エンヴェル・ホッジャ
| エンヴェル・ホッジャ Enver Hoxha | |
| 任期 | 1944年 – 1985年 |
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| 任期 | 1944年 – 1954年 |
| 出生 | 1908年10月16日 |
| 死去 | 1985年4月11日(76歳没) |
| 政党 | アルバニア労働党 |
| 配偶者 | ネジミエ・ホッジャ |
| 共産主義 |
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| 政治シリーズ記事からの派生 |
| スターリン主義 |
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政党 ソビエト連邦共産党 フランス共産党 日本共産党(行動派) アルバニア労働党 インドネシア共産党 ベトナム共産党 ルーマニア共産党 ニュージーランド共産党 スターリン・ブロック— ソ連のため 国家ボリシェヴィキ党 グレートブリテン共産党 (マルクス・レーニン主義) |
| Portal:政治学 |
| 毛沢東主義 |
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毛沢東主義者 毛沢東 陳伯達 · アビマエル・グスマン イブラヒム・ケイパカヤ · 林彪 チャルー・マジュンダール · ピエール・ムレレ ヒューイ・P・ニュートン · プラチャンダ 江青 · ホセ・マリア・シソン 姚文元 · 張春橋 |
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国際組織 マルクス・レーニン主義政党・機構国際会議 革命的国際主義運動 |
エンヴェル・ホッジャ(Enver Hoxha、IPA /ɛnvɛɾ hɔʤa/、1908年10月16日 - 1985年4月11日)は、アルバニアの政治家、共産主義者。アルバニア労働党第一書記、1944年から1954年までアルバニア人民共和国首相を務めた。ホッジャ政権下のアルバニアはスターリン主義(ホッジャ主義)への固執からヨーロッパにおいて鎖国を行った独裁者である。
来歴・人物[編集]
ホッジャは1908年10月16日、当時はオスマン帝国統治下だったアルバニア南部のジロカストラでイスラム教徒の家庭に生まれる。ホッジャの父親は布商人でホッジャの幼年時代にヨーロッパを渡り歩き、ホッジャは叔父のハイセン・ホッジャの影響を強く受けた。ハイセンはアルバニア独立運動の闘士であり、独立後の抑圧的な政府に対する反対活動を行った。エンヴェル・ホッジャは叔父ハイセンの考えを受け継ぎ、1928年、ゾグー1世が政権を握った後には更にその考えを強くした。
1930年、ホッジャは奨学金を得てフランスのモンペリエ大学に入学する。しかし、政治への関心を強く持つようになり、学問を捨てて1年ほどで退学、フランス共産党に入党。同党の機関紙『ユマニテ』紙にアルバニア王国政府批判の論文を掲載する。1934年からホッジャは在ブリュッセルアルバニア領事の秘書を務めながら、大学で法律を学んだ。その後1936年にアルバニアに帰国しコルチャで中学校の教師となった。
政治経歴[編集]
1939年4月、イタリアがアルバニアに侵攻すると、ホッジャはアルバニア・ファシスタ党への参加を拒絶したため教師の職を解雇された。ホッジャはティラナでタバコ屋を開き、間もなくそこには共産主義者達が集うこととなる。ホッジャはユーゴスラビアの共産主義者によって支援され、1941年11月にアルバニア共産党(1948年以降はアルバニア労働党)を結成し、レジスタンス運動を展開した。同党は1944年11月に政権を掌握し、ホッジャが首相に就いた。
戦後の1946年にアルバニア人民共和国樹立を宣言、最高指導者となった。ホッジャは正統派マルクス・レーニン主義を宣言しヨシフ・スターリンを強く礼賛した。独自のスターリン主義的路線に基づく社会主義国家建設を目指し、1948年にはソ連とイデオロギー対立をしたユーゴスラビアとの国交を断絶した。また、ホッジャはユーゴスラビアとの関係を支持したコチ・ヅォヅェ国防大臣を1949年処刑した。1954年首相職をメフメット・シェフーに譲るが、引き続き労働党第一書記として権力を揮った。
