エローラ交響曲

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エローラ交響曲(エローラこうきょうきょく)は、芥川也寸志1958年に作曲した交響曲。1958年4月2日に新宿コマ劇場で開催された三人の会第三回発表会にて、作曲者指揮NHK交響楽団によって初演された[1]

作曲の背景[編集]

カイラーサナータ寺院内部に祀られるシヴァリンガ英語版

1954年に密入国したソ連中国から1955年に帰国した芥川は「三人の会」の第二回発表会で「喜遊曲」を発表する。翌1956年、今度はヨーロッパを訪れるが、その帰りに[2]立ち寄ったインドエローラ石窟群での印象がエローラ交響曲を含むその後の数年間の創作に二つのインスピレーション[3]を与える事となった。

性と音楽[編集]

一つはエロチズムと音楽の組み合わせである。エローラ石窟寺院のヒンドゥー教のカイラーサナータ寺院で目にした、性行為が彫られた幾万枚ものレリーフが巨大な空間に果てしなく広がる光景や、性行為がタブー視される事なく、根源的・原始的な生命力の象徴として赤裸々に表現され、信仰の対象になっている事に作曲者は衝撃を受けた。エローラ交響曲では狭い音域を駆け回るアレグロの男の楽章と、それを包み込むように広い音域に跨る動機を持つアダージョの女の楽章が断片として作曲され[4]、演奏の際はこれを自由に並べ替えたり繰り返したりして、エローラ寺院のレリーフのように始まりも終わりも無い果てしないセックスの無限空間を表現している。その後の作品では、1966年の『弦楽のための陰画』で、男女を表す二群に配置されたオーケストラと、その間に置かれたコントラバスによって性交を表現している[5]。その他にも歌劇『ヒロシマのオルフェ(暗い鏡)』(1960)で性的な描写が見られる。

マイナス空間論[編集]

エローラ石窟第16窟、カイラーサナータ寺院外観

もう一つは、寺院の構造から思いついたという「マイナス空間」の音楽論である。芥川は、西洋的な建築が何もない空間に材料を積み上げて作る加算的・塑像的な「プラスの空間」であるとすれば、エローラ石窟群は元から存在する巨大な岩盤を上から掘り下げて作った消去的・彫刻的な「マイナスの空間」であるととらえた。そして、これを音楽創作へ応用し、静寂の中に鳴らす音を選択し積み上げて行く従来の加算的な西洋の作曲法に対し、音の塊から消去法的に鳴らさない音を選択していく「マイナスの音楽」を発案した。これは、半ば開拓しつくされ停滞している作曲法に新たな可能性を見出す事が出来ないかという問題提起であった[3]。しかも、男女を陽と陰に相当させ、このプラスマイナス論をエロチズムに結びづけることができた[5]

帰国後芥川はこの理論を実践すべく新しいオルガンを考案したが、この楽器は試作してそれきりになってしまった。これはスイッチを入れ起動すると全ての音が鳴り、鍵盤を押すとその音が消えるオルガンであった。谷川俊太郎はこのオルガンを、当時流行していた怪獣映画のラドンともじって『オルガドン』と命名した[6]

『エローラ交響曲』や『弦楽のための陰画』ではマイナス空間論に基づいた作曲がされていることを作曲者は示唆している。しかし、それが具体的な作曲技法に現れているものなのか、それとも概念的に示したに留まるのかは不明である。秋山邦晴は『エローラ交響曲では、正直なところ、具体的にはどのようにそれ(マイナス空間論)が実現されているのかは、ぼくにはよくわからない。むしろ、かれの観念のなか、想像力のなかで結びついた理論であり、コンセプトだったのだろう。』[6]と述べている。

楽曲構成[編集]

20の楽章はすべて独立した断片であり、うち9個には、11個にはの記号が記されている。どの楽章をどう演奏するのかは指揮者に一任されており、割愛しても何度繰り返しても良いとされている[7]。しかし、この曲の総譜は特定の順番で通して1冊で書かれており、実際には専らこの順で演奏される[8]。具体的には、初演時のスコアの順番は「♀♀♀♀♂♀♀♀♂♂♀♀♂♂♂♀♂♂♂♀」であった。その後、芥川は初演時の8・14・15・16番目に当たる楽章を削除し、3と4番目の楽章を一つに繋げたので「♀♀♀♀♂♀♀♂♂♀♀♂♂♂♂♀」の全15楽章の楽曲として演奏される[8]

女性楽章は抱擁的なアダージョである。女性楽章は片山杜秀のアナリーゼに依れば、幅広い音域・音程を持つ三つの主要な動機をもつ[8]。それは、(1)減五度を主とする動機、(2)金管楽器により下から幅広く音が積み上げられる動機、(3)ホルンのグリッサンドに現れる増八度・減八度の動機、である。一方、男性楽章は芥川作品によく見られる勢いのあるアレグロのオスティナートであり、二度や三度の狭い音程で中音域を走り回る。片山はまた、その著書の中で、これらの動機の音域・音程と女性男性的なものについての共通点を指摘し、考察している[4]

なお、幾つかの楽章は「野火」の映画音楽(1959年)にも使用されている他、最後の部分は歌劇「ヒロシマのオルフェ」の最終部にも用いられている。

録音[編集]

主要な録音(録音年順)

録音年 指揮者 オーケストラ レーベル 備考
1958 岩城宏之 NHK交響楽団 Naxos Japan(N響アーカイブシリーズ)[9] 全20楽章版による演奏
1960?[要出典] ストリックランド インペリアルフィルハーモニー管弦楽団 東芝EMI
1986 芥川也寸志 新交響楽団 フォンテック
1999 飯守泰次郎 新交響楽団 フォンテック
2004 湯浅卓雄 ニュージーランド交響楽団 Naxos
2006 本名徹次 東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団 スリーシェルズ

編成[編集]

ピッコロフルート2、アルトフルートオーボエ2、コーラングレクラリネット2、バスクラリネットファゴット2、コントラファゴットホルン6、トランペット3、トロンボーン3、テューバティンパニ大太鼓シンバルボンゴコンガマリンバウッドブロックタムタムピアノチェレスタハープ弦五部[10]

出典[編集]

  1. ^ 属啓成『名曲事典』音楽之友社、1981年、652頁。 
  2. ^ 出版刊行委員会, p. 282.
  3. ^ a b 出版刊行委員会, p. 75.
  4. ^ a b 片山 2008.
  5. ^ a b 出版刊行委員会, p. 76.
  6. ^ a b 出版刊行委員会, p. 229.
  7. ^ 出版刊行委員会, p. 228.
  8. ^ a b c 片山 2004, p. 9.
  9. ^ Naxos Music Library 2022年3月23日閲覧。
  10. ^ 芥川也寸志:エローラ交響曲 新交響楽団第224回演奏会、2014年、2017年4月21日閲覧

参考文献[編集]

  • 秋山邦晴他多数 著、出版刊行委員会 編『芥川也寸志 その芸術と行動』東京新聞出版局、1990年6月。ISBN 978-4-80-830376-1 
  • 片山杜秀湯浅卓雄指揮 芥川也寸志 エローラ交響曲・交響三章他(CDの冊子)』NAXOS、2004年8月。 
  • 片山杜秀『片山杜秀の本2 音盤博物誌 - 5. 生産しない女』アルテスパブリッシング、2008年5月、30-35頁。ISBN 978-4903951072