エドワード・コルストン

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エドワード・コルストン
Edward Colston
ジョナサン・リチャードソン画のコルストンの肖像画
生年月日 1636年11月2日
出生地 イングランド王国の旗 イングランド王国 サウス・ウェスト・イングランドブリストル
没年月日 (1721-10-11) 1721年10月11日(84歳没)
死没地 グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国 イングランド・サリー州モートレイク英語版
前職 貿易商
所属政党 トーリー党

グレートブリテン王国の旗 庶民院議員
選挙区 ブリストル選挙区英語版
在任期間 1710年 - 1713年
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エドワード・コルストン英語: Edward Colston, 1636年11月2日 - 1721年10月11日[1])はイギリス商人トーリー党の国会議員、篤志家奴隷取引家である。1340年代からブリストルに住む商人の家系に生まれ、長じてから自身も商人となり、当初はスペイン、ポルトガル、その他のヨーロッパの港を中心に、ワイン、果物、布などの貿易を行った。1680年には、イギリスのアフリカ奴隷貿易独占していた王立アフリカ会社に加入したことで、奴隷貿易に大きく関与するようになった。彼は1689年に会社の最高職である副総督に就任した。彼の資産のうちどの程度が奴隷貿易に由来していたのか正確な所は不明であるが、彼が奴隷貿易に関与して財を成したことは事実である[1][2]

コルストンは奴隷貿易で得た資産を元手に、ブリストルロンドン、その他の場所で学校病院救貧院教会を支援し、寄付した。彼の名前は、ブリストルのいくつかのランドマーク、通り、3つの学校、そしてコルストン・バンズ英語版によって記念されている。1895年には彼の像が建立されたが、20世紀後半に彼が大西洋奴隷貿易に関与していた事が認識される様になるとランドマークの名称変更を求める抗議や嘆願が続き、2020年6月、彼の像が倒されブリストル湾に投棄された事で最高潮に達した。彼が設立した慈善財団に触発されて設立された財団は現在でも存続している[3]

生い立ち[編集]

コルストンは1636年11月2日にブリストルのチャーチ・ストリートで生まれた。彼は少なくとも11人、おそらく15人の子供の長男である。彼の両親は、1643年にハイシェリフ・オブ・ブリストル英語版を務めた豪商ウィリアム・コルストン(1608年生、1681年没)と、エドワード・バッテンの娘である妻サラ(1608年生、1701年没)であった。エドワード・バッテンはイングランド内戦の時期までブリストルで育ち、その頃にはブリストルのすぐ北にあるウィンターボーン英語版にある父親の所有地にしばらく住んでいたと思われる。一家はその後ロンドンに移り、エドワードはクライスツ・ホスピタル英語版の学校の生徒だったという説もある[4]

キャリア[編集]

絹物商のリヴァリ・カンパニー(Worshipful Company of Mercers)で8年ほど働き、1672年にロンドンから商品を売り出すようになった。スペインポルトガルイタリアアフリカなどとワインシェリー酒フルーツなどを交易した。1680年には西アフリカ象牙、奴隷を取引する権限を有する王立アフリカ会社のメンバーの一人となる.[4]

会社役員会で急速に昇進し、1689年から1690年には会社の実質的な経営者である副総督(Deputy Governor)に就任。1692年に王立アフリカ会社を退社した[5]。この王立アフリカ会社とは国王チャールズ2世と王弟ヨーク公ジェームズ(後のジェームズ2世)が創立した企業でジョン・ロックサミュエル・ピープスなどの投資家を含んでいた[6][7]

コルストンは王立アフリカ会社に参加している間(1680年から1692年)、西アフリカで奴隷貿易を行い、8万4000人(1万2000人の子供を含む)のアフリカ黒人を輸送し、うち1万9000人はカリブ海の船の中で死に、残りはアメリカ大陸へ送られていった[8]。船の状態のために船員の死亡率も高く、しばしば奴隷より死亡率が高いこともあった[9]。アメリカ大陸に到着した黒人奴隷たちはプランテーションに売却された。特にカリブ海の砂糖プランテーション英語版は西アフリカと気候が似ていたので同国人の労働力よりも条件に適しており、また英国の年季奉公人や賃金労働者よりもはるかに安価に維持できた[10]

