オゴデイ・ウルス

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オゴタイ・ハン国から転送)
オゴデイ・ウルスの始祖オゴデイと息子達(『集史』「オゴデイ・カアン紀」パリ写本)

オゴデイ・ウルスÖgödei ulus)とは、チンギス・カンの三男で、モンゴル帝国第2代皇帝となったオゴデイを始祖とする王家によって支配されたウルスである。13世紀初頭に成立し、15世紀初頭までは残存していたとされる。

かつては類似した概念として「オゴデイ・ハン国(Ögödei Khanate)」という呼称も用いられていたが、研究の進展により現在ではほとんど用いられることがない。「オゴデイ・ウルス」及び「オゴデイ・ハン国」という呼称はともに創始者オゴデイの名から取られているが、当時の史料にある用語ではなく、歴史家による通称である。

かつてのモンゴル史研究では中央アジアエミル川流域を中心とする地域(現在の中国新疆ウイグル自治区北部ジュンガリア地方)に、13世紀前半から1306年まで「オゴデイ・ハン国」という政権が一貫して存続していたと想定されていた。この「オゴデイ・ハン国」という概念は当時の史料に見える「オゴデイのウルス」という用語を念頭に置いたものであるが、そもそもウルスと近現代的な「国家」では異なる点が多く、単純にウルス=ハン国とすべきではないという批判が近年のモンゴル史研究者から唱えられている[1]

また、特にオゴデイ家のカイドゥが治めた政権を指して「オゴデイ・ハン国」と呼称することもあるが、カイドゥの率いたウルスは事実上彼が一代で築き上げ、旧来のオゴデイ・ウルスに留まらない国家へと発展させたものであることが近年の研究によって明らかにされている。また、フレグ・ウルスで編纂された『集史』でカイドゥの治める領域がペルシア語で「カイドゥの国(mamlakat-i qāīdū'ī)」と呼称されていることや、カイドゥの君主としての称号もハンではなく「兄」を意味する「アカ(aqa)」と呼ばれていたことなどを踏まえ、近年の研究ではカイドゥの治める政権を「オゴデイ・ハン国」ではなく「カイドゥの国」あるいは「カイドゥ・ウルス」と呼称するのが一般的である[2]

構造[編集]

14世紀以後のモンゴル帝国における、ウルスの分立

モンゴル帝国内における位置づけ[編集]

1206年にチンギス・カンによって創設された「大モンゴル国/イェケ・モンゴル・ウルス(Yeke mongγol ulus)」は、チンギス・カンの一族によって支配される「一族ウルス」やチンギス・カンによって再編成された千人隊といった複数の遊牧集団がカアンの統令の下結集する巨大な政治的連合体であった。チンギス・カンが自らの諸子・諸弟に領民・領地を分け与えて成立させた一族ウルスはイェケ・モンゴル・ウルスの縮小版とも言うべき存在であり、それ自体が複数の下位ウルスを有する遊牧集団の連合体であった[3]。そしてオゴデイ・ウルスもまた、このようなチンギス・カンの一族が治めるウルスの一つであった。

この「一族ウルス」は強固な内的結束を有する訳ではなく、あくまで「一人の当主を共通の盟主とする同族政事グループ」とでも言うべき存在であった[4]。それ故、モンゴル帝国内の政争・内乱に際してあるウルスの中でそれぞれ違う派閥に与する集団が複数存在することも屡々あった。後述するようにオゴデイ・ウルスはとりわけその傾向が強く、グユク死後の政争ではシレムンを推すグユク・ウルスとモンケ派についたコデン・ウルスが対立する、といった事例が見られた。このようなオゴデイ・ウルス内部の対立は「カイドゥ・ウルス」の解体まで存続してゆく[5]

「ウルス」の特色[編集]

ウルスは一般的に「国家」と訳されるものの本来の意味は「人々の集団」であり、「オゴデイ・ウルス」も本義としては「オゴデイの国」ではなく「[チンギス・カンによって分け与えられた]オゴデイの有する遊牧民集団」を意味する[1]

ウルスが一般的な国家観と決定的に異なる点は、「領地」ではなく「領民」をその根幹とすることである。チンギス・カンから諸子・諸弟へ分与されたのはあくまで「人々(モンゴル語:irgen/ペルシア語:nafar)」であって、「領地」や「国家」ではなかった[6]。遊牧民にとって「ウルス」とは「人々の集まり(人民)」を第一義とするものであり、「領地」はそれに次ぐものであった[7]

このような「ウルス」の特徴はモンゴリア以外の領土を分割する際にも影響を与えた。華北の金朝・江南の南宋を滅ぼした後、モンゴル帝国は征服地を「投下領」領として諸王・功臣に分割していたことが知られているが、この「投下」領の分割は各ウルスの有する遊牧民の人口を基準に決定されていた[8]。諸王は自らの有する遊牧民の約10倍の人口を有する地方を、功臣は約5倍の人口を有する地方をそれぞれ「投下」として与えられているが[9]、これはまず与えられる「領民」が決定され、然る後に与えられる「領土」も決定された証左である。このような基準に従って、チンギス・カンの時代に4つの千人隊を有するオゴデイ・ウルスには45945戸を有する西京路が与えられ、オゴデイ・カアンの時代に4つの千人隊を有するコデン・ウルスには47741戸を有する東昌路が与えられている[10]

また、モンゴル社会では逆に領地を失っても領民を失っていなければ「ウルス」は存続していると見なされていた。14世紀初頭に「カイドゥの国」が解体すると中央アジアの領地を失ったオゴデイ家の諸王は大元ウルス領内に移住したが、大元ウルスからは独自の「所部(=ウルス)」を有する諸王として把握されていた[11]

歴史[編集]

成立[編集]

チンギス・カンの征服活動

オゴデイ・ウルスが成立したのは1207年から1211年にかけてのことで、モンゴル帝国が成立してから間もなくのことであった[12]。チンギス・カンは自らの諸子(ジョチチャガタイ・オゴデイ)に1万2千の兵とモンゴリア西方の領地を、諸弟(カサルカチウンオッチギン)に同じく1万2千の兵とモンゴリア東方の領地を与え、それぞれ帝国の右翼・左翼と位置づけた[13]

