401頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 414-415頁
- ^ a b ラフヘッド(1981上) 589-592頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 305-306頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 62頁、78頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 338頁
- ^ a b ラフヘッド(1981上) 110-111頁
- ^ ビーヴァン (2005) 203頁
- ^ ビーヴァン (2005) 250-251頁
- ^ a b ラフヘッド(1981上) 459-462頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 254頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 374頁、458頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 164頁、188頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 187頁、204頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 434-438頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 135-137頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 238-243頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 419頁、490-491頁、505頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 41頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 39頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 43頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 39-40頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 403頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 185頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 9頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 43頁、94頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 9-49頁、405頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 93頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 99頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 101頁
- ^ シモンズ (1984) 98頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 100頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 101頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 42-43頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 121頁、411頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 374頁、450頁
- ^ a b カー(1962) 413頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 122頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 450頁
- ^ a b ウィルソン (1989) 186頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 149頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 46頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 413頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 63頁
- ^ a b c ピアソン (2012) 195-197頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 413頁、475頁
- ^ シモンズ (1984) 99-100頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 465頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 414頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 419-420頁
- ^ a b ラフヘッド(1981上) 48-49頁
- ^ a b ラフヘッド(1981下) 466-473頁
- ^ a b c d e f g ラフヘッド(1981上) 51-53頁
- ^ a b ラフヘッド(1981上) 36-37頁
- ^ a b c d e Wilson, Richard (1989年6月17日). “The downfall of a man called Trench” (英語). The Herald (Glasgow): p. 23
- ^ ラフヘッド(1981下) 183頁、215頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 195-196頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 50頁、54頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 182頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 190頁、216頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 230-233頁
- ^ a b ラフヘッド(1981下) 212-214頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 193頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 204頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 258頁、276頁
- ^ スコットランド・ナショナル・レコード (JC34/1/32/43)
- ^ ラフヘッド(1981下) 276頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 56頁
- ^ a b ラフヘッド(1981下) 49-50頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 180頁
- ^ シモンズ (1984) 100頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 214-217頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 271-272頁、274頁、278-279頁、286-287頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 219-220頁、224-225頁
- ^ a b ラフヘッド(1981下) 230-234頁
- ^ a b ラフヘッド(1981上) 58-59頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 474頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 289頁
- ^ a b Phillips, Alastair (1989年6月24日). “More light on Oscar Slater case” (英語). The Herald (Glasgow)
- ^ スタシャワー(2010) 510-511頁
- ^ McKain, Bruce (1992年10月7日). “The conspiracy that convicted Oscar Slater” (英語). The Herald (Glasgow)
- ^ a b Toughill, Thomas (1994年9月6日). “The Oscar Slater scandal exposed” (英語). The Herald (Glasgow)
- ^ ラフヘッド(1981下) 484頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 17頁、98頁
- ^ McLaughlin, Eilidh (2011年3月23日). “The Curious Case of Oscar Slater” (英語). BBC Scotland. 2014年5月21日閲覧。
- ^ ラフヘッド(1981上) 64頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 65頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 477頁
- ^ a b c ラフヘッド(1981下) 478-479頁
- ^ a b c d ラフヘッド(1981上) 67-69頁
- ^ a b c d ピアソン (2012) 201頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 481頁
- ^ “Criminal Appeal (Scotland) Act, 1926. 16 & 17 Geo. 5. Ch. 15. (PDF)” (英語). The National Archives (1926年7月8日). 2014年5月21日閲覧。
- ^ a b ラフヘッド(1981上) 71頁
- ^ スコットランド・ナショナル・アーカイブ (JC34/1/32/34/1-6)
- ^ ラフヘッド(1981下) 290-294頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 301頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 80-82頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 82-84頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 482頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 41頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 86-87頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 100-101頁
- ^ a b ラフヘッド(1981上) 102-103頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 330-346頁
- ^ a b ラフヘッド(1981下) 486頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 108頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 488頁
- ^ シモンズ (1984) 102頁
- ^ ウィルソン (1989) 188頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 489頁
- ^ ラフヘッド(1981下) 491-492頁
- ^ a b “100th anniversary of a notorious Glasgow murder” (英語). The National Archives of Scotland. 2014年5月21日閲覧。
- ^ ラフヘッド(1981上) 10頁
- ^ 厳島、仲、原 (2003) 135頁
- ^ ラフヘッド(1981上) 112頁
参考文献[編集]
- 厳島行雄、仲真紀子、原聰 『目撃証言の心理学』 北大路書房、2003年。ISBN 978-4762823275。
- コリン・ウィルソン 「オスカー・スレーターの冤罪」『未解決事件19の謎』 ジョン・カニング編、喜多元子訳、社会評論社〈現代教養文庫 1287-D-666 ワールド・グレーティスト・シリーズ〉、1989年(原著1987年)、177-188頁。ISBN 978-4390112871。
- ジョン・ディクスン・カー 『コナン・ドイル』 大久保康雄訳、早川書房、1962年(原著1949年)。NCID BN08773854。
- ジュリアン・シモンズ 『コナン・ドイル』 深町眞理子訳、東京創元社、1984年(原著1979年)。ISBN 978-4488015084。
- ダニエル・スタシャワー 『コナン・ドイル伝』 日暮雅通訳、東洋書林、2010年(原著2001年)。ISBN 978-4887217607。
- ヘスキス・ピアソン 『コナン・ドイル―シャーロック・ホームズの代理人』 植村昌夫訳、平凡社、2012年(原著1943年)。ISBN 978-4582835762。
- コリン・ビーヴァン 『指紋を発見した男―ヘンリー・フォールズと犯罪科学捜査の夜明け』 茂木健訳、主婦の友社、2005年(原著2001年)。ISBN 978-4072412589。
- 『目撃者』(上)、ウィリアム・ラフヘッド編、大久保博訳、旺文社〈旺文社文庫 646-1〉、1981年(原著1910年)。ISBN 978-4010641217。
- 『目撃者』(下)、ウィリアム・ラフヘッド編、大久保博訳、旺文社〈旺文社文庫 646-2〉、1981年(原著1910年)。ISBN 978-4010641224。
- Rubinstein, William; Jolles, Michael; Rubinstein, Hilary, ed (2011) (英語). The Palgrave Dictionary of Anglo-Jewish History. Eastbourne: Palgrave Macmillan. ISBN 978-1403939104.
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- Conan Doyle, Arthur (1912) (英語). The Case of Oscar Slater. New York: Hodder & Stoughton, George H. Doran company. - Open Library による『オスカー・スレイター事件』の原文
- Roughead, William, ed (1915) [1910] (英語). Trial of Oscar Slater. Notable Scottish trials (Second, Revised ed.). Edinburgh and Glasgow: William Hodge & Company. - Open Library による『オスカー・スレイター裁判』第2版(1915年刊)の原文