両親はブリストルで暮らしており、ブリストル地方行政府英語版に多額の金を貸した。ブリストル市の貿易商人協会英語版の一員となり、また自治都市市民英語版にもなった。1684年にはブリストルのセント・ピーターズ・チャーチ・ヤードにある精糖工場のパートナーとなり、セントクリストファー島で黒人奴隷が生産した砂糖を出荷した。ただ彼はブリストルに居住しておらず、1708年に引退するまでサリー州モートレイク英語版にあった[4]

オックスフォード英国人名事典によれば、コルストンは奴隷の売買で多くの財産を築いたと考えられている[4]。 モーガンによれば、奴隷貿易と奴隷が生産する砂糖への関与から得た彼の富の割合は不明であり、さらなる証拠が出ない限り推測の域を出ない。この収入だけでなく、彼は上記の他の商品の取引、貸金業からの利子、そして最も可能性の高い、その他の慎重な金融取引からも収入を得ていた[11]

慈善活動と政治[編集]

コルストンズ・アルムスハウス

コルストンはブリストル、ロンドン、その他の場所で学校、慈善施設、病院、教会を支援し、寄付を行った。コルストンは、彼の宗教的・政治的見解を共有していない人々への利益にならないよう、自身の慈善事業を構成した[12][8][13][14]。彼の慈善財団の多くは今日まで存続している[3]

ブリストルでは、キング・ストリートの救貧院とセント・マイケルズ・ヒルのコルストンズ・アルムスハウス英語版を設立し、クイーン・エリザベス・ホスピタル英語版の学校に寄付し、1710年寄宿学校コルストンズ・ホスピタル英語版の設立を支援した。彼は学校の維持のためにマーチャント・ヴェンチュラー協会が管理する基金を残した。彼はテンプル・スクール(そのうちの1校はセント・メアリー・レッドクリフ・アンド・テンプル・スクール英語版となった)やブリストルの他の地域の学校、いくつかの教会や大聖堂に資金を提供した[4]トーリー党の熱心な支持者であり、1710年イギリス総選挙ではブリストル選挙区英語版におけるトーリー党有力候補として挙げられた[15]。コルストンは老齢(1710年時点で74歳だった)を理由に立候補を辞退したが、熱心な市民がコルストンの同意なしに彼を立候補させ、当選を果たした[15]。しかし、老齢だったため議会ではほとんど活躍できず、ブリストルを代表して請願を庶民院に提出することが主な活動だった[15]1713年イギリス総選挙では出馬せず、議員を退任した[15]

1808年デビッド・ヒューソン英語版は、コルストンを「ブリストル市の偉大な恩人であり、彼が生きている間に慈善団体に7万ポンド以上を費やした」と評している[16]

275年にわたってコルストンを記念した慈善団体を運営していたコルストン協会は、2020年に解散を決定した[17]

死去[編集]

コルストンが1721年に没したモートレイク英語版のクロムウェル・ハウス
ブリストル、オール・セインツ教会のコルストンの記念碑の彫刻(ブリストルの過去と現在より) 1882年

84歳になったコルストンは1721年10月11日、モートレイクの自宅(旧)クロムウェル・ハウス(1857年に取り壊し)で没した。彼の遺言では、派手でないシンプルな葬儀を望んでいたが、この指示は無視された[18] 。彼の遺体はブリストルに運ばれ、オール・セインツ教会英語版に葬られた。彼の記念碑はジェームズ・ギブス英語版がデザインし、ジョン・マイケル・リスブラック英語版が彫った彫像が飾られている[19]。生涯未婚であり、1720年5月に遺言状を書いたときは同名の甥エドワードの一人娘サラ(Sarah)を相続人に指定したが、サラが1721年1月に死去したため、代わりに姉妹メアリーの娘メアリー(トマス・エドワーズ英語版の妻)に遺産を譲った[15][20]

現代における再評価[編集]

少なくとも1990年代以降、奴隷貿易におけるコルストンの役割の認識が高まるにつれ、ブリストルにおけるコルストンの顕彰に対する批判が高まっている[21]

銅像[編集]

ブリストルのザ・センターにあったエドワード・コルストン像(1895年建立、2020年破壊)