オゴデイにはイルゲイ・ノヤンジャライル千人隊デゲイ・ノヤンベスト千人隊イレク・トエスルドス千人隊ダイルコンゴタン千人隊からなる4つの千人隊が分封され、これがオゴデイ・ウルスの原型となった。オゴデイ・ウルスの最初の封土は北方をジョチ・ウルス、南方をチャガタイ・ウルスに囲まれたアルタイ山脈中部からウルングゥ川一帯にあった[14]

長春真人西遊記』には「[長春真人一行は]中秋の日にアルタイ(金山)東北に至り、しばらく駐留した後再び南行した。その山は高大・深谷で長い坂道があり、かつては車で行くことが出来なかった。三太子(オゴデイ)が軍を出し、始めてこの道を開拓したのである(中秋日、抵金山東北、少駐復南行。其山高大、深谷長阪、車不可行。三太子出軍、始闢其路)」との記述があり、チンギス・カンはアルタイ山を越え西方につながる交易路の開拓・管理を任せる意図の下オゴデイにこの領地が与えたと考えられている[15]

1219年、中央アジア遠征が始まるとチンギス・カン率いる本隊はオゴデイが開拓したルートを辿って西方に進軍し、オゴデイもこの遠征でアルタイ山脈の西麓、イルティシュ川の上流を得た長兄のジョチと、天山山脈イリ川渓谷を得た次兄のチャガタイの両ウルスの中間、エミル川流域のジュンガリア盆地一帯を新たに領土に加えた。これ以後、『世界征服者史』が「後継者オゴデイの王庭は、父の在世の間はエミル及びコボクにある彼のユルト(幕営地)であった…」と述べるように、オゴデイ・ウルスの本拠地は夏営地をエミル、冬営地をコボクとする一帯に置かれるようになる[16]

また、エミル・コボク地方の他にもオゴデイは金朝遠征の戦功として山西の大同(当時は西京路と呼称)一帯を、西夏遠征の戦功として涼州一帯を新たに領土として与えられている[17]。これらの領土は14世紀末に至る迄クチュ家やコデン家などオゴデイ・ウルスの遊牧地として存続することとなる。

オゴデイ・カアンの治世[編集]

チンギス・カンの死後、遺言によってオゴデイがカアンに即位すると、問題になったのが末弟のトルイの存在であった。オゴデイが僅かに4千人隊しか継承していなかったのに対しトルイは父直属の101の千人隊を継承しており、有する領地・兵数はオゴデイよりはるかに上であった[18]

そこでオゴデイはオゴデイ・ウルス及びトルイ・ウルスに多数の変更を加え、自らの立場を強化した。まず、オゴデイは自らの直轄する4千人隊を庶長子のグユクに委ね(グユク・ウルスの成立)[19]、トルイ・ウルスの中から自らに直属する1万のケシク(親衛隊)を組織した。もともとチンギス・カンが率いていた1万のケシクはそのままトルイと縁の深い者ばかりであったので、新編成されたケシクの隊長は全て新しく選抜された者ばかりであった[20]

次に、オゴデイはトルイ・ウルスから4千人隊を引き抜いて自らの息子のコデンに与え、かつて西夏遠征時に自らの領地としていた涼州一帯にコデン・ウルスを成立させた[21]。事実上トルイ家から牧民を奪うというこの措置にはチンギス・カンの定めた国体を覆すものだ、という批判がノヤンたちの中から起こったが、トルイの寡婦のソルカクタニ・ベキがノヤンたちを説得し納得させたという逸話が残っている[22]

また、自らの後継者と位置づけていたクチュ南宋攻略の司令官に任じると同時に、かつて金朝遠征時に自らの領地としていた山西南部にクチュ・ウルスを成立させた。クチュのウルスはかつてオゴデイ・ウルスが中央アジア遠征補助のため進軍ルート上に設置されたのと同様、南宋遠征の進軍ルート上にある一帯に設置されていた[23]。更に、これと並行して「左手の五投下」に代表される独立性の高いノヤンたちをトルイ・ウルスから切り離して独立したウルスと認める、といった施策も行った[24]

以上の措置により、オゴデイ・ウルスはグユク・ウルス、コデン・ウルス、クチュ・ウルスという3つの下位ウルスを有するモンゴル帝国内における最大勢力に成長した。一方、トルイ・ウルスに犠牲を強いる形で自身の勢力を強化したことはオゴデイ家とトゥルイ家の遺恨を生み、オゴデイ死後の帝位を巡る内紛を誘発することとなった[25]

オゴデイ家とトルイ家の内紛[編集]

グユク(『世界征服者の歴史』)

オゴデイ・カアンの死後、モンゴル帝国では後継者を巡って激しい政争が繰り広げられた。オゴデイの治世に不満を募らせていたトルイ家ではトルイの長男のモンケを後継者候補に擁立し、モンケと仲の良いバトゥ率いるジョチ家もこれを支持した。一方、オゴデイ家では後継者と目されていたクチュが早世していたため、オゴデイの庶長子のグユクを後継者候補に立て、チャガタイ家もこれに協力した。

全体としてみると、オゴデイ次代の繁栄を維持しようとするオゴデイ家・チャガタイ家連合と、これに反発するジョチ家・トルイ家連合によってモンゴル帝国の派閥は2分されることとなった。

1246年クリルタイではオゴデイの寡婦のドレゲネの強い後押しによって一旦はグユクがカアン位に即いた。しかし帝国の重鎮たるバトゥはグユクの即位を認めておらず、帝国全体の総意として即位したオゴデイに比べグユクの立場は甚だ不安定なものであった[26]。そのため、グユクはオゴデイのように新たにウルスを創設することもなく、オゴデイ・ウルスはオゴデイ時代とさして変わらないままに留め置かれた。

2年後の1248年にグユクはエミルの自分の所領に巡幸中に急死したが、折しもジョチ・ウルスのバトゥも東方へと移動しており、この時オゴデイ・ウルスとジョチ・ウルスの間で軍事衝突が起きる寸前であったのではないか、とする説も存在する[27]

グユクの死後、1251年のクリルタイでバトゥとソルカクタニの後押しの下、今度こそモンケがカアン位に即いた。モンケの即位直後、オゴデイ・ウルスの有力者たちの間でクチュの息子のシレムンをカアン位に就けんとするクーデター計画が進められたが、露見して多くの者が捕縛・処刑された[28]

