エディ・コクラン

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エディ・コクラン
Eddie Cochran2.jpg
エディ・コクラン
基本情報
出生名 エドワード・レイ・コクラン
生誕 (1938-10-03) 1938年10月3日
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ミネソタ州アルバートリー,マーシャル909番
死没 (1960-04-17) 1960年4月17日(21歳没)イングランドの旗 イングランド、ウォルトシャー州バース、セント・マーチン病院
ジャンル ロカビリー
ロックンロール
カントリー
担当楽器 ギター、ヴォーカル
活動期間 1955年-1960年
レーベル EKKO、Cash、Crest、Liberty
共同作業者 ジェリー・ケープハート(作曲)
シャロン・シーリー(作曲)
ハンク・コクラン(Gt,Vol)
コニー・スミス(Bass)
著名使用楽器
グレッチ♯6120
ギブソン♯L4C
マーティンD-18

エディ・コクラン (Eddie Cochran)本名エドワード・レイ・コクラン(Edward Ray Cochran)1938年10月3日 - 1960年4月17日)は、アメリカ合衆国のロック・ギタリスト、シンガー。1960年人気絶頂の最中事故死を遂げた早逝のロックンローラー。代表曲「サマータイム・ブルース」「カモン・エヴリバディ」。2003年ローリング・ストーン誌選出「史上最も偉大な100人のギタリスト」84位。

生い立ち[編集]

 エディ・コクラン(本名エドワード・レイ・コクラン)は1938年10月3日ミネソタ州アルバートリーで父フランク母アリスの間に生まれる。12歳の時、学校のオーケストラへドラムもしくはトロンボーン奏者としての参加を望んだが願い能わず、代わりに兄ボブからギターを教わる。1951年、一家はカリフォルニアへ移住。同年9月ベルガーデン中学入学、フレッド・コンラッド・スミスに出会う。彼は「コニー・スミス」と呼ばれ、学校のオーケストラでベースを担当し、スティール・ギター、マンドリンも演奏した。エディは新たな環境とコニーに触発されギターの練習に夢中になる。「私が許したならあの子は24時間ギターを弾いていたでしょう。」(母アリス)。 [1]

初期のキャリア[編集]

1953年 アマチュア・ギグ[編集]

 1953年後半、学校の音楽仲間とトリオを結成。コニー・スミスがスティール、エディはリズムギターを担当、地元の楽器店ベルガーデン・ミュージック・センターの裏手にあるリハーサルルームで練習を行う。この楽器店の経営者バート・キーザーが後にエディのトレードマークとなるギター、グレッチ社製モデル♯6120を売却する事になる。トリオはアマチュアギグを重ね、スーパーマーケットの客寄せ、学校の集会など地元での出演を10〜20ドルの報酬で引き受けた。[1]1953年から55年(日時不明)にかけ友人チャック・フォアマンの自宅で2トラックのテープレコーダーを使用し録音を行う。このマテリアルは2017年現在確認されるエディ・コクラン最古の録音となっている。[2]

1954年 プロギタリストへ[編集]

 6月中学卒業、9月上級生として新学期を迎える。学業以外の時間は全て音楽に費やし地域のミュージシャンとの交流を持ち、学業を放棄してでもプロのミュージシャンとして生きる想いを募らせていた。ベルガーデン周辺の町、サウスゲートやダウニーにはR&Bやカントリーミュージックの基盤があり、エディは幅広いジャンルの音楽的影響を受けていた。[1]この年(日時不明) ゴールド・スター・スタジオでアセテート盤を制作。ドン・ディール(Vol)[注釈 1]、エディ・コクラン(Gt)、チャック・フェリング(Bass)。8曲を録音(当時未発表)。[2]

 10月、エディはベルガーデンの社交ホール、アメリカン・レギオン・クラブ[注釈 2]に出演中のヒルビリーバンド「リチャード・レイ&シャムロック・バレー・ボーイズ」にグループへの参加を申し出る。メンバーはこれを快諾、リズムギターのボブ・ブルがふとエディに尋ねた。「ハンク・コクランとは親戚かい?」エディはその地元の歌手を知らなかったが、ボブは「ハンクが新しいグループを作ろうしているので二人は会うべきだ」と提案した。1955年1月エディは高校を中退、プロのミュージシャンとなるべく決意する。16歳と4か月の若さであった。[1]

ハンク・コクラン (本名ガーランド・ペリー・コクラン)1935年8月2日ミシシッピ州グリーンヴィル生まれ。幼児期に両親を失いテネシー州の孤児院で育つ。10代半ば施設を抜け出しニューメキシコ州ホッブスに住む親戚の元へ。叔父からギターコードを教わりカントリーミュージックに強い関心を持つ。中学卒業後1951年までニューメキシコ州の油田で働き、その後カリフォルニア州ベルガーデンに移住する。当時パサディナのラジオ局KXLAでは毎週日曜日に2時間のライブ中継を行うカントリーショー「リバーサイド・ランチョ(Riverside Rancho)」を放送していた。人気DJスクエアキン・ディーコン(Squeakin 'Deacon)がホストを務めるこのショーでは最初の1時間がアマチュアに割り当てられており、1953年ハンクは同番組に非公式の出演を開始する。エディと出会った時にはすでにプロのミュージシャンとしてクラブ出演をしていた。[1]