コルストンの死から174年後、ジョン・キャシディ制作の像は、コルストンの慈善活動を記念して1895年にブリストル中心部に建てられた[22]

エドワード・コルストンを記念した銅像建立のアイデアは、地元実業家であり錨協会英語版の会長でもあるジェームズ・アロースミス英語版の物だった。

遅くとも1990年代以降[23] 、この像の撤去を求める運動が行われ、コルストンが奴隷貿易で利益を得ていた事を考慮すると不名誉な記念碑であると表現されてきた[24]。 請願書が流通し、2018年にはブリストル西英語版選挙区の労働党議員であるタンガム・デボネール英語版ブリストル市議会英語版に書簡を提出し、像の撤去を求めた[24]。 2018年10月18日、イギリスの反奴隷の日英語版にちなみ、コルストンに代表される歴史上の奴隷取引と現代の奴隷を対比した非公式のアートインスタレーションが像を取り囲んだ。それはフルーツピッカー英語版やネイルバーワーカーなどの現代の奴隷が典型的に行っている仕事のリストのボーダーで囲まれた奴隷船のように配置された約100人の仰臥位の人物を描いたもので、数ヶ月間残った[25] 。 別のインスタレーションでは、ボールと鎖が像に取り付けられていた[24][26]

2018年には、地域社会の関与を得てコルストンの歴史をより多くの人々に知らせるために、像のために公式の銘板が手配された[27]保守党のリチャード・エディ議員と貿易商人協会英語版(コルストンが所属していた組織で2016年までコルストンの遺髪と爪を本部で展示していた)[28]はこの文言に異議を唱え、とりわけ、トーリー党議員としてのコルストンの役割と彼の慈善活動の選択的な性質についての言及を削除し、彼が人身売買した数千人の子供たちの正確な数と年齢について異議を唱える事で成功をおさめた[27]。 この銘板は貿易商人協会の大きな関与を得て書き直されたが、その文言はブリストル市長英語版マーヴィン・リース英語版によって拒否され、同協会がプロセスに多くの発言権を持ちすぎていると見た同市長は、銘板の作成に地域社会のより多くの部分が関与するよう指示した[27]。像が倒された後、貿易商人協会は銘板の書き換えに関与する事は「不適切だった」と認めた[28]

2020年6月7日イギリスにおける2020年反人種差別デモ英語版の抗議活動中にデモ隊によってコルストン像が倒され、ブリストル湾に投げ込まれた[29]。 歴史家でありテレビ司会者でもある、マンチェスター大学教授デイビッド・オルソガ英語版は、もっと早く取り壊されるべきだったとコメントしている。「像は、『この人は偉大なことをした偉大な人だった』と言うためのものだ。それは真実ではない。彼(コルストン)は奴隷商人であり殺人者だった。」[30][31] 内務大臣プリティ・パテルは、像の破壊を「全く不名誉な事」と呼び、「人々が実際に抗議している大義名分から目を逸らす無秩序、公共の混乱の行為を物語っている」と述べた[32]

像が撤去された後、ポール・スティーブンソン英語版OBEの像を建立しようとする請願が始まった[33]。ブリストルの元青年労働者は、1963年ブリストル・バス・ボイコットに尽力した黒人である。この運動はアメリカのモンゴメリー・バス・ボイコット事件に触発された物で、ブリストルのバス会社での違法な有色人種雇用禁止に終止符を打った[34]

その他の顕彰[編集]

コルストンの名は、コルストンズ・アルムスハウス、コルストン・タワー英語版コルストン・ホール(2020年まで)英語版、コルストンアベニュー(Colston Avenue)、コルストン・ストリート、バンズコルストン・バンズ英語版コルストンズ・ガールズスクール英語版、コルストンズ・スクール(Colston's School)、コルストンズ・プライマリースクール(2018年まで)、テンプル・コルストン・スクール(現、セント・メアリー・レッドクリフ・アンド・テンプル・スクールの一部)などのランドマークで街に浸透している。また、特に一部の学校や慈善団体、貿易商人協会では、1639年に貿易商人協会に王室の公認が与えられたことを祝う「コルストンの日」(11月13日)に、セント・スティーブンズ教会英語版で行われる礼拝で、彼のことが偲ばれている。地域のバンズであるコルストン・バンズは彼にちなんで名付けられている[4][35]。 1843-46年に建設されたブリストル・ギルドホール英語版の外観には彼の像がある[36]。 セント・メアリー・レッドクリフの北側袖廊には、彼を偲ぶためにクレイトン・アンド・ベル英語版によって1870年に作られた善きサマリア人を題材としたステンドグラスの窓がある[37]。 また、ブリストル大聖堂英語版の窓はコルストンの思い出に捧げられていたが、2020年6月、ブリストル大司教英語版聖公会ブリストル教区英語版が窓からコルストンへの言及を削除する事を発表した[38][39][40][41]