この一連の政変によって失脚した有力者は多く、イルゲイやジェルメといったチンギス・カン時代からの著名な将軍でありながらその子孫が残っていない人物は、この時オゴデイ家側について没落してしまったものと考えられている[29]

モンケ・カアンによる分割[編集]

モンケセル・ノヤンによるオゴデイ諸子の審問・処刑(『集史』「モンケ・カアン紀」パリ写本)

シレムンのクーデター計画鎮圧を切っ掛けとしてモンケはかつての政敵たるオゴデイ家・チャガタイ家の大弾圧を行い、オゴデイ・ウルスはオゴデイ〜グユク時代に比べ大幅に弱体化した。ただし、モンゴル帝国の伝統としてチンギス・カンの定めたウルスは時のカアンであってもなくしてはならないという不文律があり、オゴデイ・ウルスそのものが消滅することはなかった。『元史』の記述によると、モンケ・カアンの命によってオゴデイ諸王家の領土は以下のように定められていたという。

二年壬子……夏、駐蹕和林。分遷諸王於各所、各丹于別石八里地、蔑里于葉児的石河、海都於海押立地、別児哥于曲児只地、脱脱于葉密立地、蒙哥都及太宗皇后乞里吉忽帖尼於拡端所居地之西。
1252年……夏、[モンケ・カアンは]カラコルムに留まった。諸王を各所に分け移し、カダアン(各丹)ビシュバリク(別石八里)の地に、メリク(蔑里)イルティシュ河(葉児的石河)に、カイドゥ(海都)カヤリク(海押立)の地に、ベルケ(別児哥)グルジャ(曲児只)の地に[30]トタク(脱脱)エミル(葉密立)の地に[31]モンゲトゥ(蒙哥都)及び太宗皇后乞里吉忽帖尼をコデン(拡端)の居住地の西に[定めた][32] — 『元史』巻3憲宗本紀

この措置に対して、従来は「オゴデイ王族の辺境への幽囚である」、「モンケ即位に協力したオゴデイ王族への論功行賞である」という全く異なる2つの評価が為されてきた。しかしモンケ・カアンによる施策で最も注目すべきはオゴデイ・ウルスを統轄する存在が認定されず、オゴデイ諸子のウルスがそれぞれ個別に独立したウルスとして認定されたことであった。そもそもウルスは代替わりのたびに分割継承されていくものであり、ウルスの分割相続自体は自然なことである。問題なのはオゴデイ・ウルスの分割相続がモンケの名の下に行われたことで、これはオゴデイ・ウルス全体を統轄する者の喪失、事実上のオゴデイ・ウルス分割を意味した[33]

なお、上記のオゴデイ諸子の中でカダアン家とコデン家のみは他の王家と異なりモンケ即位に協力しており、結果としてモンケの報復人事を免れていた[34]。カダアン家とコデン家の領地はオゴデイ・ウルスの中でも東方に位置しており、そのためこの時点でオゴデイ・ウルスは東方に位置する親トルイ家派と西方に位置する反トルイ家派に分裂していたと言える。この親トルイ家派と反トルイ家派の分裂は大元ウルスとカイドゥ・ウルスの対立にまで継承されることとなる[5]

以上のようなモンケ・カアンによるオゴデイ・ウルス分割は当然ながらオゴデイ諸王家の不満と反発を呼び起こし、14世紀初頭にまで続く「カイドゥの乱」「カイドゥ・ウルス」成立の遠因となった。

カイドゥ・ウルスの成立[編集]

モンケ・カアンによるオゴデイ・ウルス分割に不満を抱いていたオゴデイ諸王家にとって、転機となったのがモンケの死に伴う帝位継承戦争の勃発であった。帝位継承戦争に直接巻き込まれたのは東方の親トルイ家派たるカダアン家とコデン家のみであったが、中央政府の手の届かない中で反トルイ家派の諸オゴデイ王家は独自に勢力を拡大していった。その中で最も実力があり、野心も大きかったのがカシ家のカイドゥであった。

カイドゥは「家畜が痩せている」ことを理由に帝位継承戦争後3年にわたってクビライの下を訪れることを拒み[35]、更にオルダ・ウルス当主コニチの協力を得て勢力を拡大していた[36]。帝位継承戦争後、中央アジアではクビライ派に立ったチャガタイ家のアルグが最も有力であったが、そのアルグが1266年に急死するとこれを好機と見たカイドゥはコニチの協力を得てアルタイ山脈を越えてモンケ家のウルン・タシュのウルスを攻撃し、これが長く続く「カイドゥの乱」の幕開けとなった。

カイドゥはオゴデイ家の中でも非主流の出自であった[37]が、クビライへの宣戦布告後多くのオゴデイ系諸王がカイドゥの下に集結した。その中にはかつて帝位継承戦争でクビライに味方したグユク家のホクやカダアン家のキプチャクらの姿もあり、カイドゥはグユク・ウルス、カシ・ウルス、メリク・ウルスといった「西方オゴデイ・ウルス」の大部分を傘下に収めることとなった。

一方、クチュ・ウルスやコデン・ウルスといった「東方オゴデイ・ウルス」は大元ウルスの統治下に収まり続けたが、クチュ家のトゥクルクシリギの乱に乗じて六盤山で挙兵するなど、クビライ政権に逆らいカイドゥに味方する者も存在した。

「西方オゴデイ・ウルス」を率いるカイドゥにとって転機となったのがチャガタイ・ウルス当主バラクの死と、モンケ家/アリクブケ家諸王によって引き起こされた「シリギの乱」であった。バラクが亡くなるとカイドゥは傀儡君主を立ててチャガタイ・ウルスを事実上乗っ取り、チュベイら反カイドゥ派の諸王は大元ウルスに亡命することになった。ここにおいてチャガタイ・ウルスもオゴデイ・ウルスと同様にカイドゥに従う「西方チャガタイ・ウルス」とクビライに従う「東方チャガタイ・ウルス」に東西分裂することになった[38]

また、「シリギの乱」では叛乱そのものは失敗に終わったが叛乱に参加したモンケ家/アリクブケ家の諸王が自らのウルスとともにカイドゥの勢力圏に参入し、これによってカイドゥの支配権はアルタイ山脈を越えてモンゴル高原のハンガイ山一帯にまで広がることとなった。そのため、これ以後カイドゥ・ウルスと大元ウルスの戦争の主戦場は中央アジア方面からモンゴル高原西方に移ることとなる[39]