1955年[編集]

Cochran Brothers

コクラン・ブラザース結成[編集]

 エディとハンクはグループを結成。当時兄弟デュオは地方の音楽界で非常に人気があり、2人は「コクラン・ブラザース」を名乗る。ハンクがリズムギターとヴォーカル、エディのリードギター、ビリー・ワトソンのベースとシンプルな構成だったが、やがてエディも慣れないながらもヴォーカルを取りハーモニーを付けた。カリフォルニア州の法律により未成年のエディはアルコール類を出すクラブ等には出演出来なかったが、西海岸の音楽シーンは排他的なナッシュビルと異なり新人を容易に受け入れる気風があり、経験を重ねるにつれブラザースの名はカントリー・サーキットでも知られた存在となっていく。[1]

ファースト・レコーディング[編集]

 当時西海岸で人気のあった音楽イベントの一つが「ホームタウン・ジャンボリー」だった。主催者のクリフィー・ストーンはカリフォルニアのカントリー音楽市場を独占する大物プロデューサーであり、スティーブ・スティービンスが経営するブッキング・マネージメント会社「アメリカーナ・ミュージック・コープ」の株主でもあった。1955年4月、コクラン・ブラザースはミュージック・コープに登録されると「ホームタウン・ジャンボリー」「タウン・ホール・パーティー」「カントリー・バーン・ダンス」など西海岸エリア主要のステージに出演、そしてスティービンスにより最初の録音が手配される。[1] エコー(EKKO)レコード[注釈 3]はL.Aのマイナーレーベルの一つで、A&Rマンのチャールズ・レッド・マシューズが定期的にメンフィスからカリフォルニアまで録音のために出張していた。5月ハリウッドのサンセット・レコーズで入念なリハーサルの後、4曲が吹き込まれる。そのうちミディアムテンポの「ミスター・フィドル」、ジミー・ロジャースとハンク・ウィリアムズへのトリビュート「トゥー・ブルー・シンギン・スター」がシングルカットされた。 [1]

ザ・ビッグD[編集]

 同年秋。テキサス州ダラスの「ビッグ "D" ジャンボリー」出演。毎週末KRLDで放送される「The Big D」は「ルイジアナ・ヘイライド」や「グランド・オール・オープリー」と同等に格付けされる名高いカントリー・ミュージック・ショーだった。二人がダラスに到着したのはエルヴィス・プレスリーが出演した数日後だった。警備員から当日の騒ぎを聞かされた。「私とエディは新しい事が起きているのを感じた」(ハンク)。10月エディはミュージックセンター(楽器店)でバート・キーザーから一人の人物を紹介される。その後エディのアドバイザー、マネージャー、共同作曲者となるジェリー・ケープハートだった。彼はデモ録音をする歌手を探していると言う。数日後エディとハンクはミュージック・センター裏手の小さなレコーディングブースで3〜4曲を録音した(当時未発表)。同月エコーから2枚目のシングル発売。このレコードのセールスの不調とエコーのマネージメントの杜撰さを知ったケープハートに野心が芽生える。遠くから眺めている気は無かった。[1]

ジェリー・ケープハート(1928~1998)ミズーリ州グッドマン生まれ。プロデューサー、作曲家、マネージャー。1940年カリフォルニア移住。1951年ローズマリー・クルーニーに書いた「ビューティフル・ブラウン・アイズ」がヒット。1956年からエディ・コクランと多数の共同作曲を行う。1961年グレン・キャンベルのソロ・デビュー「ターンアラウンド・ルック・アット・ミー」を手掛ける。

1956年[編集]

コンビ解消[編集]

 55年12月から56年3月にかけケープハートはまだエコーとの契約の残るコクラン・ブラザースをバッキングに起用し2枚のシングルを制作、キッシュ(Cash)からリリース。出版社アメリカン・ミュージックに対しコクラン・ブラザースの宣伝を開始、4月4日ゴールドスター・スタジオで同社へのデモ「ピンク・ペグ・スラックス」他5曲を録音。「ピンク~」はエディが初めてソロ・ヴォーカルを取るロカビリー・タイプの曲。 4月(もしくは5月)、エコー3枚目のシングル制作。カントリーからロックンロールへ、新たな方向性を示すセッションとなった。しかしハンクはカントリーシンガーとしての矜持と商業主義とも思える路線変更に対し疑問を抱き、この録音を最後にエディとのコンビを解消する事になる。[注釈 4]にまた、エコーのレッド・マシューズは事あるごとに干渉してくるケープハートに嫌気がさし「タイアード&スリーピー/フールズ・パラダイス」のリリース(6月)をもってコクラン・ブラザースとの契約を終了する。結果的に二人の別れは双方の音楽キャリアに最高のものをもたらした。この後ハンクはナッシュビルに赴き数々ののヒット曲を送り出し、カントリー・ミュージックの殿堂入りを果たす。[1]