2017年4月、コルストン・ホールを運営する慈善団体であるブリストル・ミュージック・トラスト[42]は、2020年に改装を終えて再開場する際、コルストンの名称を除く事を発表した。名前の変更を求める抗議や嘆願があり、一部の聴衆やアーティストはコルストンの名前を理由に会場をボイコットしていた[43]。 この決定を受けて、コルストンの名前を維持するよう求める嘆願は1万人近くの署名に達したが、慈善団体は名称変更が行われる事を確認した[44]。ホールは3年間の協議を経て、2020年9月にブリストル・ビーコンと改称された[45]

2017年11月、何十年にもわたる議論の末、貿易商人商会が資金提供を行っているコルストン・ガールズスクールは、コルストンの名前を外す事は学校にとって「何の利益にもならない」という理由で、コルストンの名を外さない事を発表した[46]2018年夏、生徒や保護者との協議の結果、コルストン小学校はコタム・ガーデンズ・プライマリースクールと改称し、ブリストルの組織としては初めて改称の動きを示した[47]2019年2月、セント・メアリー・レッドクリフ・アンド・テンプル・スクールがコルストンにちなんだスクールハウス英語版の名称を、アメリカの数学者キャサリン・ジョンソンにちなんだ物に改称すると発表した[48]

脚注[編集]