ここに至り、カイドゥの支配する勢力は西方オゴデイ・ウルス、西方チャガタイ・ウルス、アリクブケ・ウルスという3つの大きなウルスからなる独立した政権へと成長した。この政権を指してマルコ・ポーロは「大トゥルキー国」[40]、『集史』は「カイドゥの国」と呼称しており、現代のモンゴル史研究者は既存のオゴデイ・ウルスの枠に収まらない国家であるという点を踏まえこれを「カイドゥの国」「カイドゥ・ウルス」と呼称する。

カイドゥ・ウルスの解体[編集]

カイドゥ・ウルスと大元ウルス間の戦争の主戦場となったアルタイ山脈

クビライの存命中は大元ウルスとカイドゥ・ウルスとの間の戦線は膠着状態にあったが、1294年のクビライの死を切っ掛けに事態は急変する。1296年にアリクブケ家のヨブクル、モンケ家のウルス・ブカらがカイドゥ・ウルスを見限って大元ウルスに投降するという事件が起こり、大元ウルスは政治的効果を狙って両者を厚遇するとともに、帝国各地にこの一件を大々的に宣伝した[41]

このような情勢に危機感を抱いたカイドゥは大元ウルスに対して大攻勢に出、1298年には寧王ココチュらが率いる大元ウルスのモンゴリア駐屯軍がドゥア軍に大敗を喫し、大元ウルスの対カイドゥ戦線は危機的状況に陥った[42]

しかしココチュに代わってカイシャン(後の武宗クルク・カアン)が対カイドゥ・ウルスの司令官に抜擢されると[43]、カイシャンはモンゴリアの諸将の人心をよく掴み、カイドゥとの戦闘で次第に優位に立つようになる。大元ウルス軍の圧倒的な物量とカイシャンの奮戦によってカイドゥ軍は劣勢に陥り、遂に1301年に行われたテケリクの戦いでカイドゥは矢傷を負って退却し、間もなく亡くなってしまった[44]

カイドゥの死後、西方チャガタイ・ウルス当主ドゥアの後ろ盾の下カイドゥの息子のチャパルがカイドゥの後を継ぎ、両者は大元ウルスに対して融和策に出た。ところがドゥアは独自に大元ウルスと講和を結び、中央アジアからオゴデイ・ウルスを駆逐しようと画策した。こうして1306年、東方からカイシャン率いる大元ウルス軍が、南方からドゥア率いるチャガタイ・ウルス軍が「西方オゴデイ・ウルス」に攻め込み、チャパルらオゴデイ系諸王は両勢力に挟撃されることになった。この時の戦況を『元史』は以下のように記述する。

[大徳]十年七月、自脱忽思圏之地逾按台山、追叛王斡羅思、獲其妻孥輜重、執叛王也孫禿阿等及駙馬伯顔。八月、至也里的失之地、受諸降王禿満・明里鉄木児・阿魯灰等降。海都之子察八児逃於都瓦部、尽俘獲其家属営帳。駐冬按台山、降王禿曲滅復叛、与戦敗之、北辺悉平。
1306年7月、[カイシャンは]脱忽思の圏の地よりアルタイ(按台)山を越え、叛王オロス(斡羅思)を追い、その妻孥・輜重を獲得し、叛王イェスン・トゥア(也孫禿阿)ら及び駙馬バヤン(伯顔)を捕らえた。8月、イルティシュ(也里的失)の地に至り、諸降王トゥマン(禿満)メリク・テムル(明里鉄木児)アルグイ(阿魯灰)らの降伏を受けた。カイドゥ(海都)の子のチャパル(察八児)はトゥヴァ(都瓦)部に逃れ、チャパルの家属・営帳は全て捕らえられた。冬はアルタイ(按台)山に駐留したが、降王トゥクメ(禿曲滅)が再び叛乱を起こしたので、戦ってこれを破り、北辺は全て平定された。 — 『元史』巻22武宗本紀1

この記述に見られるようにグユク・ウルス(トゥクメ)、クチュ・ウルス(アルグイ)、カダアン・ウルス(イェスン・トゥア)、メリク・ウルス(トゥマン)ら「カイドゥの国」に属していたオゴデイ系諸ウルスはカイシャンの遠征によって残らず大元ウルスに降伏することになり、『元史』の記述によると、大元ウルスに降伏してモンゴル高原に移住してきた牧民の数は100万を越えたという[45]

唯一カシ家のチャパルのみはドゥアに投降して中央アジアに残っていたが、1307年のドゥアの死を切っ掛けに再び蜂起するも敗れ、遂に大元ウルスに投降した。こうしてオゴデイ・ウルスは中央アジアから一掃されることとなり、かつてオゴデイ・ウルスの遊牧地であったジュンガル盆地一帯の大部分はチャガタイ・ウルスに征服されるに至った。この「西方オゴデイ・ウルス」征服を経てチャガタイ・ウルスは中央アジアに独立した政権を立てることになり、これを後世「チャガタイ・ハン国」と呼称する。しかし、近年の研究では「チャガタイ・ハン国」は単純にかつてのチャガタイ・ウルスを復興させたものではなく、カイドゥが建設した「カイドゥの国」をそのまま受け継いだものであることが明らかにされている[46]

なお、この1306年の戦争によって「オゴデイ・ハン国は滅亡した」とされることもあるが、後述するように投降後のオゴデイ系諸王は大元ウルスの統治下で自らのウルスを率いて生活しており、この時「オゴデイ・ウルス」が滅亡したわけではない[47]

14世紀以後[編集]

大元ウルスに降伏したオゴデイ家の諸ウルスは小規模ながら存続を認められ、大元ウルス領内の各地で遊牧生活を送った。大元ウルスの統治下でオゴデイ家の諸王は王号を与えられたが、王号はオゴデイの6子の系統ごとに全く異なる名称が与えられていた[48]。これはモンケ時代の方針を受け継いで、オゴデイ・ウルスを6子の系統ごとに存続させようとしたためであると考えられている。

しかし、各オゴデイ系ウルスの規模は以前に比べて遙かに小規模であった。例えば、グユク家のオルジェイ・エブゲンの「モンゴル(蒙古)民」は280戸余りであったという[49]。また、大元ウルスに移住したオゴデイ系諸王の多くは山西〜河西一帯に居住しており、山西のクチュ・ウルスや河西のコデン・ウルスといった大元ウルスに留まり続けた「東方オゴデイ・ウルス」の遊牧地に収容されていたものと見られる[50]