 「アメリカン・ミュージック」はハリウッドのカウボーイ映画で使用される曲の需要を見越してシルベスター・クロスが1935年に設立した音楽出版社。サン・オブ・ザ・パイオニアズの「クール・ウォーター」(1947)がヒット。マール・トラヴィス、デルモア・ブラザース等の数々のウェスタン・スタンダードを発表、1950年代初頭には西海岸の最重要出版社となっていた。1954年自社専属ライターのためのコンセプト・レーベル「クレスト(Crest)」を立ち上げ、急速に変化する音楽シーンに対応すべくカントリー、R&B、ノヴェルティのレコード制作を行っていた。[1]

 シンガー、ギタリストとして独り立ちすることになったエディは7月から8月にかけ多数のセッションを行う。その中からリトル・リチャードの「ロング・トール・サリー(のっぽのサリー)」にちなんで書かれた「スキニー・ジム(やせっぽちのジム)」がクレスト最初のシングルとして7月に発売される。[1]

映画出演[編集]

Jayne Mansfield

 7月エディとケープハートは低予算の映画のBGMを録音するためスタジオにいた。居合わせたケープハートの知人でもある映画監督のボリス・ペトロフはエディの映画向きの顔立ちを見るとに「私の知人の映画に出演する気はあるかい?」と尋ねた。エディ生前のインタビューによると「最初は冗談だと思ったけど彼に『いいね!後で君に電話するから。』と言われた。翌日電話でで『歌は歌えるか?』と聞かれ半分ジョークに付き合う気分で『歌える』と答えた。僕ははスタジオミュージシャンであって歌手では無かったからね。そして「トゥエンティ・フライト・ロック」のデモ・ディスクを作る事になった。」[1]

 問題の映画「ド・レ・ミ」は20世紀フォックスの音楽ディレクター、ライオネル・ニューマンとリバティの経営者サイモン・ワロンカー(Simon Warner)の間で交わされたミュージシャンの供給などを含めた業務提携により実現した音楽映画で、出演するミュージシャン11人中5人がリバティー専属である事が保証されていた。ジェーン・マンスフィールドとエドモント・オブライエンが主演、一般作品同様の予算が割り当てられ各方面から注目を集めていた。「ド・レ・ミ」のタイトルは出演者リトル・リチャードが撮影中にヒットさせていた曲「女はそれを我慢できない」に改題、12月に公開される。エディは作品中「トゥエンティ・フライト・ロック」を演奏。[1]

 12月、エディはもう一つの映画に出演する。ワーナー・ブラザース制作「アンタムド・ユース(Untamed Youth)」はマミー・ヴァン・ドーレン(Mamie Van Doren)が主演する10代向けの映画、作品中エディは「コットン・ピッカー」を歌っている。「ミス・ドーレンの熱いグラインドと歌唱が精力旺盛なアメリカの若者を目覚めさせる事を保証する。」(ニューヨーク・タイムズ紙)[1]

リバティとの契約[編集]

 リバティ・レコードは1955年に設立した新興レーベルだったが開設早々ジュリー・ロンドンの「クライミー・ア・リヴァー」がミリオンセラーを記録、チップ・モンクスなどのノヴェルティがヒットし急成長を遂げていた。唯一カタログに欠けていたもの、それは「ロックンロール・シンガー」だった。この年の1月RCAヴィクターからメジャーデビューしたエルヴィス・プレスリーは瞬く間にヒット・チャートを席捲、各レコード会社は「ポスト・エルヴィス」探しに躍起になっていた。「女はそれを我慢出来ない」出演がきっかけとなり9月8日、エディとリバティは1年の契約を交わす。[1]

1957年[編集]

バルコニーに座って[編集]

 ABCパラマウントはノースカロライナ州の「コロニアル(Colonial)」レーベルをリバティと競合の末に買収した。敗れた形のリバティは負けじとコロニアル専属であるシンガーソングライター、ジョニー・ディー作曲「バルコニーに座って (Sittin' in the Balcony)」をエディ最初のシングルに決定する。当初「女はそれを我慢出来ない」の公開に合わせ「トゥエンティ・フライト・ロック」のリリースが予定されていたが[注釈 5]急遽変更となった。

「私とエディはワロンカーからリバティのオフィスに呼ばれ『バルコニーに座って』の録音を伝えられた。エディは私にこう言った。『オヤジさん、[注釈 6]これは売れると思うよ。』急ぎの仕事だったが完全な物に仕上げる必要があった。3日後の午後8時にリバティのスタジオに入り録音が終了したのは夜明け前だった。」(ジェリー・ケープハート)

「スタジオでプレイバックを聴いた時、出来の悪さに失望した。この曲がミリオンセラーになった時、僕自身が一番驚いた。」(エディ・コクラン、NMEのインタビューに対して)[1]

 3月にオリジナルのジョニー・ディー盤と共にホット100入り、ジョニー(38位)、エディー(18位)の全国ヒットとなった。だがフォローアップのための続く2枚のシングル「ミーン・ウェン・アイム・マッド/ワン・キス」(5月)「ドライブ・イン・ショウ/アム・アイ・ブルー」(7月)は振るわず、かろうじて「ドライブ~」が82位となっただけだった。10月ジーン・ヴィンセントリトル・リチャードと共にオーストラリア・ツアー。同国ではこの年の1月にビル・ヘイリージョー・ターナーらが大規模なロックンロール・ショウを成功させており二度目のロックスターの来訪となっていた。この公演の最中リトル・リーチャードは突然引退を宣言、シドニーのハーバー橋から所持する宝石を投げ捨てている。[1]