スターリンの死後、ソ連の最高指導者となったニキータ・フルシチョフによって「スターリン批判」が行われるとソ連との外交関係を絶ち、軍事同盟のワルシャワ条約機構を脱退し、中華人民共和国に接近してアルバニア軍は人民服風の軍装を着て大量の中国の59式戦車や戦闘機のJ-6などで武装するヨーロッパでも異様な軍隊となった[1]。当時中国で進行中だった文化大革命に影響を受け、1967年には無神国家宣言を行い国内で宗教を完全に否定し、禁止してアルバニア正教会も大弾圧を受けた。また、農業や教育を重視して識字率を5%から98%に改善して食糧の自給も達成した[2]。
1971年には国際連合でアルバニア決議を共同提案して国際社会で中国が確固たる立場を築くのに一役を買った。しかし、中国はフランコ体制下のスペインや3つの世界論に基づいてチリのアウグスト・ピノチェトなど反共主義的な国々とも国交を持ったことをホッジャは批判し[3]、中国からの援助は途絶えた(中ア対立)。1978年には「アルバニアはマルクス・レーニン主義のみを順守する」と宣言し、独自のホッジャ主義を提唱した。また、西欧諸国の共産党がユーロコミュニズムに転向すると、「ユーロコミュニズムは反共主義である」という論文を発表し、以後はニュージーランド共産党や日本共産党(左派)(長周新聞、劇団はぐるま座)を始めとする「アルバニア派」と呼ばれる各国の政党と関係を持ち、後にアルバニア派政党の国際組織も結成されている。
1980年代に入ると、アルバニアは孤立化した。1981年にホッジャは、数名の党および政府高官の処刑を命じ、新たな粛清を行った。当時のメフメット・シェフー首相は1981年12月にアルバニアの指導者間闘争が原因の自殺をしたと伝えられたが、おそらく粛清に巻き込まれたと考えられている。
ホッジャは1985年4月11日に死去した。76歳没。なお、ホッジャの後を継いだのはラミズ・アリアだった。
葬儀に際してはホッジャの遺言により外国政府の弔問は弔問外交の場になるとしてことごとく拒否され、ソ連からの弔電は突き返された。外国人ジャーナリストの入国は許可されず、葬儀に出席した外国の代表は、ティラナ駐在のフランスと北朝鮮の外交官だけであった[4]。
ホッジャの死後、後継者のアリアの下でアルバニアは内政および外交における開放が進むことになった。東ヨーロッパにおける共産主義の退潮が鮮明になるとともに、アルバニアも1990年に一党独裁を放棄し、アルバニア労働党は社会党へと改名したが、1992年の選挙では大敗することとなった。
著作[編集]
- 「アルバニア労働党第7回大会における報告」 人民の星社、1976年
- 「修正主義と闘うアルバニア労働党」 人民の星社、1978年
- 「帝国主義と革命」 人民の星社、1978年
- 「ユーロコミュニズムは反共主義である」 1980年
- 「スターリンと共に」 1981年
出典[編集]
- ^ “Arms Transfers Database”. ストックホルム国際平和研究所. 2018年6月27日閲覧。
- ^ 40 Years of Socialist Albania, Dhimiter Picani
- ^ Hoxha, Enver (1979b). Reflections on China (PDF). 2. Tirana: 8 Nëntori Publishing House. pp. 166–167.
- ^ NHK取材班 『NHK特集現代の鎖国アルバニア 』 日本放送出版協会、1987年5月、174頁。
外部リンク[編集]
- Enver Hoxha tungjatjeta
- Enver Hoxha. His Life and Work.
- Enver Hoxha Reference Archive at marxists.org
- Comrade Loulou and the Fun Factory - A critical and satirical view of Hoxha
- Albanian.com article on Hoxha
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