ただし、オゴデイの末子のメリクのウルスのみは別格で、『元史』によるとイルティシュ河流域に数十万の大軍勢を擁していたという[51]。これはイルティシュ河流域がエミル・コボク地方などと違ってドゥアに併合されなかったこと、イルティシュ河流域がチンギス・カンによって分封されたオゴデイ・ウルスの「初封地」であったことなどが理由と見られる[52]1361年にはメリク家のアルグ・テムルがこの地で叛乱を起こしており、14世紀後半に至ってもオゴデイ・ウルスはイルティシュ河流域で少なからぬ勢力を残していたと見られる。

大元ウルスの北遷後(北元)、1402年に即位したオルク・テムル・ハーンはオゴデイ家出身の人物であった[53]。オルク・テムルの本拠地はかつてオゴデイ・ウルスの一部であった河西方面にあったとみられ[54]、15世紀初頭まで河西ではオゴデイ・ウルスの一部が残存していたことが確認される。オルク・テムルの息子のアダイもハーンに即位したが、トゴン太師率いるドルベン・オイラト(四オイラト部族連合)に敗れ、本領の河西地方もオイラトに占領されてしまった[55]。これ以後、オゴデイ家の人物が史料上に現れることは少なくなり、オゴデイ・ウルスがどのように変化していったかは不明となる[56]

ダヤン・ハーン一族との関係[編集]

なお、岡田英弘はオルク・テムル・ハーンの息子のアダイ・ハーンは、モンゴル高原の遊牧民の再統合を果たし、モンゴル中興の祖と称されるダヤン・ハーン(生没年は1473年/1474年 - 1516年/1517年が、即位年は1479年/1480年が有力)の曾祖父のアクバルジ・ジノンとアダイ・ハーンを捕殺して即位したトクトア・ブハ(タイスン・ハーン)、ダヤン・ハーンの先代マンドゥールン・ハーンの3兄弟の父(ダヤン・ハーンの高祖父)アジャイ(アジャイ・タイジ、アジャイ太子)と同一人物であるという説を主張している。この説ではダヤン・ハーン一族はオゴデイ家の末裔となり、トクトア・ブハ(タイスン・ハーン)とアクバルジ・ジノン、マンドゥールン・ハーンはオルク・テムル・ハーンの孫達となる。トクトア・ブハ(タイスン・ハーン)は実父(この場合、アダイ・ハーン=アジャイ・タイジ)を殺害して、ハーン位に就いたことになる。

しかし、中国で編纂された『明史』『万暦武功録』では、アジャイ・タイジの長男トクトア・ブハはオゴデイの弟トルイの四男クビライを始祖とするの王家の出身とされている。実際、1442年にトクトア・ブハが李氏朝鮮世宗に宛てて出した書簡では、クビライの子孫を自称している。1368年に元が明の攻勢によって中国の保持が困難と判断してモンゴル高原に北走した時からダヤン・ハーン以前の時代には、ハーン位が頻繁に交代する等の政治的混乱の為にチンギス・ハーン一族の記録や伝承が錯綜しており、チンギスからダヤンに至る系譜は確実ではないことも確かである。ただ、傍証や後の時代の系譜書から、歴史家はダヤン・ハーンがクビライの末裔にあたると考えている(ダヤン・ハーン自身もクビライの末裔を称している)。この説を補強するものとして、ブヤンデルゲルはウハート・ハーン(順帝トゴン・テムル)からダヤン・ハーンに至る北元時代の帝系について考察し、(1)ウハート・ハーン,(2)ビリクト・ハーン,(3。明王朝の捕虜となったビリクトの息子「マイダリ・バラ」と同一視される)エルベク・ハーン,(4。エルベクの弟とする説もあるが、「ホンタイジ=皇太子」という称号から見て、実際には息子であるとする説が主流)ハルグチュク・ホンタイジ,(5)アジャイ(アジャイ・タイジ、アジャイ太子),(6)アクバルジ・ジノン,(7)ハルグチュク・タイジ,(8)ボルフ・ジノン,(9)ダヤン・ハーンという一本筋の通った系図を描けると想定している(この想定された系図は、クビライの弟のアリクブケの末裔という異説があるエルベク・ハーンがクビライ家の一員かつビリクト(アユルシリダラ)の息子で、ダヤン・ハーンの祖先と位置づけるモンゴル年代記の記述とも一致している)。

構成[編集]

初期の4千人隊[編集]

千人隊長 ペルシア語表記(『集史』) 漢字表記(『秘史』) 功臣順位 部族 備考
イルゲイ(Ilügei) یلوکای نویان(īlūkāī nūyān) 亦魯該(yìlǔgāi) 5 ジャライル オゴデイの王傅(アタベク)を務めるが、息子はモンケ即位後に失脚する
デゲイ(Degei) دوکا(Dūkā) 迭該(diégāi) 11 ベスト 息子はコデン家のジビク・テムルに仕え、オゴデイ死後の政変を生き残る
ダイル(Dayir) دایر(Dāīr) 荅亦児(tàyìér) 36 コンゴタン インド方面のタンマチ初代司令官となり、遠征先で亡くなった
イレク・トエ(Ilek töe) ایلک توا(Yīlk tūā) スルドス スルドス部の枝族タムガリク部の出身で、『集史』にのみ登場する

モンケ・カアンによる分割時(1252年)のオゴデイ系7王家[編集]

王家 当主 遊牧地 投下領(戸数) 出自 備考
グユク王家 ホク大王(Hoqu) エミル・コバク 大名路(68593戸) グユクの末子 兄2名が処刑されたため、当主に就任
コデン王家 モンゲトゥ(Möngetü) 西涼府 東昌路(47741戸) コデンの次男 クビライとパスパの面会に尽力した
クチュ王家 ソセ(Söse) 潞州 汴梁路在城戸→睢州(5214戸) シレムンの末子 シレムンが処刑されたため、当主に就任
カラチャル王家 トタク(Totaq) エミル方面 未設定 カラチャルの息子 オゴデイ7子の中で唯一早い段階で断絶する
カシ王家 カイドゥ(Qaidu) カヤリク 汴梁路在城戸→蔡州(3816戸) カシの息子 後に独立し、「カイドゥ・ウルス」を建設する
カダアン王家 カダアン(Qada'an) ビシュバリク 汴梁路在城戸→鄭州(戸数不明) オゴデイの六男 モンケ時代に始めてウルスを形成する
メリク王家 メリク(Melik) イルティシュ河流域 汴梁路在城戸→鈞州(1584戸) オゴデイの末子 モンケ時代に始めてウルスを形成する