  1. ^ a b Colston, Edward II”. The History of Parliament. Cambridge University Press (2006年4月). 2017年12月11日閲覧。
  2. ^ Dresser, Madge (2000). “Squares of distinction, webs of interest: Gentility, urban development and the slave trade in Bristol c.1673–1820”. Slavery & Abolition a Journal of Slave and Post-Slave Studies (Routledge) 21 (3): 22. doi:10.1080/01440390008575319. ISSN 1743-9523. オリジナルの10 July 2011時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110710170556/http://ejscontent.ebsco.com/ContentServer.aspx?target=http:%2F%2Fwww.informaworld.com%2Fsmpp%2Fftinterface%3Fcontent=a794052444&format=pdf&magic=ebscohostejs.  (Paid subscription required要購読契約)
  3. ^ a b “Edward Colston, the Dolphin Society and 268 years of letter-writing…History / Background” (英語). The Dolphin Society. (2015年5月16日). https://www.dolphin-society.org.uk/history 2018年10月19日閲覧。 
  4. ^ a b c d e f Morgan, Kenneth (2004年9月). “Colston, Edward”. Oxford Dictionary of National Biography. Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/5996. 2010年8月14日閲覧。 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入)
  5. ^ COLSTON, Edward II (1636–1721), of Mortlake, Surr. | History of Parliament Online”. www.historyofparliamentonline.org. 2016年11月16日閲覧。
  6. ^ Britain's involvement with New World slavery and the transatlantic slave trade” (英語). The British Library. 2018年10月18日閲覧。
  7. ^ Matthew., Parker (2011). The sugar barons: family, corruption, empire, and war in the West Indies. New York: Walker & Co. pp. 126. ISBN 9780802717443. OCLC 682894539 
  8. ^ a b Row breaks out as Merchant Venturer accused of 'sanitising' Edward Colston's involvement in slave trade”. Bristol Live. Reach plc (2018年8月23日). 2020年6月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年6月9日閲覧。 “ドレッサー博士は第3の提案に同意しないと述べ、それは奴隷貿易を「無害化」する事になると主張した。”
  9. ^ Curtin, Philip D. (1969). The Atlantic slave trade: a census. Madison: University of Wisconsin Press. pp. 282–286. ISBN 0299054004. OCLC 46413. https://archive.org/details/atlanticslavetra0000curt/page/282 
  10. ^ Slavery in the Caribbean - International Slavery Museum, Liverpool museums” (英語). www.liverpoolmuseums.org.uk. 2018年11月19日閲覧。
  11. ^ Morgan, Kenneth (1999). Edward Colston and Bristol. Bristol: Bristol Branch of the Historical Association. pp. 3. オリジナルの8 June 2020時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20200608093149/http://www.bris.ac.uk/Depts/History/bristolrecordsociety/publications/bha096.pdf. "コルストンが新世界での奴隷の売買からどの程度お金を受け取っていたかは不明である。彼は間違いなく王立アフリカ会社の委員会での仕事のために報酬を得ていたが、このお金が彼の財産の基礎になっていたかどうかは推測の域を出ない。彼の富の大部分は、上述のヨーロッパとの通常の商品取引から得ていたと考えられ、王立アフリカ会社と関わる前の数年間はそれが成功していた。コルストンは父親からささやかな遺産を相続していたが、それは彼自身の富を説明するには不十分であった。彼は慎重な金融取引と貯蓄の蓄積から利益を得ていたようであり、貸金業を通して収入を得ていたのは確かである。しかし、彼は個人的な書類を残していないので、彼の富のうち、さまざまな事業や金融事業から得られた割合を大まかに見積もることは不可能である。" 
  12. ^ The wording of second plaque proposed for Edward Colston statue linking him to 20,000 deaths”. Bristol Live. Reach plc (2018年7月22日). 2019年3月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年6月8日閲覧。 “彼の宗教的・政治的信条に賛同しないブリストル市民は、彼の慈善事業の恩恵を受ける事を許されなかった。”
  13. ^ Monumental folly – what Colston’s statue says about Victorian Bristol”. Apollo The international art magazine. 22 Old Queen Street, London, SW1H 9HP: Apollo Magazine (2020年6月18日). 2020年6月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年7月1日閲覧。 “コルストンは、彼の慈善事業遺産から利益を得ようとするすべての人々に彼の専制的なトーリー党高教会派の見解を押しつけたので、彼自身の時代において分裂した人物であった事を覚えておく価値がある。”
  14. ^ “Edward Colston, the Dolphin Society and 268 years of letter-writing...History / Background”. The Dolphin Society. (2015年5月16日). https://www.dolphin-society.org.uk/history 2018年10月19日閲覧。 
  15. ^ a b c d e Hanham, Andrew A. (2002). "COLSTON, Edward II (1636-1721), of Mortlake, Surr.". In Hayton, David; Cruickshanks, Eveline; Handley, Stuart (eds.). The House of Commons 1690-1715 (英語). The History of Parliament Trust. 2020年6月12日閲覧
  16. ^ Hughson, David (1808). “Circuit of London”. London; Being An Accurate History And Description of the British Metropolis And Its Neighbourhood, To Thirty Miles Extent, From An Actual Perambulation. V. Holborn Hill, London: J Stratford. p. 386. https://books.google.com/books?id=_g8wAAAAYAAJ&pg=PA386 