1958年[編集]

 エディとケープハートはリバティ経営者ワロンカーの同意を得てリバティ主導の選曲や録音とは別に独自のマスター制作を開始する。出版社アメリカン・ミュージックがデモ制作の費用を持ち、その代わり自社スタッフライターが曲を提供する、というものだ。これによってエディは制作の自由度が広がり、当時としては珍しいセルフ・プロデュースを行うことになった。 [1]

 1月12日「ジニー・ジニー・ジニー」録音。ジョージ・モトラ(George Motola)とその妻リック・ペイジ(Rick Page)によって書かれたこの曲はエディとジミー・マディン(Jimmy Maddin)の競作となった。[注釈 7]

サマータイム・ブルース[編集]

Eddie Cochran 1957

「ラブ・アゲイン」と言う曲のB面に関してエディとケープハートの間で打ち合わせが行われた。同席していたロカビリー奏者ベイカー・ナイト(Baker Knight)によれば「ケープハートの自宅でビールを飲みながらのリラックスした話し合いだった。エディはブルース・リックを弾き、ケープハートは『流行りの言葉を歌詞に入れよう』とアイディアを出した。一時間後に曲が完成、『サマータイム・ブルース (Summertime Blues)』と名付けられた。」[1]

「彼は私の事を覚えているかしら。」若き女性作曲家シャロン・シーリー(Sharon Sheeley)は高揚する気持ちを抑えてゴールドスター・スタジオに入った。彼女自身が作曲、ケープハートに持ち込んだ「ラブ・アゲイン」の録音に立ち会うためでもあり、昨年のクリスマスにABCパラマウント劇場でエヴァリー・ブラザースから紹介されたエディ・コクランとの再会でもあったからだ。残念ながらエディは彼女の事は覚えていなかったがこの録音を機に二人は親しい間柄となる。[1] [注釈 8]

 6月11日[要出典]「ラブ・アゲイン/サマータイム・ブルース」発売。リリース当初反応は無かったが、しばらくすると不思議な現象が起きた。DJや音楽レビュアーがB面の「サマータイム・ブルース」を取り上げだしたのだ。8月に最高8位を記録、エディ生涯最大のヒットとなった。奇しくも「サマータイム・ブルース」がチャートを上昇している7月、ビルボードNO.1に輝いていたのはシャロンがリッキー・ネルソンに書いた「プア・リトル・フール」だった。[1]

Go Jhonny Go![編集]

 12月N.Y「ルーズ・ステイト・シアター」出演。DJアラン・フリードがプロモート、チャック・ベリー、キャディラックス、ディオン&ベルモンツ、他多数のロックスターが出演、そのまま全員がハリウッドへ移動「ゴー・ジョニー・ゴー!(Go Jhonny Go!)」が撮影された。作品中エディは「ティーンネイジ・ヘブン」をギターとダンスを踊りながら歌っている。[1][注釈 9]

1959年[編集]

 2月3日、バディ・ホリーリッチー・ヴァレンス、ビッグ・ボッパーの3人が飛行機事故により死去。3日後の2月5日トリビュート・ソング「スリー・スターズ」が録音された(当時未発表1966年イギリスでシングルカット)。6月23日「サムシン・エルス」録音。シャロン・シーリーとエディの兄ボブによる共同作曲。ドラムのアール・パーマーはリトル・リチャードの「キープ・ア・ノッキン」のイントロのドラム・パターンを引用、エディはギターと共にベースを演奏している。

ボーイ・ミーツ・ガール[編集]

 4月イギリスのテレビ・ディレクター、ジャック・グッド(Jack Good)は前年9月放送が開始された音楽番組「オー・ボーイ!(Oh Boy!)」にアメリカのロックスターを出演させると発表。ブッキングを委任された「ピカデリー・バラエティ・エージェント」はアメリカのプロモーターを通じエディ・コクラン、ジーン・ヴィンセント、ロニー・ホーキンスの三人のイギリスにおけるTV出演、コンサートツアーの予約を取り付ける。「オー・ボーイ」は9月に「ボーイ・ミーツ・ガール(Boy Meets Girls)」と改題、再スタートを切っていた。[1]

 ケープハートによれば「その頃のエディはロックンロールに疲れていた。彼はプロデューサーとして音楽に携わる事を望んでいた。」母アリス・コクランは渡英前にエディが言った言葉を覚えている。「これが最後のツアー。もうロードに出る必要は無いんだ。[1]

1960年[編集]

Eddie Cochran 1958

ラスト・セッション[編集]

 1月8日ゴールドスター・スタジオ。渡英を目前にしたこのセッションはいつもと様子が異なっていた。ケープハートの姿は無く、代わりに現場に復帰したワロンカーと若手のスナッフ・ギャレットがプロデューサーとして立ち会っていた。「59年末頃にはエディとケープハートは疎遠になっていた」と多くの証言が残っている。[注釈 10] クリケッツ(Crickets)のメンバー、ソニー・カーティス(gt)、ジェリー・アリソン(dr)の二人が参加している。ソニー・カーティスの回想。「慌ただしい雰囲気のセッションだった。私は誰に従えば良いのか分からず困惑したが、しばらくするとワロンカーは退出、エディが現場をリードし、ギャレットが録音の技術的な面でサポートした。」 [1]