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「カイドゥの乱」終結後、14世紀における大元ウルス統治下のオゴデイ系6王家[編集]

王家 代表的当主 推定遊牧地 1319年時点の実有戸数 王号 備考
グユク王家 オルジェイ・エブゲン王(Ölǰei Ebügen) 山西方面 大名路(12835戸) 無国邑 1331年には飢饉に陥ったとの記録あり
コデン王家 荊王トク・テムル(Toq temür) 河西永昌府 東昌路(17825戸) 汾陽王/荊王 1343年のトク・テムルの死で断絶した
クチュ王家 襄寧王アルグイ(Aluγui) 山西平陽路 睢州(1937戸) 襄寧王 オゴデイ時代のクチュ・ウルス領を継承
カシ王家 汝寧王クラタイ(Qulatai) 山西方面 蔡州(388戸) 汝寧王 クラタイは天暦の内乱で上都派につき、敗れて殺された
カダアン王家 隴王コランサ(Qorangsa) 河西方面 鄭州(2356戸) 隴王 山丹を拠点とするアジキと行動を共にする
メリク王家 陽翟王アルグ・テムル(Aruγ Temür) イルティシュ河流域 鈞州(2496戸) 陽翟王 10万の大軍を擁し、1360年に叛乱を起こす

[58]

各王家[編集]

グユク王家[編集]

グユク・ウルスの位置したジュンガル盆地

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コデン王家[編集]

コデン・ウルスの中心地の一つ涼州(現在の甘粛省武威市

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クチュ王家[編集]

クチュ・ウルスの中心地潞州(現在の長治市)一帯

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カラチャル王家[編集]

[63]

カシ王家[編集]

[64]

カダアン王家[編集]

カダアン・ウルスの中心地ビシュバリク(現在の昌吉回族自治州)一帯

[65]

メリク王家[編集]

メリク・ウルスの本拠地イルティシュ川一帯

[66]

脚注[編集]