  17. ^ Cork, Tristan (2020年9月13日). “Bristol's original Colston Society to disband after 275 years”. Bristol Post. https://www.bristolpost.co.uk/news/bristol-news/exclusive-bristols-original-colston-society-4512321 2020年9月14日閲覧。 
  18. ^ Edward Colston Will, National archives Wills Online
  19. ^ Historic England. "Church of All Saints (1282313)". National Heritage List for England (英語). 2003年3月16日閲覧
  20. ^ Hanham, Andrew A. (2002). "COLSTON, Edward I (aft.1672-1719), of Bristol". In Hayton, David; Cruickshanks, Eveline; Handley, Stuart (eds.). The House of Commons 1690-1715 (英語). The History of Parliament Trust. 2020年6月12日閲覧
  21. ^ Wilkins, H. J. (1920). Edward Colston (1636–1721 A.D.), a chronological account of his life and work. Bristol: J. W. Arrowsmith 
  22. ^ Edward Colston”. PMSA National Recording Project. 2010年1月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年5月9日閲覧。
  23. ^ Hochschild, Adam (2006). Bury the Chains. New York City: Mariner Books. p. 15 
  24. ^ a b c Grubb, Sophie (2020年6月5日). “'It's a disgrace' - Thousands call for removal of controversial Bristol statue”. Bristol Live 
  25. ^ 100 human figures placed in front of Colston statue in city centre”. Bristol Live. Reach plc (2018年10月18日). 2019年3月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年6月8日閲覧。 “今日、ブリストルの奴隷売買の歴史と現代の奴隷制度を結びつけるため、非公式のゲリラアート展示が市の中心部の銅像の前に現れた。”
  26. ^ Ball and chain attached to Edward Colston’s statue in Bristol city centre”. BristolLive.com. 2020年6月8日閲覧。
  27. ^ a b c Cork, Tristan (2019年3月25日). “Second Colston statue plaque not axed and will still happen but mayor steps in to order a re-write”. Bristol Live 
  28. ^ a b Merchant Venturers say ‘It is right for Bristol’ that Colston’s statue was removed”. Bristol24/7. Bristol24/7 CIC (2020年6月12日). 2020年6月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年7月2日閲覧。 “2018年のコルストン像のプレートの書き換えに関与することは貿易商人協会にとって不適切であり、私たちはこの1週間に寄せられた建設的なコメントに耳を傾けてきた。”
  29. ^ Diver, Tony (2020年6月7日). “Statue of slave trader Edward Colston pulled down and thrown into harbour by Bristol protesters”. The Telegraph. https://www.telegraph.co.uk/news/2020/06/07/edward-colston-statue-pulled-bristol-black-lives-matter-protesters/ 2020年6月7日閲覧。 
  30. ^ George Floyd death: Protesters tear down slave trader statue”. BBC News (2020年6月7日). 2020年6月7日閲覧。
  31. ^ イギリスで人種差別に抗議続く、奴隷商人の銅像を引きずり下ろし”. BBC News (2020年6月8日). 2020年6月10日閲覧。
  32. ^ “Priti Patel: Toppling Edward Colston statue 'utterly disgraceful'” (英語). Sky News. (2020年6月7日). https://news.sky.com/video/priti-patel-toppling-edward-colston-statue-utterly-disgraceful-12002452 2020年6月7日閲覧。 
  33. ^ Ross, Alex (2020年6月7日). “Petition calls for statue of Bristol civil rights activist Paul Stephenson to be erected in Colston's place” 
  34. ^ The Bristol Bus Boycott of 1963”. Black History 365 (2019年10月7日). 2020年6月8日閲覧。
  35. ^ Davidson, Alan (1999). The Oxford Companion to Food. Oxford University Press. p. 114. ISBN 978-0-19-211579-9. https://archive.org/details/oxfordcompaniont00davi_0/page/114 
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  40. ^ Edmunds, Chantalle (2020年10月2日). “Incoming Dean not convinced removing the Edward Colston stained-glass window in Bristol Cathedral is the right answer - Premier Christian News | Headlines, Breaking News, Comment & Analysis” (英語). Premier Christian News. https://premierchristian.news/en/news/article/incoming-dean-not-convinced-removing-the-edward-colston-stained-glass-window-in-bristol-cathedral-is-the-right-answer 2020年10月31日閲覧。 
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  44. ^ Ballinger, Alex (2017年5月12日). “Petitions to stop Colston Hall name change reach 9k signatures”. bristolpost. https://www.bristolpost.co.uk/news/bristol-news/colston-hall-will-not-going-56636 2018年10月18日閲覧。 
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  47. ^ Yong, Michael (2018年9月11日). “Colston’s Primary School starts life as Cotham Gardens after dropping slave trader's name”. Bristol Live 
  48. ^ Ballinger, Alex (2019年2月11日). “Edward Colston: Bristol school to remove slave trader's name from house”. BBC News. https://www.bbc.co.uk/news/uk-england-bristol-47195706 2019年2月11日閲覧。 

外部リンク[編集]

グレートブリテン議会英語版
先代
サー・ウィリアム・デインズ
ロバート・イエーツ
ブリストル選挙区英語版選出庶民院議員
1710年1713年
同職:ジョゼフ・アール英語版
次代
トマス・エドワーズ英語版
ジョゼフ・アール英語版