エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ
Étienne de La Boétie
エティエンヌ・ド・ラ・ボエシの彫像。
サルラ=ラ=カネダ、2016年撮影。
生誕 1530年11月1日
フランスの旗 フランスサルラ=ラ=カネダ
死没 1563年8月18日(1563-08-18)(32歳)
フランスの旗 フランスボルドー
テンプレートを表示

エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ[1]フランス語: Étienne de La Boétie [etjɛn də la bɔesi] ( 音声ファイル)、また[bwati][bɔeti][2]1530年11月1日 - 1563年8月18日)は、フランス裁判官人文主義者エティエンヌ・ド・ラ・ボエティラ・ボエシーと表記されることもある。

略歴[編集]

サルラ=ラ=カネダ生まれ[1]。両親とも法官貴族の家系であったが、早くに孤児となり叔父に養育され、父と同じ法官の道を歩んだ。

オルレアン大学に進み、法学人文学を学んだ[1]。オレルアン大学の卒業論文として、23歳の頃に『自発的隷従論』を執筆した。(親友であるモンテーニュは「16歳」「18歳」の頃の著作と述べているが、実際には大学卒業時の23歳の時である。堀田善衞著「ミシェル城館の人 第1巻」より)

「圧制は支配される側の自発的な隷従によって永続する」という支配・被支配構造の本質を見抜いたとされる[1]。この論文は筆稿として当時の知識人の間で広く読まれた。後にも大革命時の1789年や1792年にも新刊が出された。

1554年ボルドー高等法院に評定官として着任。1561年1月に出されたオルレアン寛容勅令に対しては「混乱を招く」とし、建言書「正月勅令に対する意見書」を執筆した。ボルドー高等法院同僚のミシェル・ド・モンテーニュと親交を深くした[1]

1563年8月18日、ペストとみられる病症で死亡した。詩人、翻訳家、著作家としてパリにも名を知られる存在であった。臨終の床でモンテーニュに「死はそれほどに悪いものではないさ」と語り、自分の死を悲しむ人々に逆に慰めの言葉をかけつつ死去した。

著作[編集]

1549年に出版された『自発的隷従論』
  • エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ 著、山上浩嗣 訳『自発的隷従論』西谷修 監修・解説、筑摩書房〈ちくま学芸文庫 ラ-11-1〉、2013年11月6日。ISBN 978-4-480-09425-4  - 注釈:付論 「服従と自由についての省察」(シモーヌ・ヴェイユ)、「自由、災難、名づけえぬ存在」(ピエール・クラストル)。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e 『自発的隷従論』エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ著, 西谷修監修, 山上浩嗣翻訳”. 筑摩書房. 2017年6月4日閲覧。
  2. ^ Paul Bonnefon (1892). Œuvres complètes d'Estienne de La Boétie (Bordeaux: C. Gounouilhou, and Paris: J. Rouam et Cie.), pp. 385–386.

関連文献[編集]

外部リンク[編集]