  1. ^ a b 村岡1992,20-21頁
  2. ^ 杉山1996,66-67頁
  3. ^ 例えば、西方のジョチ・ウルスは早い段階からバトゥ・ウルスとオルダ・ウルスという二つの下位ウルスを有していたことが知られている。また、東方のオッチギン・ウルスは当主の「遼王」トクトの他に「寿王」ナイマダイが独自のウルスを形成していたことが知られている(杉山2004,110-111頁)
  4. ^ このような性格は、モンゴル帝国そのものが「一人のカアンを君主に戴く一族ウルスの連合体である」という構造を有しているのをそのまま引き写したものである(杉山2004,325頁)
  5. ^ a b 杉山2004,311-312頁
  6. ^ 村岡1992,44頁
  7. ^ ただし、「領地(遊牧地)」を伴わない「領民(遊牧民)」というのも存在し得ないのは事実であり、あくまで「領民」に第一義が置かれるだけで「領地」の分配も決して軽視されるものではなかった(杉山2004,31-32頁)
  8. ^ 「平章政事忙兀公神道碑」には、投下領の分配を決定する際の方針として、シギ・クトクが「惟視太祖之旧、旧多亦多、旧少亦少(ただ太祖チンギス・カンの旧例のみを参考とし、チンギス・カンの御代に[遊牧民の数が]多かった者は[与えられる投下も]多く、[遊牧民の数が]少なかった者は[与えられる投下も]少なくする)」と述べたことが記録されている(松田2010A,119頁)
  9. ^ 松田2010A,119頁
  10. ^ 松田2010A,117頁
  11. ^ なお、オゴデイ・ウルスの諸王より遙かに大規模なウルスを有するジョチ・ウルスのウズベク・ハンやフレグ・ウルスのアブー・サイードの「ウルス」も『元史』では「部」と表現されている(村岡1992,38-40頁)
  12. ^ オゴデイ・ウルスを含むチンギス・カンの諸子弟への分封がいつ行われたか、正確な時期は分かっていない。しかし、『モンゴル秘史』で分封が卯年(1207年)以降のこととされていること、1211年の金朝遠征の際には「諸子の率いる右翼軍」と「諸弟の率いる左翼軍」という図式が完成していることなどから、分封が行われたのは1207年〜1211年頃のことと想定されている(杉山2004,33-34頁)
  13. ^ 杉山1996A,42-45頁
  14. ^ 最初期のオゴデイ・ウルスの遊牧地を明記した史料は存在しないが、ジョチ・ウルス及びチャガタイ・ウルスとの比較や後述する『長春真人西遊記』の記述などからこの辺りと推測されている(杉山2004،51-53頁)
  15. ^ 『元史』などの史料ではジョチ家、チャガタイ家、オゴデイ家の諸王を指して「西道諸王」、カサル家、カチウン家、オッチギン家の諸王を指して「東道諸王」と呼称することもあるが、これは「西道/東道を管理する諸王」というニュアンスも含めた呼称であると考えられている(白石2015,63-65頁)
  16. ^ 杉山2004،51頁
  17. ^ なお、金朝遠征や西夏遠征によって新たに得られた領土は「帝国の分有支配の原理」によってチンギス・カンの息子の中ではジョチ、チャガタイ、オゴデイの3名の間でほぼ均等に分割されていた。例えば、華北で与えられた領土はジョチ家の平陽路が41302戸、チャガタイ家の太原路が47330戸、オゴデイ家の西京路が45945戸でほぼ同規模であった(村岡2002,153頁)
  18. ^ 旧来の研究では『モンゴル秘史』に「[チャガタイとトルイ]は内地の国民をも同じようにして[オゴデイに]お手渡し申し上げた次第であった…」とあるのに従い、トルイは自らの千人隊を全てオゴデイに献上し、それ故にトルイ家は金朝征服などで新たに征服地を得なければならなかった、と説明されることもあった。しかし、現在では『集史』の記述などからトルイが自らの有する千人隊をオゴデイに献上したという説は誤りであると明らかにされている(松田1980,36-40頁)
  19. ^ 『世界征服者史』は「後継者オゴデイの王庭は、父の在世の間はエミル及びコボクにある彼のユルト(幕営地)であったが、彼は玉座に即くと、ヒタイとウイグル地方との間にある根幹の地に移した。そしてその居所を息子のグユクに与えた」と述べる(杉山2004,51頁)
  20. ^ 元来チンギス・カンの1万のケシクの隊長であった者の内、オゲレ・チェルビドゴルク・チェルビトルン・チェルビスイケトゥ・チェルビらはオゴデイのケシクから除かれ、トルイ家の千人隊長となっている。一方、テムデル・ノヤン、カダアン・ケプテウル、イェスン・テエらが新たにオゴデイのケシクの隊長として採用されている(村岡1996,76-77頁)
  21. ^ なお、オゴデイ在世の頃のコデン・ウルスは河西地方のみならず陝西方面にも影響力を持っていたようで、コデンが京兆府のタンマチ長官に命令を下した記録が残っている(松田1996,42-43頁)
  22. ^ ただし、後述するようにオゴデイがトルイ・ウルスから一部のノヤンを独立させ独自のウルスを形成させるという施策をとった際には反対が生じていないため、ノヤンたちは単純にチンギス・カンの定めた国体を破ることに怒ったというよりは、自身に益のない施策に怒ったのではないかとも考えられている(村岡1996,79/81頁)
  23. ^ クチュ・ウルスの位置については、潞州にクチュの避暑楼(=夏営地)が建設されたという記録が存在すること、黄河沿いの懐州から現在の山西省を縦断するルートにクチュ専用の軍事駅伝道が整備されたことなどから、潞州を中心とする現在の山西省南部一帯に置かれていたと考えられている(松田1996,44-46頁)
  24. ^ 丙申年(1236年)に旧金朝領の分割が行われた(丙申年分撥)が、この分撥は「ウルス」を単位として行われており、この時分撥対象となっているノヤンはトルイ・ウルスから独立して独自のウルスを形成していたとみられる(村岡1996,70-71頁)
  25. ^ 他にチンギス・カン死後にウルスの新設を許された皇族はベルグテイコルゲン、トルイらがいるが、トルイはチンギス・カンの本領を受け継いだのみで、ベルグテイ、コルゲンらは皇族とはいえ庶出で勢力は小さく、やはりオゴデイ・ウルスの拡大が最も影響力が大きかった(村岡1992,22-23頁)
  26. ^ 杉山1996A,90-95頁
  27. ^ 杉山1996A,95-98頁
  28. ^ 杉山1996A,98-100頁
  29. ^ 村上1972,356頁
  30. ^ ここでジョチ家のベルケがオゴデイ系諸王とともに中央アジアで領地を与えられているのは、中央アジアのオゴデイ家・チャガタイ家に対する牽制のためであったと考えられている(村岡1992,27頁)
  31. ^ ここではトタクにエミル一帯が遊牧地として与えられたかのように記されているが、エミルは元来グユク・ウルスの遊牧地であることやトタクもシレムンやホージャ・オグルらと同様にクーデター計画に参画していたことを踏まえるとこの措置は不自然である。そこで村岡倫はこの『元史』の記述はクーデター計画に参画したトタクがグユク・ウルス領のエミルに「身柄預かり」になったことを述べているのではないか、と推測している(村岡2002,156頁)
  32. ^ なお、『集史』「モンケ・カアン紀」には「[モンケは]コデンの諸子、カダアン・オグル、メリク・オグルの各人に、[オゴデイ・]カアンの諸オルド居住地から、オルドを1つずつ、彼の夫人とともに恩師した」とあり、カイドゥとトタクの名は挙がらないものの『元史』憲宗本紀と同じ事実を伝える記事であると考えられている(村岡1992,25頁)
  33. ^ 村岡1992,24-27頁
  34. ^ 『集史』「オゴデイ・カアン紀」はコデン家の條において「オゴデイ・カアンとグユク・カンの子供達がモンケ・カアンに謀叛を企んだ時にこれらのコデンの子供達は彼に最上の好意と厚誼を持った故に、その全てを罪に問い、彼等の軍隊を召し上げ、分解した時、彼等には圧迫を加えず、彼等が保持していた軍隊を彼等に定め、タングート地方に彼等の遊牧地があったので、クビライ・カアンと彼の息子のテムル・カアンはしっかりとコデンの子孫をそこに置いた。……」と記す(松田1996,25頁)
  35. ^ なお、マルコ・ポーロの『東方見聞録』も暗殺されることを恐れたカイドゥがクビライの招集を拒み続けたことが両者の不和の原因になったと伝えている(愛宕1971,263-265頁)
  36. ^ 従来、このカイドゥに協力した「コニチ」は単なる将軍と考えられていたが、村田倫の研究によりオルダ・ウルス当主にコニチであると明らかになっている(村岡1999,6-9頁)
  37. ^ カイドゥの父のカシは一時「皇太子」にされたこともありその意味では悪い出自ではなかったが、カイドゥの母は天山山脈東端に住まうメクリン部の出身で地位が低く、生母の血統の点で不利であった(杉山1996B,51頁)
  38. ^ 杉山2004,311-312頁/杉山1996B,66-67頁
  39. ^ 村岡1985,329頁
  40. ^ 『東方見聞録』は「大トゥルキー国の王はカイドゥといって、カアンの甥(実際には従兄弟の子)に当たる人物である……」という書き出しからカイドゥと大トゥルキー国について書き起こしている(愛宕1971,263頁)
  41. ^ ユブクル、ウルス・ブカらの降伏を受けて、大元ウルス朝廷は「大徳改元詔書」を発布し、元号を1297年2月に元貞から大徳に改元した(松田1983,48-50頁)。その年の内の改元は中国史上非常に珍しいものであり、この降伏を大元ウルス朝廷がいかに重要視していたかが窺える(杉山1996B,162頁)
  42. ^ この戦いについては『集史』「テムル・カアン紀」に詳細な記述があり、ココチュ軍は宴会で酩酊しきっているところに奇襲を受け、コルクズ駙馬のみが奮戦したもののその他の兵士はなすすべもなく敗れてしまったという(松田1982,2-3頁)
  43. ^ ココチュらの敗戦が1298年の冬、カイシャンがモンゴリアに派遣されたのは1299年のことであった(松田1982,1-3頁)
  44. ^ 『集史』「オゴデイ・カアン紀」は「[ヒジュラ暦]701年(西暦1301-1302年)にカイドゥはバラクの息子のドゥアと一緒に、テムル・カアンの軍隊と戦って撃ち破られた。その戦いで2人とも傷つき、カイドゥはその傷で死んだ。ドゥアはなおその傷で苦しみ、その治癒ができないでいる」と記す(松田1996,28頁)
  45. ^ 『元史』巻136列伝23哈剌哈孫伝には「詔曰『和林為北辺重鎮、今諸部降者又百餘万……』」とある。
  46. ^ 村岡1988,194-196頁
  47. ^ 村岡1992,42-44頁
  48. ^ グユク家は「無国邑(王位は与えられているが王号は存在しない)」、コデン家は「荊王」、クチュ家は「靖遠王/襄寧王」、カシ家は「汝寧王」、カダアン家は「隴王」、メリク家は「陽翟王」という王号がそれぞれ与えられていた(村岡1992,35-36頁)
  49. ^ 『元史』巻35文宗本紀4,「[至順二年夏四月]癸亥、諸王完者也不干所部蒙古民二百八十餘戸告饑、命河東宣慰司発官粟賑之」(村岡1992,38-39頁)
  50. ^ 村岡1992,40-42頁
  51. ^ 『元史』巻45順帝本紀8,「是歳、陽翟王阿魯輝帖木児擁兵数十万、屯於木児古徹兀之地、将犯京畿」
  52. ^ 村岡1992,40-41頁
  53. ^ ティムール朝で編纂された諸史料によると、北元時代にオゴデイ家の「オルク・テムルUruk Tīmūr」が即位したという。オルク・テムルは「オゴデイの息子カラク・オグルの息子ヌビヤの息子」とされているが、これでは13世紀初頭に活躍したオゴデイの曾孫になってしまい、到底年代があわないためこの系譜自体は疑問視されている。しかし、明朝の漢文史料に「非元裔也(元朝帝室の嫡孫ではない)」とあることなどから、オルク・テムルがオゴデイ家の者であるという説が受入れられている(岡田2010,p368)。加えて、和田清らの研究に従うとオルク・テムルの別名と思われる「鬼力赤」の根拠地は河西のアラシャー地方にあり、この地にはモンゴル帝国時代、オゴデイの息子のコデンが領地を与えられていた。その為、現在では「鬼力赤」はオゴデイ家の「末裔(具体的な系譜は不明)」である「オルク・テムルÖrüg Temür」と見なす見解が主流であることもこの説を補強している。また、正確な血統は不明ながら子孫を息子、祖先を祖父や父として記述する文献もある為、明らかに直接の子孫であると考えられており、コデンの弟(オゴデイの六男)のカダアン・オグルの子孫である可能性も指摘されている。
  54. ^ 明朝の下を訪れたオルク・テムルの使者は寧夏を通って帰還していること、クムル(哈密)に積極的に干渉していることなどから、オルク・テムルの根拠地は河西方面にあったと考えられている(和田1959,207-208頁)
  55. ^ アダイの居住地を明朝は「涼州境外」と記しており、やはりオルク・テムルと同様に河西方面を根拠地にしていたと考えられている(和田1959,233-234頁)
  56. ^ 村岡1992,46頁
  57. ^ 松田1996,49-50頁
  58. ^ 村岡1992,35-41頁
  59. ^ 松田1996,24-25/34-35頁
  60. ^ 松田1996,25/35-36頁
  61. ^ 杉山2004,458-473頁
  62. ^ 松田1996,26/36-37頁
  63. ^ 松田1996,26/37頁
  64. ^ 松田1996,26-31/37-39頁
  65. ^ 松田1996,31-32/39-40頁
  66. ^ 松田1996,32-33/40-41頁