英国ツアー[編集]

 1月10日イギリス着。前年12月5日にイギリス入りしていたジーン・ヴィンセントはすでに12日間のツアーを消化、大きなな反響を呼んでいた。すぐさまエディ・コクランとの共演による11週の追加公演が発表された。[1]

 1月16日、23日「ボーイ・ミーツ・ガール」出演。ジャック・グッドの回想。「ジーンとエディの二人はとても気さくな人物でした。エディは私のことを『ホームズ』(コナン・ドイルの小説の主人公)と呼んでいました。寒さに不慣れな彼に手袋を貸したのですが、そのお礼に新しいグレーの手袋をプレゼントされました。彼は私にこう言いました。『またワトソンを必要とする時のためにこれを保管しておいて下さい。』」[1]

 1月24日午後、ロンドンのジェラード通り「マックス・クラブ」においてワイルド・キャッツ(The Wildcats) [注釈 11]とのリハーサル。残る日程でのサポートとしてラリー・パーンズ(Larry Parnes)が手配したもの。同じくツアーのサポートグループであるコリン・グリーン&ビートボーイズのピアニスト、ジョージィ・フェイムも同席していた。「しばらく待っていいるとコクランとヴィンセントが来た。全員の紹介が終わりコクランがギターを弾き出すと彼のプレイの凄さに皆驚いた。[サマータイム・ブルース]や[カモン・エブリバディ]を演奏すると思っていたが彼は聞いたこともないリフを弾き出した。私たちが『それ何て曲?』と聞くと彼は『レイ・チャールズの[ホワッド・アイ・セイ]さ。』と答えた。当時この曲は一部のジャズプレイヤーしか知らなかったが、コクランがツアーで演奏した事によってイギリスでも広く知られるようになった。」 [1]

  • 2月21日 NMEポールウィナーズ・コンサート
  • 2月22日 BBCラジオ「サタデー・クラブ」
  • 2月27日 「ボーイ・ミーツ・ガール」出演
  • 3月5日  BBCラジオ「サタデー・クラブ」
  • 3月12日 同上

 英国ツアーも後半になるとエディとジーンの二人は完全に疲れ切っていた。ジーンは常に不安定な状態で言動は荒れ、自殺をほのめかすに至る。「エディはジーンが間違いを起こさないようギターを弾きながら彼を見守っていた。」(ジョー・ブラウン、ツアーに同行したイギリスのミュージシャン)そしてエディもホームシックから軽いうつ症状を起こす。家族との国際電話の支払いが週1,000ドルになっていた。[1]

事故発生[編集]

 4月16日土曜朝、ツアーマネージャ-、パトリック・トンプキンズ(ハル・カーターの代行)はエディとジーンに封筒を渡した。中を開けたエディは叫んだ。「アメリカ行きのチケットだ。」その日の残りの時間、二人はただ座って航空券をながめていた。午後10時30分ステージ終了。ポップ歌手ジョニー・ジェントルは出演をキャセルしたミュージシャンの代役を終えて楽屋の廊下で人を待っていた。エディはジェントルが車で来たことを知るとロンドンまでの同乗を申し出るが断られてしまう。「友人を乗せなければいけなかったので二人以上は無理でした。彼(エディ)はタクシーを呼ぶと言いました…。」(ジェントル)[1]

事故現場に建てられた慰霊碑

 同日午後11時、エディ・コクラン、ジーン・ヴィンセント、シャロン・シーリー、[注釈 12] パトリック・トンプキンズの4人を乗せたフォード・コンサルはグランド・ホテルを出発。その日の午後、結婚式の送迎で使用された車内にはまだ紙吹雪が残っていた。ロンドンまで100マイル(約160km)、翌日午後1時ヒースロー空港からの便で帰国する予定だ。19歳の若いドライバーの運転する車は時速70マイル(113キロ)のスピードで疾走する。しかし主要道路に向かう途中トンプキンズは車が出発地ブリストルに戻っている事に気付いた。「君、道を間違っている。どこかで車を戻すんだ。」深夜12時頃、ウォルトシャー州チッペンハムのローデンヒル通りレイルウェイ高架橋近くの緩やかなカーブを走行中、車はコントロールを失い反対車線の縁石に衝突、横滑りのまま150ヤード(137メートル)暴走し街路灯に激突。衝撃で後部座席左側の天井支柱が破損、エディは車外に放り出された。ドライバーとトンプキンズは無事、シャロンは軽傷、ジーンは鎖骨を折る重傷。最も損傷のひどかったエディ・コクランは翌17日午後4時10分、搬送先のセント・マーチン病院で死亡が確認された。死因は事故による頭部外傷。亡き骸は本国に送られ、4月25日月曜日カリフォルニア州グレンデールのフォレスト・ローン・セメトリーに埋葬された。享年21。[1]

 エディ・コクランの死去に対する反応はアメリカとイギリスで対照的であった。アメリカでは地方紙が報じる程度にとどまり、最後のシングル「スリー・ステップ・トゥ・ヘブン」はホット100にも入らなかった。イギリスでは各紙が一面で報道、連日追い記事が掲載され、「スリー・ステップ~」は6月に1位を獲得する。