参考文献[編集]

  • 愛宕松男訳注『東方見聞録 1』平凡社、1970年
  • 愛宕松男訳注『東方見聞録 2』平凡社、1970年
  • 志茂碩敏『モンゴル帝国史研究正篇 ―中央ユーラシア遊牧諸政権の国家構造』東京大学出版会、2013年
  • 白石典之『チンギス・カンとその時代』勉誠出版、2015年
  • 杉山正明大元ウルスの三大王国:カイシャンの奪権とその前後 (上)」『京都大學文學部研究紀要』34号、1995年
  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 杉山正明『モンゴル帝国の興亡(上)軍事拡大の時代』講談社現代新書/講談社、1996年(杉山1996A)
  • 杉山正明『モンゴル帝国の興亡(下)世界経営の時代』講談社現代新書/講談社、1996年(杉山1996B)
  • 本田實信『モンゴル時代史研究』東京大学出版会, 1991年
  • 松田孝一「カイシャンの西北モンゴリア出鎮」『東方学』、1982年
  • 松田孝一「ユブクル等の元朝投降」『立命館史学』第4号、1983年
  • 松田孝一「オゴデイ諸子ウルスの系譜と継承」 『ペルシア語古写本史料精査によるモンゴル帝国の諸王家に関する総合的研究』、1996年
  • 松田孝一「窩闊台汗の『丙申年分撥』再考(1)」『西域歴史語言研究集刊』第4輯、2010年(松田2010A)
  • 松田孝一「オゴデイ・カンの『丙申年分撥』再考(2)」『立命館文学』第619号、2010年(松田2010B)
  • 村岡倫「シリギの乱:元初モンゴリアの争乱」『東洋史苑』第 24/25合併号、1985年
  • 村岡倫「カイドゥと中央アジア:タラスのクリルタイをめぐって」『東洋史苑』第30/31合併号、1988年
  • 村岡倫「オゴデイ=ウルスの分立」『東洋史苑』39号、1992年
  • 村岡倫「トルイ=ウルスとモンゴリアの遊牧諸集団」『龍谷史壇』 第105号、1996年
  • 村岡倫「モンゴル時代の右翼ウルスと山西地方」『碑刻等史料の総合的分析によるモンゴル帝国・元朝の政治・経済システムの基礎的研究』、2002年
  • C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』(全6巻、佐口透ほか訳注, 平凡社東洋文庫)、1968-1979年