その後[編集]

1960年5月 『メモリアル・アルバム』発売。(イギリスでは9月)

1970年5月 イギリスのロックバンド、ザ・フーライブ・アット・リーズ』発売。「サマータイム・ブルース」が収録される。[3]

1968年1月 アメリカのロックグループ、ブルー・チアーの「サマータイム・ブルース」全米14位。[3]

1987年1月21日 ロックの殿堂入り[3]

1987年7月 ブライアン・セッツァー、コロンビア映画「ラ・バンバ」にエディ・コクラン役で出演。[3]

1994年6月 アラン・ジャクソン「サマータイム・ブルース」C&Wチャート1位。[3]

1998年2月25日 「サマータイム・ブルース」グラミー殿堂賞受賞[4]

2002年5月17日 シャロン・シーリー死去。エディの眠るフォレスト・ローン・セメトリーに埋葬される。[2]

2010年9月27日 カリフォルニア州ベルガーデン市長が10月3日を「エディ・コクラン・デー」と宣言。[5]

ディスコグラフィ[編集]

セッション・マン[編集]

バディ・ホリーのスーツの左側にエディの愛器グレッチが展示されている。(クリーヴランド、ロックの殿堂)

 エディ・コクランはL.Aを拠点としたセッション・ギタリストでもあった。実際エディが生前にリリースしたシングルよりもギタリストとして参加した他名義のシングルの方が多い。当時リリースされなかった映画サウンド・トラックやセッションを含めるとその数は膨大な量となる。

ゴールドスター・スタジオ[編集]

 1950年、スタン・ロスとデイブ・ゴールドが設立、二人の名前を合わせゴールドスター・スタジオ(Goldstar Studio)と名付けられた。初期においては小規模なスタジオもミュージシャン達からデモ作成のスタジオとして人気を博し「キング・オブ・デモ」を名乗る、50年代中頃にはエコーチャンバー(音響装置)を設置した大規模なスタジオ「A」を増設。エディは1956年アメリカン・ミュージクへのデモ制作のために使用して以来このスタジオを拠点とし「サマータイム・ブルース」を代表とするヒット曲のほとんどをこのスタジオで録音した。エディはナッシュビル・サウンドに近いタイトな音響特性を持った小さなスタジオ「B」を好んで使用、エコー装置の無いBスタジオではテープエコーを使った。[1][注釈 15]

ジーン・ヴィンセント[編集]

 1958年5月ジーンのアルバム制作にバックコーラス(ベース)として参加、計8曲録音。「エディは優れたミュージシャン、アレンジャー。その時のセッションでも多くのアイディアを提供した。」(ブルーキャップスのメンバー、トミー・ファセンダ)「キャピトルのスタジオ内に設置された防音壁で出来た小さな家のようなブースで皆で一緒に歌った。」(同メンバー、ポール・ピーク)[1]

マイナー・レーベル群[編集]

 当時、西海岸の音楽産業はまだ新しかった。戦後になり多様化するニーズに応えてるべくスペシャリティ、アラディン(R&B)、アボット、フォースター(C&W)など独立資本のレーベルが勃興、L.A.だけで300ものマイナー・レーベルがひしめきあっていた。[1]

キャッシュ 黒人起業家ジョン・ドルフィンがL.A.ワッツ地区でレコードショップ、スタジオと共に経営するR&Bレーベル。店内ショウウィンドウから直接ラジオ放送を行うDJ「ハギー・ボーイ(Huggy Boy)」が名物だった。1955年11月ケープハートはドルフィンにヒルビリー・レコードの制作を持ちかける。「ドルフィンの名を作曲者としてクレジットする」というキツい条件で交渉成立、「ウィズ・コクラン・ブラザース」として2枚のシングルがリリースされた[#1,2]。この時点でブラザースはまだエコーとの契約が残っており、ドルフィンとケープハート、双方劣らぬしたたかさだった。[1]

ゼファー  アメリカン・ミュージック専属ライター、レイ・スタンレー所有のレーベル。コクラン・ブラザースに曲を提供する傍ら自己名義のシングルを制作した[#11,13]。リー・デンソンの「ニュー・シューズ」[#19]スタンレーの「オーバー・コークス」[#21]はスタンレーがそれぞれVik,Argoにマスターを売却したもの。[1]

フリーダム 1958年9月、リバティは新人発掘を目的とした子会社レーベル「フリーダム(Freedom)」をスタートさせる。経営者ワロンカーは新人との契約や現場での指揮者としてケープハートとエディの二人を起用、「自分達の望むレコードを制作する」事が可能な限りが許された。9月25日ジョニー・バーネットの「アイム・レストレス」を皮切りにフォー・ドッズ、バリー・マーティンらのシングルをリリース、「ミー・アンド・ザ・ベア」[#34]ではジョニー・バーネットとエディの競演が実現している。[1]

シルヴァー フリーダムが59年末に終了するとエディとケープハートは出版社アメリカン・ミュージックが所有する「シルヴァー」(Silver)へのマスター制作を開始。ツアー同行が出来なくなったアマチュア時代からの相棒コニー・スミスに代わり新たにサポートバンドとなった「ケリー・フォー(Kelly Four)」[#40,43]。実質エディのレコードだったが契約の関係でケリー・フォー名義となった。[1]

参加セッション・ディスコグラフィー[編集]

人物・エピソード[編集]

「男の中の男」(マーティ・ワイルド、英国ロッカー)

「軟弱な部分などひとつとして持ち合わせていない生粋のアメリカン・ボーイ」(ジェリー・ケープハート)

 オフには友人達と釣りや狩猟を楽しんだ。コルト社製45口径バントライン(13インチバレル)を所有し、クイック・ドロー(早撃ち)の腕前は相当なものだった。「彼は素晴らしいギタープレイヤーだったが銃さばきはもっとすごかった」(スナッフ・ギャレット、リバティ・プロデューサー)。「エディは常にバントラインを所持していた」(ジーン・ラッジョ、ケリーフォー)など物騒な話も残っている。[1]

 NMEのインタビュー「スターとしての悩み」に対する答え。「友人と過ごす時間が無い事。僕は休みの時に悪友達と過ごすのが好きなんだけれど会社(リバティ)の広告担当の人はそれを好まない。僕は会社の年配の人も好きなので困るよね。」[1]

 ハンク・コクランの回想。1955年秋、エディとハンクは「ビッグD」出演後突如メンフィス行き思い立つ。結局得るものは何もなく二人を文無しにしただけだった。エディはアンプを質に入れ、ヒッチハイクでカリフォルニアに戻った。冬のある日、二人はエディの兄ボブを尋ねる途中、車がパンクし立往生。数時間後助けに来たボブが見たものは煙が立ち込める車内で仮眠をとりながら意識不明となった二人だった。「彼はギリギリ間に合った。」(ハンク)[1]

ジーン&エディ[編集]

Gene Vincent 1957

 リバプール生まれのハル・カーターは英国ツアーの際、マネージャーとして二人に同行した。「エディは素敵な人物でした。ところがジーンは全く正反対。彼の態度に皆閉口したものです。グラスゴーに向かう途中ジーンは『全く何てひでえ国だ!こんな所さっさとおさらばしたいぜ!なあエディ?』私は思わず『近くに空港はないよ』と言ってしまいました。『なんだと?俺はいつ帰ったっていいんだぜ!』と契約破棄しての帰国をチラつかせるのです。するとエディが低い声で『なあジーン、頼むよ』となだめたものです。グラスゴーに到着しウェヴァリー・ホテルでくたくたになった体を休めた後、私とエディは帝国劇場でのステージに向かうためホテルを出ました。劇場に着くとホテルから激しい電話がありました。『俺の義足を何処へやった!?』ジーンが絶叫しています。神に誓って言いますが私は知りません、ジーンがバスルームに入っている時にワードローブの上に置いてあった義足をエディがどうしたのかは…。大騒ぎになった事は言うまでもありません。」[1]

 シャロン・シーリーの目撃による英国メイフェア・ホテルでの悪戯三昧。「二人は全てのフロアを見てまわり、清掃のために廊下に出されていた靴を洗濯機の中に放り込んでしまいました。それでも遊び足りない彼らは手当たり次第に部屋をノックしだし、中から返事があると『用意はいいですか、ミスター・ヴィンセント?』『OKです、ミスター・コクラン』ドアが開くと二人は中に転がり込んで『My Old Man's A Dustman』[注釈 28]を歌い出すのです。」[1]

グレッチ6120[編集]

 エディ・コクランはキャリア初期にはギブソンL-4Cを使用。ソリッド・スプルースのトップにディアルモンド製ピックアップをマウントしていた。[5]1955年、グレッチ社製チェット・アトキンス・モデル♯6120(シリアルNO.16942)をベルガーデン・ミュージック・センターで購入。[3] フロント・ピックアップをP-90(通称ドッグ・イヤー)に、ピックガードを半透明のものに交換した。ビグスビーB-6はフィックスド・アームと呼ばれる固定式のもの。[11]イギリス公演の際、13歳の少年マーク・フェルドはこのギターをエディの乗るリムジンまで運んだ。後のマーク・ボランである。チッペンハムでの事故現場に駆け付けた若い警官デビット・ハーマンはエディの遺品としてウォルトシャー署に保管されたこのギターで演奏を学んだ。その後ハーマンはミュージシャンに転向、1962年デイヴ・ディー・グループの名で成功を収める。[12][注釈 29]

主要カヴァー・ヴァージョン[編集]

ディスコグラフィー
タイトル アーティスト 国籍 収録アルバム リリース
Summertime Blues Blue Cheer アメリカ合衆国の旗 『Vincebus Eruptum』 1968
The Who イギリスの旗 Live At Leeds 1970
BLACK CATS 日本の旗 CREAM-SODA PRESENTS 1981
Brian Setzer アメリカ合衆国の旗 La Bamba 1987
RCサクセション 日本の旗 Covers 1988
ウルフルズ 日本の旗 ブギウギ'96』*フーのカバー 1996
ギターウルフ 日本の旗 『ジェットジェネレーション』 1999
C'mon Everybody Humble Pie イギリスの旗 『Smokin'』 1972
UFO イングランドの旗 『UFO1』 1971
ルースターズ 日本の旗 THE ROOSTERS 1980
布袋寅泰 日本の旗 GUITARHYTHM 1988
20 Flight Rock The Rolling Stones イギリスの旗 Still Life 1982
Stray Cats アメリカ合衆国の旗 ORIGINAL COOL 1993
Somethin' Else Sid Vicious イングランドの旗 Sid Sings 1979
UFO イングランドの旗 『Mechanix』 1982
Stray Cats アメリカ合衆国の旗 ORIGINAL COOL 1993
Led Zeppelin イングランドの旗 BBCライヴ 1993
My Way The Who イギリスの旗 Odds And Sods 1974
Sittin'in the Balcony 平尾昌章 日本の旗 『平尾とロック』[13] 1958
ミッキー・カーチス 日本の旗 『土曜はミッキーと』[13] 1958
山下敬二郎 日本の旗 『敬ちゃんのロック』[13] 1960

注釈[編集]

  1. ^ a b c Don Deal 1938年アイオワ州カウンシルブラフス生まれ。1952年カリフォルニア移住。地元楽器店でEddieと知り合い親交を深める。1957年以降Era、Captol,MGMにシングルを残す
  2. ^ 2013年にEddie Cochran生誕75周年メモリアル・ライブが催された
  3. ^ 本拠はテネシー州メンフィス、ユニオン通り
  4. ^ 原文ではHankがBo Davisの名で7月録音まで参加としているがHankとDavisは別人
  5. ^ すでにレコード番号55050が割り当てられていた
  6. ^ EddieはCapehartを「Dad」と呼んでいた
  7. ^ 「Jeannie,Jeannie,Jeannie/Party Line」Imperial X5494(1958/Feb.24)
  8. ^ この項「Remember Eddie Cochran」ディスコグラフィーによれば「Summertime Blues」を3月「Love Again」を5月録音としており内容に矛盾があるが、原文は共に5月録音のデータに基づいて書かれている
  9. ^ 「I Remember」の歌唱も撮影されたが編集でカットされた
  10. ^ Capehartはイギリスツアーにも行動していない
  11. ^ Marty Wildeのバックバンド
  12. ^ Sharonは20歳の誕生日(1960年4月3日)をEddieと祝うため訪英していた
  13. ^ 4曲入りEP,61年以降のシングル,87年以降のLPは割愛した
  14. ^ 4曲入りEP、64年以降のシングル、72年以降のLPは割愛した
  15. ^ 1960年代にはPhil Spectorがウォール・オブ・サウンドを完成させThe Beach Boysが『Pet Sounds』を制作する
  16. ^ 当時発売されたシングルのみ記載、ヴォーカルでの参加を含む。
  17. ^ 片面だけ参加は1曲のみ記載
  18. ^ a b Jack Lewis 1928年テキサス州ダラス生まれ。40代後半カリフォルニアに移住、音楽活動を始め1946年American Musicのためのデモを制作、Ray Stanley と共に同社の専属ライター、A&Rマンとなる。自己名義でCrestに4枚のシングルを残す
  19. ^ Jess Willard 1916年テキサス州ウォッシュバーン生まれ。ボクシング世界ヘヴィー級チャンピオンにちなんで名付けられた。1950年Capitolと契約、7枚のシングルの後、ツアー同行など旧知の間柄だったCochran Brothers をバックに録音を行った。1959年没
  20. ^ a b c Ray Stanley 1924年アーカンソー州ダーモット生まれ。Stanley作曲「グレンドラ」(ペリー・コモ)が1956年5月が全米トップ10のヒット。Eddie Cochran初期録音「Skinny Jim」、「Half Loved」等でピアノを弾いている
  21. ^ a b c d 1935年生まれ。Eddieのアマチュア時代からの音楽仲間、EddieとHank Cochranを引き合わせる
  22. ^ Riley Crabtree(1912~1982) 年テキサス州マウント・プレザント生まれ。1950年コロンビアと契約後ダラスのカントリー番組「ビッグD」のレギュラーに。Ekko(1955)、Countr Picnic(1957)、Security( 1959)に録音あり
  23. ^ Lee Denson(別名Jesse James ) (1932~2007)ミシシッピ生まれ。メンフィスに移住し当時13歳のElvis Presleyにギターを教える。1957年Johnny Burnette にEddieを紹介されVikから2枚のシングルを発売。58年以降Kent、Merri、Enterpriseに録音。 Elivis Presley「Miracle of the Rosary」(1972)を作曲
  24. ^ Daret Daret(別名Patty Saturday)1937年に生まれ。ボブ・ウィルズ&テキサス・プレイボーイズのメンバーとして西海岸で活動。後フィラデルフィアに移住、1958年から59年スワン・レーベルにシングル3枚を残す。
  25. ^ American Music経営者シルヴェスター・クロスの姪
  26. ^ a b The Kelly Four Mike Henderson(saxophone )、Mike Deasy(guitar)、Dave Shriver (electric bass)、Gene Riggio (drums )
  27. ^ John Ashley 俳優、歌手。Eddieがサウンドトラック制作に参加した「Hot Rod Gang」(1958)主演
  28. ^ Lonnie DoneganのNo.1ヒット
  29. ^ 現在、オハイオ州クリーブランドのロックの殿堂に展示されている

出典[編集]